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地上15階のチキンラン

人間、50年近く生きていれば、何度か死にかけたことがあるものだ。
私が死に最接近したのは、中学1年の夏だった。
15階建ての高層ビルの屋上から落下しかけたのだ。
それも、たった100円のために。

私が育った名古屋市北西部の町には、日本初の高層アパートがあった。
「又穂団地」がそんな大層な代物とはこちらのブログを見るまで知らなかった。建ったのは1967年らしい。私が生まれる5年前だ。

15階建ての1号棟は学区内で断トツの高層ビルだった。2号棟が12階建て、3号棟が8階建て。3棟合計で1000戸くらいある大規模な団地だ。
私が通った小学校のすぐ裏にあり、敷地内に公園、幼稚園、スーパー、ひところはプールまであった。
ボロ借家暮らしの私は、住んでいる友達がうらやましかった。所得制限ありの公団で、実は造りも立派ではなく、住民にはおかしな連中もいた。
それでも「あんな高いコンクリート造りのビルに住むなんて、どんな気分だろう」と憧れた。

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(右手前が1号棟、左手前が3号棟、奥が2号棟。前述のブログより)

又穂団地はすべての棟が屋上に出られた。各部屋にベランダがなく、屋上が物干し場という無茶な設計だった。実際にはシーツなど大物を除けば普段、物干しに来る住民はほとんどいなかった。

バカと煙は……

人目の届かないビルの屋上なんて、不良の格好のたまり場になるに決まっている。
バカと煙は高いところにのぼるのだ。
中1のころ、良からぬ連中と親交を深めた私は、毎日のように「又穂の屋上」に入り浸っていた。この育ちが悪い自慢みたいな投稿で最後に少し触れたのはこの団地だ。

(写真は違うビル。やはりバカと煙は……)

他の連中と違ってシンナーもタバコもやらなかったし、女の子といちゃつくようなこともしなかった。今思うと、なぜこの屋上でつるんでいたのか、よく分からない。

私が求めていたのは解放感だったのだろう。

家庭は、平和だったけれど、閉塞感を感じるに十分なほどは貧乏で、学校は荒れに荒れていた。
読書量は多く勉強も得意だった私は屋上の常連の中では「知性派」だったが、世間一般の基準ではただのバカだった。
先が見えないバカな少年はどん詰まりの肥溜めに自ら頭を突っ込んでいた。

「又穂の屋上」で寝転んで雲一つない青空を見上げていると、網膜に走る痛みとともに、世界のどこにも自分が属していないかのような解放感があった。

(地球が回っている……)

ゆっくりと雲が流れる雲に、そんな錯覚が湧き上がった。

15階建てのビルの屋上から、カレンダーの大きな紙で紙飛行機を作って飛ばした。厚手の翼が風をとらえ、それは隣の小学校を飛び越えていった。

一度、なぜか「もう、飛び降りちゃうか」と思い立って、夕方に屋上に一人で行ったことがもあった。
あと一歩の状態で数分過ごして「やめとくか」と家に帰った。
何かがあったわけでもない。思春期のガキなんて不安定なものだ。
この団地からの飛び降り自殺の一番人気は、なぜかもっとも低い3号棟だった。私もその時はあまり出入りしない3号棟に行った。「死にたいけど、高すぎると怖い」という、奇妙な心理を知った。

屋上の常連のバカどもは備え付けの消火器をぶちまけたりと悪事を繰り返し、団地内の交番の警察官に追い立てられることもしばしばだった。ちょっとここでは書けない危険で不愉快な事件もあった。

それでも、私は「又穂の屋上」で過ごす時間が好きだった。

ハイリスク・ノータリン

この溜まり場でやった愚行の最たるものがハイリスク・ノーリターンの度胸試しだった。
1号棟には屋上の外壁に幅1メートル弱の庇が張り出していた。長さ数メートルの9個の庇の間には、1メートル弱の隙間があった。
この庇にはわりと簡単にのぼれた。さすが昭和、ガバガバだ。

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この庇の隙間をジャンプするのが流行った。ありがちな度胸試しだ。
庇は厚いコンクリート製で、飛び跳ねてもぐらつくことはない。隙間も広くはない。
だが、それを地上15階でやるとなると、なかなか痺れる。
なんといっても、この高度感だ。

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私は、家業の手伝いで高所に慣れていたのもあって、怖いとも思わず、ヒョイヒョイと隙間を飛び越えられた。
できない奴は当然、できない。そうするとバカにされる。

でも、こんなことは、やる方がバカなのだ。着地が狂ったら即死だ。
実際、足がすくんで危うく、となったヤツもいた。

これがエスカレートしたのが「ハードル飛び」。端の庇から反対まで、ハードル走の要領で隙間を飛び越えていく。
正気の沙汰ではない。
ハイリスク・ノーリターン、なんてもんじゃない。
純度99.99%の超ハイリスク・ノータリンだ。

夏休みのある日、1号棟の屋上で数人でたむろしていた。
私はお気に入りのスポット、庇が取り付けられている塀の上で横になっていた。そこに寝そべると、視界のほぼすべてが「空」になる。

庇は東側と西側、両方にそっくり同じものがあった。私は西側、東側には湯浅(仮名)という友人がいた。
ファニーフェイスの湯浅は、オシャレ好きの気のいい奴だった。
暴力沙汰は嫌いで、女の子にモテたいからヤンキー方面に寄っているというタイプだった。

湯浅も私と同様、お調子者で、高い所が全く怖くないやつだった。

チキンラン、開幕

寝ころんでいた私に反対側の湯浅が叫んだ。

「高井っちゃん!向こうまで、競争しようぜ!」

私はむくりと体を起こすと、叫び返した。

「負けた方がジュースおごりな!」

こうして賞金100円、命を懸けた地上15階のハードル走が幕を開けた。
下の物干場にいた仲間の1人が号令役を買って出た。

「いちについて! よーい! ドン!」

数メートル、そろそろと走って、最初の隙間を飛び越える。
視界のはるか下に、地上が見える。
高揚感が胸に広がる。恐怖には中毒性がある。

数歩進めむ。すぐ次の隙間だ。
最初より勢いよく飛ぶ。

3つ目。
段々とスピードが乗り、数人の「見る阿呆」から歓声があがる。
高い空に雲が浮かぶ夏らしい日で、風はほとんどなかった。

私は気づいていなかった。
これはチキンランだった。
度胸試しという意味でも、「どうやって勝つか」という意味でも。

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4つ目。これで半分。
横眼でとらえた湯浅は、ほとんど並んでいた。
微妙な勝負だ。負けたくない。
ペースをつかめんだ私はグンと加速した。

5つ目。
まるで地上を走り、飛んでいるかのようなスムーズなジャンプ。
あと3つ「ハードル」を超えればゴールだ。

6つ目。
スピードに乗って着地した瞬間、強い恐怖が背中を駆け上がった。

このスピードでは、止まれない!

庇は残り2つ。
スローダウンするスペースは限られている。
急ブレーキをかけたら足元が狂って転ぶか、ジャンプに失敗しそうだ。

ここまで来て、ようやく気づいた。

これは、チキンランだ。

アクセルの踏みこみではなく、「崖」のギリギリ手前で止まるブレーキのコントロールを競うゲームだったのだ。
なのに、私はアクセルを踏み、そこに足をかけたままだった。

7つ目。
頭は真っ白で、減速もできないまま勢いよく飛び越えてしまった。

生死を分けた決断

残りは1つ。
普通に減速しても、止まれない。
スライディングの要領でブレーキをかける?
いや、バランスが狂えば庇から滑り落ちる。
一か八か、飛び越えた瞬間に、倒れこむ?

いや、違う。

8つ目。
「崖」まで残り数メートル。
その先に落差15階分の奈落が待っている。

私はここで、さらに加速した。
ブレーキではなく、アクセルを踏んだ。

そしてその勢いをいかして、右側にジャンプした。
庇部分と塀の上部には、50センチほどの段差があった。
塀の上は幅50センチほどで着地点は狭かった。
地上15階という高度が、その飛躍を超がつく高難度のものとしていた。

それでも私は超高難度のジャンプに成功した。
塀の上に着地した後、三段跳びの要領で屋上の物干し場に飛び降りた。
2メートルほどの高さから落ち、コンクリートの上に倒れこんだ。

最後に加速していなかったら塀に飛び移るという選択はとれなかった。
私はあそこで死んでいただろう。

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そう、人生には、ブレーキが安全に見えても、アクセルを踏み込んだ方が助かる場面があるのだ。
あそこでアクセルを踏んだから、私は50センチの段差を越えられたのだ。

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倒れこんでしばらくして、笑いが止まらなくなった。
恐怖は、一線を越えると、笑いへと変わることがある。

「ゴーディ、おれはだめだ、うううーっ、くっそおっ!」
「速く走れ、ぽこちん!」わたしはこの状態を楽しんでいるのだろうか?
そうーーかつて完璧に徹底的に酔っぱらったときに経験したように、ある異様な自滅的な感覚で、わたしはこの状態を楽しんでいた。特に優秀な牛を市場に追っていく家畜商人のように、わたしはバーン・テシオを追いたてた。そしてまたバーンも、まったく同様に自分の恐怖を楽しんでいた。牛と寸分たがわぬような鳴き声をあげ、泣き言を言い、汗びっしょりになり、大車輪で鉄を打つ鍛冶屋のように、胸部をふくらませて、へこませて、ぎこちない足さばきで体を前傾させて走っている。

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列車の音が格段に大きくなり、エンジンの音が深まって規則正しく聞こえている。わたしたちが信号の旗にスラグを投げつけて遊んだ踏切を渡るとき、列車は警笛を鳴らした。気に入ろうが気に入るまいが、わたしたちはついに、地獄の犬に追われているのだ。
『スタンド・バイ・ミー』(スティーブン・キング)

地上15階のチキンランの勝者は私だった。
湯浅にジュースをおごってもらったかどうかは、記憶にない。

もう戻れない場所

就職で上京した後も、帰省すると私はいつも又穂団地に立ち寄った。1号棟を見上げて、チキンランを思い出した。
あの屋上で起きた様々な出来事、良いことも悪いこともひっくるめて、自分の中学時代のある部分を占め、その後も重い意味を持ってきた体験をよみがえらせるために、この団地をひとつの手がかりのようにしてきた。

ロンドンへの赴任を控えた2016年の冬。
いつものように又穂に立ち寄った。
ふいに、

(屋上からの風景を、もう一度見たい)

そんな想いにとらわれた。
中学卒業以来、30年以上の時を隔てて、古ぼけた団地のエントランスをくぐりった。

「R」のボタンを押すと、ひと揺れの後、旧式のエレベーターがゆっくりと動き出した。
屋上のエレベーターホールに出てみると、物干し場へ続くドアは施錠されていた。格子柄の針金入りの曇りガラスで外の様子すらうかがえない。
私は肩をすくめてエレベーターに戻り、地上に降りた。

老朽化した又穂団地は数年内に取り壊される予定で、今は退去が進んでいる。私が人生で最も死に接近した場所、今の私の一部を形作った場所は、もうすぐ失われる。

そのことにまったく感傷を覚えないと言えば嘘になる。
今は全く無縁と言えるような場所でも、それが物理的に消えることには、自分自身の一部が葬られるような喪失感がある。

だが、こうも思う。
それは「又穂の屋上」だけに当てはまることではないのだろう、と。
過去も、未来も、ときにはその中のかけがえのないように見えるものでさえ、自分から遠ざかっていくことはあるのだから。

(画像・引用元)
郷土を愛そう・歩こう!ウォーキングブログ
『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』(福本伸行)
『スタンド・バイ・ミー』(スティーブン・キング 山田順子訳 新潮文庫)
『Stand by Me』(Rob Reiner ,1986)

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