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父を送る

父が九月三日に亡くなった。八十二歳だった。

二日 深夜の電話

二日の夜遅くに帰宅した私は、居間でビールを飲んでいた。毎週金曜のテレビ出演の後、生放送でうわずった神経を落ち着かせる一杯が癖になった。
日付がかわったころ、スマートフォンの画面に兄の番号が浮かんだ。
兄夫婦は次女の通う東京藝大の学園祭にあわせて上京していた。約束していた翌日の昼食の件か、それにしてもこんな夜中に、と不審に思いながら電話に出た。

「いま、母ちゃんから連絡があった。父ちゃんが危ないらしい」

兄は早朝の新幹線で名古屋に戻るという。
電話を切り、たまたま全員起きていた家族に「おそらく、もうダメだろう」と伝えた。

二日の夜、母は午後九時ごろに就寝し、父は隣室でひとりでテレビを観ていた。父が床につくとき、母は一度目を覚ました。時刻は十一時過ぎだったという。
その約一時間後、物音がして、母はまた目が覚めた。
隣に目をやると、父はベッドサイドに両足をおろしたまま、布団の上に仰向けに倒れていた。母が頬を叩いても、目を見開いたままの父から返事はなかった。心臓はもう止まっていた。
その後、救急車で市内の病院に搬送され、午前二時ごろ死亡が確認された。車で一時間ほどの距離に住む次兄が駆けつけたが、間に合わなかった。

病院で最終確認となったが、父は自宅で倒れた時点で事切れていたのだろう。遺体はすぐに斎場に移され、次兄が朝まで母につき添った。

兄からの一報の後、私は続報を待ちながら、ちょうど二か月前に会った父の姿を思い出していた。
父は男ふたり女三人の五人姉弟の次男で、長姉と長兄はかなり前に故人となっていた。今年七月に父より三つ年上の姉が亡くなった際、私は葬儀に参列するため帰省した。
父は二年前の自損事故で負った怪我の後遺症で、立ち居が不自由になっていた。リハビリに励んでいたが、ひとりで出歩くのは難しく、母と一緒に買い物に行くくらいしか外出することもなくなっていた。
仲の良かった姉の死がこたえたのか、父の背は一段と曲がり、一回り小さくなったように感じた。葬儀の間は椅子から崩れ落ちそうな様子で、八事の火葬場では借りた車椅子を私が押した。
収骨が終わり、父と母は兄の車で帰宅し、次兄が私を名古屋駅に送ってくれることになった。
別れ際にカメラを向けると、父は定番のVサインをしてみせた。
それが最後の別れとは知らず、私は「父ちゃん、またな」と見送った。

午前二時ごろ、兄からの電話で父の死を確認した後、家族と深夜三時過ぎまで思い出話をした。その後、シャワーを浴びて床についた。

三日 帰省

朝九時過ぎに起きると、ほとんど徹夜した兄が四日通夜、五日葬儀と手配を済ませてくれていた。先に東京を立った兄に、午後三時の枕経にあわせて名古屋に行くと伝え、身支度や仕事関係の連絡に追われた。

週末で混み合う東京駅は蒸し暑く、マスクの下に汗がにじんだ。
新幹線の車中でも慌ただしく連絡を続け、その合間に弁当とアイスを食べた。

名古屋駅は日差しがきつく、東京より一段と暑く感じた。タクシーを拾い、市内北西部の斎場に向かった。
母と兄夫婦、次兄と合流すると、ほどなく枕経が始まった。
お経の後、私は白い布をめくって父の顔を見た。
話しかければ返事をしそうなほど、いつもの父と変わらなかった。

通夜と葬儀の大まかな打ち合わせを済ませ、母の部屋に一緒に戻った。
二年前の事故をきっかけに、父と母は半世紀を過ごした住み慣れた借家から、こぢんまりとしたマンションの一室に移り住んだ。

夜、母から晩年の父の様子を聞いた。
中卒で修行に出た父は根っからの職人だった。事故の後遺症で体がきかないのが歯痒く、「一日千円でも、二千円でもいいから、何かやって稼ぎたい」とこぼしていたという。
「うまくやればもっと稼げたのに、ダメな親父だった」と悔やんでもいた。父が営んでいた看板屋は四十数年前、私が小学校低学年のとき、不渡りを出して倒産した。以来、借金返済に追われ、三人の息子を抱えた家計は常に火の車だった。
一方で「俺は、人にハメられたことはあっても、人をハメたことはなかった」とも言っていたらしい。
人が良すぎて、どんぶり勘定だった父は、商売には不向きだった。
契約書などなく、納品後の値切りや代金の踏み倒しが横行する世界を、知人に無心されれば返ってこないと分かっていても金を貸してしまうようなお人よしが、うまく泳げるはずもなかった。

母と話をしながら父が息を引き取ったベッドの脇の棚を覗くと、私の著書が置いてあった。

サイン入りの初版本は大事にビニールで包んであった。

話は尽きなかったが、疲れが出た母は早めに就寝した。
日付が変わる頃、私も母の隣にある父のベッドに入った。

四日 通夜

早朝五時過ぎ、母と一緒に起床した。
朝食をとりながら、父がこのマンションの部屋について「明るいし、あったかいし、こんないいとこに住めて、よかった」と話していたと聞いた。
父の入院中に強引に引っ越しを決めてしまったので、父は旧居に未練を残しているだろうと気にかかっていた。
日当たりの良い座椅子で母とのんびり過ごした晩年に満足していたと聞いて、心が少し軽くなった。

湯灌の一時間ほど前、午後二時頃に斎場に入った。
私の家族も東京から合流し、しばらくして川崎に住む父の三つ年下の妹が夫婦で駆けつけてくれた。
叔母は父の顔を見るなり、気分が悪くなってソファに倒れ込んだ。わずか二か月で親しい姉と兄を失い、五人姉弟の最後のひとりとなった叔母の心痛は深かった。
ソファで叔母に付き添う間、私は母の家の古いアルバムから発掘した六十年前の写真を何枚も見せた。
母と叔母は高卒で小松製作所に同期入社した親友だった。万事いいかげんな兄を任せられるのはこの人しかいないと、叔母が真面目一途の母を父に引き合わせた。母が「おかげで人生が狂った」と叔母に言い、父が「気の毒に」と応じて三人一緒に笑うのが常だった。
古い写真には母と叔母の独身時代の社員旅行や海水浴、新婚時代の父と母の姿が鮮明に残っていた。青ざめていた叔母の顔に笑顔が戻った。

湯灌の場に戻ると、係の人から父の顔を拭いてやるよう促された。
濡れた布巾で、きれいに剃られたなめらかな肌に触れたとき、ふいに父の無精ヒゲの思い出がよみがえった。

あれはたしか小学校五年生の夏休みのことだった。
二階で昼寝していたら、顔にジャリッとした感触が走った。驚いて目を覚ますと、目の前に父の顔があった。
「起こしてまったな。わるい、わるい」
父はバツが悪そうにして、階段を降りていった。
父はおそらく私の寝顔に頰ずりをしたのだろうと思う。父がそんなことをしたのは最初で最後で、当時は正直、薄気味悪かった。

父は子育ては母に任せきりで、三兄弟と「遊ぶ」ようになったのは麻雀、ビリヤードの相手が務まるようになってからだった。
それでも、兄二人に言わせると末っ子の私は恵まれていたらしい。

このカブは、父のきわめてまれな子育て参加の脇役だった。
徒歩数分の保育園に、たまに父がカブにまたがって私を迎えに来た。
カブのシートは大きい。
私は父の後ろではなく、シートの前にちょこんと座るのが常だった。
父はお尻を後ろにずらし、私を抱きかかえるようにしてハンドルを握り、ももで私の腰を挟んで、私の頭の上にあごをのっけて走った。
足が着かない私は、ハンドルのスピードメーターあたりに手をかけて体を支えた。
視界が開け、まるで自分で運転しているような気分になれた。
私はこの短いツーリングが大好きだった。本当に仮面ライダーになったような高揚感があった。

これは末っ子の私だけの特別待遇で、兄二人から「お前は恵まれていた」という証拠の一つに数えられていた。
往復数分のお迎えに、ずいぶん高い値がついたものだ。
さすがカブ、「燃費」が良すぎる。

上記noteより

湯灌に続いて父の身支度を整えた。
孫たちが脚半や手甲の紐を結び、私は三途の川の渡し賃の六文銭を胸に差し入れた。
この後、棺に収まってしまえば、触れられるのは顔だけになってしまう。
最後の機会に、私は父の左手を握った。

父は若い頃、傾斜盤(電動のこぎり)の操作を誤り、左手の人さし指の先と中指、薬指の第一関節をほぼ欠損する大怪我を負った。
子どもの頃から、変形した父の指先は、触れてみたいけど触れてはならないものだと感じていた。
初めてゆっくりと触った父の指先は、柔らかく、手応えがなかった。
看板作りや高所作業、クギやビスなどの扱いや工具の操作など、父はこの手でどれほど苦労したのだろう。日常生活はもちろん、好きだったビリヤードや麻雀でも不便は多かった。
それでも父は傾斜盤を「俺の命」と言うほど大切にしていた。
好きなことをやって、でも、それがいつもうまく行くわけではなかった父の生涯を象徴するような左手を、死装束のうちにしまった。

夕方になると、通夜の参列者が集まってきた。親類や近所の人たち、次兄の会社の関係者、私の友人など五十人ほどが集まった。
突然の死への驚きと同じくらい、長く苦しまないで済んだ父の最期を羨む声を聞いた。私の義父も「自分もそんなふうに、と思う」と言ってくれた一人だった。

読経の間、私は斜め後ろから一心に手を合わせる母を見ていた。
小一時間で焼香が終わり、何枚かの父の写真が斎場のスクリーンに映し出された。いつものVサインの写真ばかりで、マスクの下の頰が緩んだ。
最後に喪主の兄が挨拶に立った。文章は前日に私が書いた。

本日はご多用のなか、お集まりいただきありがとうございました。
故人の生前は大変お世話になりました。親族一同、心からお礼申し上げます。
故人は湿っぽいことが苦手で、いつも冗談やイタズラで人を笑わせ、自分も笑ってばかりいました。
何のおもてなしもできませんが、今日は故人の思い出話など、楽しく振り返っていただく機会になれば、と存じます。
あらためて、本日はまことにありがとうございました。

立ち話になると、私と同い年のいとこが「おじさんは、親類の中でとびきり変な人だったよな」と懐かしそうに言った。
子どもをからかうのが父の悪い癖で、いとこの姉弟たちは「会うたびに『お前の父ちゃん、今どこにおるか知っとるか』をやられた」と口をそろえた。「どこにおるの」と聞き返すと「黒川のキャバレーにおるぞ」と続く謎の定番ネタだった。五十を過ぎたいとこが「つい最近までそれ言われたわ」と言ってみんな大笑いとなった。伯父はとうに故人だというのに。

私もよく父のイタズラの犠牲者になった。

父はたびたび、私を行きつけの喫茶店に置き去りにした。
パターンはいつも同じ。父が私をジュースで釣って、喫茶店に連れて行く。玉突き屋と喫茶店を併設した名古屋城近くの「名城」という店で、ビリヤード台の横にコカコーラやファンタの瓶ジュースを引き抜くタイプの販売機があった。
父は、私がトイレに行った隙や、漫画に夢中になったりビリヤードの台で遊だりしているうちに、姿を消してしまう。そのうち私がワンワン泣き出す。小さい頃の私は泣き虫で、2人の兄にいじめられては毎日泣き暮らしていた。

たいていは30分もすると父が戻ってきて、泣いている私をみて「ケケケ」と笑った。「お前はまだまだガキだな」などと言ったりする。幼稚園児に、ガキも何もないものだ。
ご丁寧に喫茶店の外から電話で私を呼び出し、「お前はもう捨てた。そこで育ててもらえ」とトドメを刺すこともあった。私が一段と号泣したのは言うまでも無い。

なぜそんなことをしたのか、まったくもって理解に苦しむ。のちにこの話をしても、父は「ケケケ」と本当に嬉しそうに笑うだけだった。

上記noteより

兄の挨拶の通り、通夜の会場は父の愉快な思い出話で笑いにあふれた。

散会後、一緒に自宅に戻ると、午後九時過ぎに母は就寝した。「わたしはね、眠れん、ということはないでね」と笑う母に、すこし安心した。
母が眠った後、ひとりで近所のスーパーで買った寿司をビールで流し込んだ。父のベッドを使っているのに夢にも出てこないとは不愛想だな、などと考えていたら、ふいに台所からポタポタポタッとかなりの量の水が滴り落ちる音がした。確かめにいくと、蛇口は固くしまっていた。

五日 葬儀

早朝五時半ごろ、母と一緒に起床した。朝食を済ませて身支度を整え、甥の運転する車で斎場に向かった。
予定通り午前十時から葬儀が始まった。
読経と焼香の間、通夜の日と同じように後ろから母を見ていた。昨日より背中に疲れがにじんでいた。

葬儀が終わり、兄が挨拶に立った。

本日はご多用の中、父智章の葬儀にご参列いただき、まことにありがとうございます。遺族を代表して厚くお礼申し上げます。
故人は晩年、母に「自分は好き勝手に生きてきて、まわりに世話になってばかりだった」と話していました。
手を動かしてモノをつくる好きな仕事をやって、パチンコ麻雀ビリヤードと好きな遊びに没頭して、好きなタバコをふかして、好きなテレビで野球や映画を見て、父の好物ばかりの母の手料理で毎日、腹いっぱいになる。
自分の言葉通り、好き勝手にそんな人生を生きて、最期も本人の望み通りに、長く苦しむこともなく、足早にこの世を去っていきました。

途切れ途切れでここまで読み上げた兄が、「ここまでは文才のある弟が書きました。ここからは私の言葉で」と切り出した。想定外の種明かしにマスクの下で苦笑した。
父が長年、造形社という看板屋を営んでいたこと。
社名こそ立派だが、父と母、三人の息子たちで支える零細企業だったこと。
一緒に働き、目の前で見た父の仕事は、時に危険で、厳しく、苦しいものだったこと。
それでも父は子供たちの前で弱音を吐かなかったこと。
兄は最後に、絞り出すように「私はそんな父を尊敬していました」と言った。私はその言葉で、前日の夜に母と交わした会話を思い出した。

父は最近になって「息子たちは、俺のことをどう思っとるんだろう」とこぼしていたという。
真面目な話が苦手な父の口癖は「俺は、知らん!」。何事も冗談めかして、最後は「へっ!」と鼻で笑ってごまかす人だった。
そんな父に、息子たちは面と向かって尊敬や感謝の気持ちを伝えたことはなかった。
父がときおり「これで酒を飲んだら、俺は最低の親父だ!」とお決まりの自虐的セリフを言うと、息子たちは「その通り!」と悪ノリした。
父の疑問に、母は兄が印刷してくれた私の文章を見せたという。

私は建設現場や道路工事、高所作業に携わる人たちに自然と敬意を抱く。
新聞記者もなかなかしんどい時はある。だが、頭脳労働とは質の違う、生き物としての土壇場に直面することがあるのを身をもって知っているからだ。

こんな機会は滅多にないので、ちょっと照れくさいが、面と向かって言ったことはない気持ちを記しておきたい。

私は職業人としての父を尊敬している。

父親としては問題が多々あったが、仕事では手を抜くことも、投げ出すこともなかった。最後には何とかした。
高井三兄弟はその姿を「現場」で一緒に働き、自分の目で見て育った。
これはサラリーマン家庭では望めない幸運だろう。

それは今の私の働き方にも確実に影響している。

上記noteより

そこから先、兄の挨拶は私が書いた文章に戻った。

半世紀以上、苦楽をともにした母のことは心残りだったでしょうが、八十二年、精いっぱい生きた、幸せな人生でした。故人がそんな幸福な一生を送れたのは、ご参列の皆さまをはじめ、故人とご縁のあった方々のご厚意のおかげだったと思います。故人になり代わり、お礼申し上げます。
今後も、残されました遺族に対しましても、故人の生前と変わらぬご厚誼を賜りますよう、お願い申し上げます。
簡単ではございますが、お礼のご挨拶の代わりとさせていただきます。
本日はありがとうございました。

出棺の時間になった。
山のような花に埋もれた父の遺体の上に、私は二冊の自著を置いた。

本にはいつものサインと同様に、お金にまつわる言葉を添えておいた。

「行くのは天国でしょうが」と親類にたしなめられ、私は「保険、保険」と笑って答えた。

母は、父が花で埋め尽くされていく間、棺の傍らから離れず、何度も、何度も父の頰をなでていた。
私も最後に頬に触れ、「父ちゃん、おつかれさま」と声をかけた。

霊柩車の先導で八事斎場に向かった。私は貸切バスで母の隣の席に座った。
車列が高速道路に乗ると、晴れ上がった空に夏の終わりの雲が群れていた。後ろの席で娘たちが「空が広い!」「雲、ヤバい!」と声を上げた。

八事に着き、足が少し不自由な母のために車椅子を借りた。伯母の葬儀の際、父が乗った車椅子を、わずか二か月後に今度は母のために押すことになるとは。

正午頃、参列者が見守る中、父の棺をおさめた炉の扉が閉じられた。

待合室に移り、伯母の家族と、ここは二か月に一度来るような所じゃない、喫煙所の場所やスパゲティのひどい味も全部覚えている、と笑い合った。
このとき、私と同い年のいとこが一枚の古い写真を見せてくれた。

左から(おそらく)伯父、伯母、父

人工知能で着色された写真には、若き日の伯母と父が写っていた。もう一人はふたりの兄、若くして亡くなった伯父ではないか、と話し合った。
父が経営した造形社は、写真の三人がはじめた会社だった。

午後一時過ぎに呼び出しがあり、炉の前に親類一同が集まった。
熱が残る遺骨を、はじめに母と兄が拾い、私は次兄と一緒に壺に収めた。

バスで地元の斎場に戻り、初七日を済ませた。
私の家族は東京に戻り、私は母の家に一緒に帰った。

母は、家に着くと供える花の処理にとりかかり、それが済んでも何かと忙しそうに立ち働いた。少し休むように言っても、「何かしていないと」と手を止めなかった。
私も、意味もなく絨毯をベランダに持ち出し、はたきはじめてしまった。たまりにたまった埃が宙を舞った。口を覆うタオルを探しかけて、ポケットの中のマスクに気づいて苦笑した。
小一時間、汗まみれ、埃まみれになり、シャワーに駆け込んだ。浴室から出てくると、ようやく母が横になっていた。

夕食は果物でも食べて済ませるという母を残して、徒歩数分の兄の家に向かった。兄夫婦と甥、私の四人で、デリバリーのピザと父の愉快な思い出を肴にビールを飲んだ。皆、思い出すのは父のおかしな話ばかりで、笑いっぱなしの宴になった。
午後七時過ぎに戻ると、母はもう寝ていた。私も顔を洗って八時過ぎにいったん床に就いた。
午前零時過ぎに目が覚め、この原稿を書き始めた。

父の影

翌朝、兄夫婦が母の家に来て、役所や金融機関の手続き、遺品整理の段取りを決めた。ひとり暮らしになる母のための模様替えや大掃除も必要だった。
あれこれ煩わしく、大変でもあったが、忙しさは気を紛らわせてもくれた。

片付けの合間に、不意打ちのように父の影が浮かぶことがあった。

財布をあらためたときには、お金や愛用の頭痛薬と一緒に、私の名刺が出てきた。知人に会うと私の本を売り込んでいたらしい。

携帯電話の解約の際には、命日のちょうどひと月前、父の誕生日の着信履歴に私の番号を見つけた。

私の妻が送った花を父がとても喜んだのを思い出した。

解約手続きに思いのほか時間をとられて家に戻ると、テレビの前の座椅子に母が居た。
「お待たせ。何しとったん?」と話しかけると、「お父さんと話しとった」と隣の父の座椅子に目をやった。

父と母は「一卵性夫婦」と呼ばれるほど仲が良かった。
簿記ができる母は家業の事務を担い、一緒に現場に入ることも多かった。
父は家事や身の回りのことは全部母に任せきりで、母は周囲から「甘やかしすぎ」と言われるほど、こまごまと父の世話をした。
父と母の会話は、何十年も同じパターンの繰り返しだった。
ふざけてばかりの父に母が文句を言い、「怒られた!」と父が笑う。
母がたまにピント外れなことを言うと、父がそれをからかい、「何がおかしいの」と怒る母を見てまた父が笑う。
父の不始末を母がとがめると、父は「俺は知らん!」ととぼける。
帰省するたび「よくも飽きずに同じことを」とあきれたものだった。

父に先立たれた母の喪失感は、私には計り知れなかった。
部屋を片付けながら「あれもこれもやり残して逝っちまって」と文句を言い、外出時には「ちょっと行ってくるね」と変わらない調子で遺影に話しかける姿を見て、母の中で父はまだ生きているのだな、とも思った。

十日 帰京

当座のやるべきことが片付き、父の死から一週間後の九月十日に帰京することにした。
名古屋を離れる日の昼、母と兄夫婦と四人で「ビリヤード名城」に向かった。喫茶店を併設する名城は半世紀の歴史を持つ老舗で、家族の思い出が詰まった場所だ。

若き日の父はここでビリヤードに熱中し、三兄弟が幼かった頃は週末に三人乗りのピックアップトラックに五人家族が寿司詰めになって「モーニング」を食べにきた。私がたびたび置き去りにされたのも、父がインベーダーゲームに夢中になったのも、名城だった。
二代目マスターの三浦勝さんは不在で、お店に出ていた優子さんに父の死を伝えた。「お父さんが遺してくれたもの、まだ大事にしていますよ」と古いロゴの入った試合用ワッペンを見せてくれた。
店全体は改装で様変わりしたが、正面には父が取り付けた看板が残っている。

名城を後にして名古屋駅まで送ってもらい、後部座席の母に手を振って笑顔で別れた。

新幹線の中でこの原稿を書きながら、私はあらためて、父にとって仕事とは何だったのだろうと考えた。

葬儀を終えた五日の夜、私は近所のお地蔵さんのお堂が綺麗になっているのに気づいた。母が「それはお父さんの最後の大仕事だわ」と教えてくれた。

言われてみれば、照明や花差し、賽銭箱などアクリル板の処理に父の手の跡が見えた。父は伊奴神社や近所の社務所のちょっとした修繕を引き受けたこともあった。どれも宮大工のような職人芸ではなく、あくまで看板の仕事の延長線上の手仕事だった。

看板は、芸術作品でも工芸品でもなく、生活の中にある実用的なものだ。予算や施主の意向、納期などの縛りもあり、自由に創作できるわけでもない。
そんな制限のなかでも、父はできるだけ良い材料を使い、手間と工夫を重ねて、価格以上の仕上がりでお客さんを喜ばせようとした。
それは、うまくいった工作を自慢する子どものような心の持ちようだったのではないだろうか。
父は時折、トラックの荷台いっぱいのアクリル板を超格安で仕入れてきた。問屋の従業員が端材を横流しして小遣い稼ぎしていたのかもしれない。
色もサイズも厚みもバラバラで扱いにくいはずの材料の山を前に、父はまるで色紙を山ほどもらった子どものように、嬉しそうにしていた。

工作好きの少年だった父は、いわば「オーダーメイドの巨大工作」を生涯の仕事としたのだと私は思う。
父の看板が美術館や博物館に飾られることはない。店が変われば看板も消える。でも、名城の表看板のように、長く街の風景の一部になることもある。
私自身を振り返っても、自分がかかわった看板や店舗を見かけると、ちょっと誇らしく、誰かに話したくなったものだった。
父にとって名古屋は、そんな気持ちになる場所が詰まった街だっただろう。

一方で、好きな仕事は、金銭面で報われたわけではなかった。
父の口癖は「これで酒を飲んだら、俺は最低の親父だ!」だった。
家事や子育ては母任せ、仕事では借金を抱えて貧乏暮らしと、理想の父親像からは程遠かったかもしれない。
しかし、父は、母はもちろんのこと、三兄弟に手を上げることもなく、そもそも子どもを怒ることもほとんどない人だった。仕事で理不尽な目にあっても、家族に当たったり、怒鳴り声をあげたりすることもなかった。
何より、父は、遮二無二働いて、家族を食わせてくれた。
ときに給食代も払えない金欠でも、食卓には焼き肉やすき焼きといったご馳走がしばしば並んだ。子ども心に「どこにそんな金が」と不思議だった。
父と母は、借金の処理や自分たちの将来の備えは横に置いて、子どもたちに腹いっぱい、うまいものを食べさせることを最優先してくれた。
私たちは、ひもじい思いをすることもなく、ときに家族で雀卓を囲み、嫌々ながら現場で父と一緒に汗を流した。
三兄弟の子ども時代は、疑いなく、幸せなものだった。

新幹線の中で、父が遺していった小さな謎のことも考えた。

父は急逝した夜、私が出演していたニュース番組が終わった直後に床につき、その一時間ほど後に亡くなった。
金曜夜にレギュラー出演するようになってから、父はたいてい生放送で私の番組を見ていたという。
父は最期に、お気に入りの座椅子から、息子の姿を見たのだろうか。

十中八九、そうだろうとは思うが、確かめるすべはない。いつかあの世で会ったら聞いてみるつもりだ。
湿っぽいのが苦手な父に「俺は知らん! ケケケ!」と誤魔化されるような気もするが。

新幹線が東京駅に着き、両手いっぱいの荷物を抱えた私はタクシー乗り場の長い列に加わった。
一週間ぶりの東京には、もう秋の風が吹いていた。

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