「子育て本」なんて、書けない。
よく「高井さん、『子育て本』を書いたら?」と言われる。
私の答えはいつも同じだ。
「わざわざ本に書くようなこと、何もないです」
これは本音だ。
子育てやら教育やらについて、高井家には特別なことは何もないと思う。
普遍的な秘訣やノウハウめいたものも、何もない。
三姉妹はそれぞれ愉快で「やるな、キミたち」という人たちだ。
それは「子育て成功」ではなくて、たまたま愉快でなかなかやりよる人たちが、私の娘なだけだ。
「好きにしろよ」「知らんがな」
冒頭からありきたりで恐縮だが、我が家の基本方針は自由放任だ。
私は放し飼いとか放牧と言っている。
私も奥様も、三姉妹に「もっとはやく寝な」と「ちょっとは片付けな」以外に「何かしなさい」といった物言いをすることは、ほぼない。
このふたつも、ほぼスルーされる。
万事その調子なので、三姉妹は身の回りの整理やら、あれこれ実務面ではかなり残念な人たちだ。私自身もとても残念な人なので、何か言う資格はない。ちゃんとしているのは奥様だけだ。
三姉妹に「勉強しろ」と言ったこともない。
受験や進路について、私の口癖は「好きにしろよ」と「知らんがな」だ。これらと「よく調べて、自分で決めな」がセットになっている。
それ以外、言いようがないじゃいか、と思う。
彼女たちの人生は、当たり前だけど、彼女たちのものだ。
最後に責任を持つのも自分自身だ。
求められれば意見は言うけど、大事なことほど自分で決めた方がいい。
いや、自分で決めるべきだ。
三姉妹は今年で23歳、20歳、17歳になる。ほぼ全員「大人」だ。
いよいよもって「知らんがな=自分で人生を切り開いてください」である。
それ以外、言いようがない。
優秀だから放任できる?
こういう話をすると、こんな反応が返ってくることが多い。
「それは、お子さんが優秀だからできるんですよ」
そんなとき、私は心の中でこう返事する。
(あの人たちは立派だと思うけど、ソレとコレは関係ないよ)
話すと長くなるし、角がたつかもしれないので、口には出さない。
ご参考まで、長女と次女の受験記録のnoteを。立派な人たちです。
三女も大学受験記を書くかもしれない(本人がOKなら)
上記の『ウサギをめぐる冒険』に私はこう書いた。
ここにすべて書き尽くしている。特に最後の一文。
心身ともに、健やかに。
これが最優先課題というか、これくらいしか「親がやれること」はない。それも、できる範囲でしか、やれない。
心身のうち、フィジカルな健康の維持は奥様のご尽力によるところが大です。詳しくはこちらを。
「心の健康」については後半に書きます。
話を「優秀だから放任できる」に戻します。
そう受け止める方々とは、子育てというか「子どもが大人になるプロセス」の捉え方がちょっと違うのかもしれない。
私は「親のできることなんて大したことない」派だ。
親が子どもに与える「良い影響」など、たかがしれていると思っている。
自分を振り返ってみてほしい。
友達や先輩・後輩、先生、好きな作家やアーティスト、本、映画、音楽といった「外部」の方がはるかに影響は大きかったのではないだろうか。
なにより「自分は何者だろう」「どんな人生を歩みたいのだろう」という自問が、その人を作る。
このプロセスに、親がプラス方向に強く働きかけることは難しい。
関与しようとしても、空振りするか、逆効果になりかねない。親は子に対する権力者になりうるので、「マイナスの関与」は割と簡単にできてしまう。
「プラスの関与」のひとつに環境整備がある。
たとえば我が家にはたくさん本がある。本棚がひとつもなかった家で育った私は、我が子がうらやましい。
でも、これは単に私が本好きなだけで、教育的効果を狙った部分は1割もない。
そして、どれだけ本をそろえたって、読むかどうかは、子ども次第だ。
水場に馬をつれていけても、馬に水を飲ませることはできない。
できるのは、せいぜい「待ち伏せ」までだ。
知育玩具や早期教育教材などのコンテンツで環境を整えるのは、何かとプラスの効果があるのだろう。
一方でそれは「正解がある世界」に早めに子どもを誘導しすぎてしまうのでは、とも感じる。それは幼稚園、小学校の段階で「良い友達」に恵まれる場所を選ぶこと、いわゆる「お受験」にも通じる。
殿上人として一生を終える階級の方々はそれで良いのかもしれない。
でも、大人になって「正解なんてない世界」である実社会に参加する予定なら、「純粋培養は危ういのでは」と思ってしまう。
私自身の育ちが悪いから、この見方はバイアスがかかっている気もする。
親の手柄ではなく、ただの結果
我が家の放任主義に話を戻す。
子どもが何をしようと、結果がどうなろうと、それは親の手柄でもなければ、手落ちでもない。
これが「あの人たちは立派だと思うけど、ソレとコレは関係ないよ」の真意だ。
娘たちは自分で人生のコースを選んで、山積みの問題集やら大量のデッサンやらと格闘した。
親は参考書や画材の費用を払っただけだ。模試の結果や、持ち帰ってきた作品をみて、「すごいねー」「キミ、やるなー」と感心していただけだ。
子育て世代のご関心が強い塾事情について書いておこう。
三姉妹は中学受験対策のため、小6の1年間だけ学習塾に通い、首尾よく3人とも同じ都立中高一貫校に受かった。
高校時代に2年ほど美術予備校に通った次女が例外で、それ以外はほぼ塾や予備校のお世話になっていない。東京の受験事情からすると軽装備だろう。
これは、我が家の方針、ではない。
塾・予備校に行く、行かないを決めたのは娘たち自身だ。
「行きたい」と言われて家計に余裕があれば(これ大事)、どうぞ、となる。それだけのことだ。
受験絡みの我が家の特殊要因は「お父さん問題」だろうか。私が編み出した都立中高一貫校の受験対策の独自プログラムだ。詳しくはこちらのnoteに。
ここで仮定の話をしてみる。
もし、長女や次女が努力を怠っていたら、私は何らかの関与をしただろうか。「もっと勉強しろ」とか「偏差値上げろ」とか「絵の才能を伸ばせ」と発破をかけただろうか。
私は、そんなことは絶対しない。「仕上がり」を親が左右できるとは思えないからだ。結果的に不本意な道を進むことになっても、それは彼女たちが選んだ道だ、と思うしかない。
塾に行かせる。
スポーツをやらせる。
楽器をやらせる。
絵を描かせる。
何であろうと、「やる気もないのに何かをやらせる」のは、やる方も、やらせる方も、ストレスがたまるし、モノになるとも思えない。
この世には「自分でコントロールできること」と「コントロールできないこと」がある。後者をコントロールしようとするとろくなことにならない。
私は「子どもがどう育つかは、ほぼコントロール不能」と考えている。
「我が子により良い人生を」と望む気持ちは人並みにある。人並み以上、かもしれない。
でも、できないことはできないんだから、しょうがない。
我が家の「コントロールできなかったのにやっちまった」例を挙げよう。
三姉妹に「やる気もないのに何かやらせた」例外中の例外が、運動だった。何をやるにも土台は体力だから、過剰介入を試みた。
長女と次女は「4泳法をマスターするまで」という条件でスイミングスクールに通った。三女は残念ながら水泳は体質が合わなかった。
半ば以上強制だったので、長女と次女は見事に水泳嫌いになった。4泳法をマスターしたらすぐ通うのをやめた。
続いて、中学に進学した長女に「体育会系の部活に入ること」を求めた。これは私の子育て史上、最大の過剰介入だったと思う。
結果的に長女は中高と楽しく運動部を続け、三姉妹でもっとも体力のある人になった。
続いて中学に進んだ次女は私の過剰介入を華麗にスルーし、美術部に入った。それが藝大合格までつながったのだから選択としては悪くなかったのだが、運動からは大きく遠ざかった。今、大学生になって「体力なくて、やばい」とプールに通いだし、「水泳やっててよかった」と一周回って感謝されている。
一番運動不足気味な三女は、体力面でかなり不安を抱えている。
次女と三女の体力不足を私が「後悔」しているかと言えば、それはちょっと違う。「あーあ」とは思う。でも、その道を選んだのは彼女たち自身だし、まだリカバリー可能な年齢だから「自分で何とかしなよ」という話でしかない。たまに「もうちょい、運動でもしたら?」くらいのことは言うけれど。
「もっと」には際限がない
いま、「子育て」には過剰なプレッシャーがかかっている。「子どもの可能性と才能を最大限に伸ばしてあげるのが親の責務」という空気が強まっているからだ。塾や習い事、未就学児のうちの英才教育、果ては「胎教」まで、「やろうと思えばできちゃうこと」はたくさんある。
そこにエネルギーを注ぐのは、子どもの意志が尊重されるなら、素晴らしいことだと思う。
でも、親には親の人生があり、リソースには限界がある。
親は子どものために人生の相応の部分を割くものだけれど、「全振り」に近くなるのは、ちょっと違うのではないか。子どもにも重圧になるだろう。
「もっと小さい頃から」「もっと良い環境で」「もっと良い友人関係をもって」「もっと良い教育・体験を」という路線の「もっと」には、際限がない。
自慢にもならないが、そんな家柄も、余裕も、お金も、時間も、我が家にはない。「貴族じゃないんだから、無茶言うな」という気分である。
ちなみに私が昔から娘に言う定番のセリフは「国公立でお願いします!」だ。いろいろな状況証拠から、娘たちも「私立はせいぜいひとり、2人だとヤバい」みたいに財政状況を把握しているようだ。だいたい合ってる。
次女が藝大に受かった瞬間、三女は「これで私、ワンチャン、私立もアリでは!?」と笑顔で叫んだ。
私はすぐさま「国公立でお願いします!」と笑顔で返した。
成熟せよ
放牧主義者の私だが、「子育て」として、やんわり、じんわり、でも意識的に娘に伝えようとしてきたことは、ある。
それは「きみたちもいつか大人になるぞ」という当たり前のこと、「世の中、一筋縄ではいかんぞ」という、これまた当たり前のことだ。
強引にメッセージとしてまとめれば「成熟せよ」となるだろうか。
そんなものが説教や教育、指導で伝わるはずはないし、そもそも、放っておいても社会経験を通じて身につくはずのことではある。
だから、あくまで私がやったのはアシストでしかない。
たとえばマンガは「大人の階段」をのぼってもらう手助けになる。
無論、「楽しい」がマンガを読む理由の99.9999%だ。あと100個、9をつけてもいい。
でも、そんな魅力的なコンテンツだからこそ、ツボに入れば親の言葉など問題にならないほど強い影響力をもつ。皆さんも、影響を受けたマンガや名セリフがあるだろう。
世間知を学ぶツールとして、テーブルゲームも楽しくて強力なツールだ。
このnoteで私は以下の3つの効用を挙げた。
1 対人の駆け引き
2 トレードオフへの対処
3 「良き敗者」になること
私自身はこの世間知を麻雀から学んだ。
1が大事なのは言うまでもないだろう。
2のトレードオフ(あちらか、こちらかの選択)の判断の基礎は確率だ。
期待値の見積もりや「勝負所」の見極め、予想外のレアケースへの備えを含め、肌感覚でトレードオフへの対処を知っておくのは、人生のいろんな場面で役に立つ。
3の「良き敗者になること」もスポーツやゲームを通じて身に着けておいた方がいい心構えだ。
娘たちが「これさえあれば大丈夫」という自分の世界をもてるように、という視点も意識したことだ。三姉妹にとって「お絵描き」はそんな心の拠り所になっていると思う。そうした自分のなかの柱が生き抜く力(resilience)につながると私は信じている。
リンクを開く人は少ないだろうから、上記noteからも引用しておく。
人生、何もかも、うまくいくわけもない。
大怪我しないで浮世を渡っていけるよう、自分で自分なりの世間知を身につけていくしかない。
私の狙いが、どれだけしみ込んだかはわからない。
ふたたび、親の影響なんて、そんなモンだから、仕方ない。
フラットな「人間関係」
次に心の健康について書く。モヤっとした話です。
先日、娘にだしぬけに「ウチの親のこと、友達から羨ましがられる」と言われた。私が「羨ましいも何も、なにもしてねーじゃねーか」と笑うと、「それ! 何もしない、言わない! それが、ナイス!」と笑われた。何もしなくて感謝されるなら楽なもんだ、と思ったものだ。
何も強制されないし、うるさく注意されたり、怒られたり、怒鳴られたりもしないし、夫婦喧嘩、姉妹間の言い争いもない。
我が家はとても平和で、娘たちにとって、居心地の良い空間だろう。
なお、物理的には、そうでもない。誰も個室はなく、壁は本棚で埋まり、モノがあふれ、どの部屋もカオスだ。東京で5人家族は、きつい。
誰も個室を持たない民主的ウサギ小屋なので、自宅にいる間、家族はリビングで過ごす時間が長い。そうすると、何というわけではなく、雑談が飛び交う。何かをきっかけにけっこうな議論にまで発展することもある。
あえて言えば、「我が家の子育て」のエッセンスが凝縮されているのは、この「家族間の会話の在り様」だと思う。
5人はほぼ完全にフラットな立場で会話をする。両親には、呼び捨てにはされず、ニックネームが使われる程度の敬意が払われる。三姉妹は互いに完全に「ため口」である。私は勢いで娘を「お前」と呼んでしまうことがあるのだが、すぐに「お前、はいかんな。すいません。キミ、でした」と謝る。
それが成立するのは、普段から、「親子関係」というより、人間関係としてほぼフラットだからだ。
「友達のような親子」という表現があるけれど、私は半ばくらい本気で、娘たちを「若い友達」だと思っている。
親としての立場を意識するのは、アレコレと発生する案件でお金を出す、出さないという話をするときくらいだ。よほど高額じゃない限り、アレコレに、ホイホイとお金を出してしまう。
それは、甘い父親だから、でもあるが、私が三姉妹のファンだからだ。
ファンとして、親しい若い友達のスポンサーになる。
大人にとって、これほど楽しい「趣味」はなかなかない。支援に対しては、愉快な体験談や、建築模型やアート作品などの形でリターンが得られる。クラウドファンディングと同じような感覚といってもいい。
なお、純粋な遊びや外食、服・化粧品などオシャレ関係は、支援対象外となっております。自前でなんとかしてください。
機嫌の良い人たち
フラットであることと同じくらい、我が家の平和に貢献しているのは「機嫌が悪い人がいない」ことだ。
友人知人ならご存じの通り、私は笑ってばかりいる人間だ。
家族で一番口数が少ない奥様は、いつもニコニコと聞き役に回る。
三姉妹も機嫌が良い人たちだ。イラっとしている気配がしたかと思うと、すっと別室に消える。言い争うくらいなら立ち去るタイプの人たちだ。
この文章の前の方で私は「心身ともに、健やかに」を後押しするくらいしか親にやれることはないのでは、と書いた。
「ウチに帰れば、心身ともに快適な『居場所』がある」
家庭を、娘たちがそう思える場にする。
そのためには「コレをやらねば」よりも、「コレはやらない方がいい」の方が多い。つまり、放任・放牧の方が「平穏」と相性が良い。
「コレはやったほうがいい」のは、「おはよう」「おやすみ」「いってらっしゃい」「気を付けて」「おかえり」「ありがとう」「ごめんなさい」「ごはん、おいしい」といった当たり前の言葉を、ちゃんと口に出すことくらいだろうか。
あるいは、「やあ〇〇さん」とお互いに声をかけるとか。
あるいは、たまには一緒にNetflixやアマプラを見るとか。
あるいは、一緒に「マリカー」や「スマブラ」をやるとか。
あるいは、ネットで見つけた変な動画を見せあっこするとか。
あるいは、お互いが読んだ本、マンガの話で盛り上がるとか。
あるいは、見るべきアニメ、YouTubeの情報を交換するとか。
あるいは、お父さんの下手なギターにあわせて一緒に歌ってみるとか。
「それ、列挙するようなことか」とあきれている方は、正しい。私もそう思う。ズラズラと並べた「あるいは」は、しょうもなくて、普遍性なんて、何もない。
「ノウハウ」になんて、できない
こうして、話は最初に戻る。
だから、私には「子育て本」なんて、書けないのだ。
「子育て本」は、ノウハウ本の一種と考えて良いだろう。
親子という関係性は同じかもしれない。でも、どの親も、どの子供も、千差万別の個性をもった人間なのだ。
パターン化なんてできるはずがない。
「我が家はこうしてますよ」という話はできる。
でも、「だからうまく行っています」なんて話ではないし、「こうしたら良いですよ」なんて話では、決してない。
くどいけれど、娘たちが自分の望む道に進めているのは、自分たちの選択の結果でしかない。
「その選択ができる時点で恵まれているし、その環境を与えているのは親だ」というご意見には、元ヒルビリーとして、大いに賛同する。若き日の私自身より、娘たちは恵まれたカードを配られていると感じる。
それでもなお、そのカードでゲームをプレイしているのは娘たちだ。「人生、楽勝」というほどスタートが恵まれているわけでもない。なんといっても、父親の口癖が「国公立でお願いします!」なんだから。
隗より始めよ
ずいぶん長文になってしまった。
しかも読者にとって「読んだ時間を返せ」と言われそうな代物になってしまった気がしてならない。
それでも、「子育て本なんて、書けないです」の真意を知ってもらうため、このテーマを一度はまとまった文章にしておきたかった。
「読んで損した」と思った方への罪滅ぼしというわけではないが、最後に過去のnoteから、具体的ノウハウをひとつだけ、シェアしておきます。
うん。アホな親子の紹介でしかないな。ご容赦を。
ご愛読ありがとうございます。
投稿はツイッターでお知らせします。フォローはこちらから。
異色の経済青春小説「おカネの教室」もよろしくお願いします。
無料投稿へのサポートは右から左に「国境なき医師団」に寄付いたします。著者本人への一番のサポートは「スキ」と「拡散」でございます。著書を読んでいただけたら、もっと嬉しゅうございます。