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子どものころ、父に置き去りにされたこと

こちらのエッセイでちょっとふれたように、私は子供のころ、よく父に置き去りにされた。

自分にとってミステリーというか、いまだに「なんでやねん」という記憶だ。PCを切り替えていて、ファイルを整理していたら「オヤジネタ」を書き溜めたメモのフォルダが見つかったので、少し推敲してシェアします。

置き去り

子供のころ、よく父に置き去りにされた。

たとえばこんな具合。
小2くらいの頃のある週末、トラックで父と2人で出かけた。
集金か客回りのとき、道中の退屈しのぎに駆り出されることはままあった。ジュース1本のエサで釣られるのが常だった。

その日の行き先は名古屋市内の西側のどこか、自宅からは車で小一時間といった距離だった。
見知らぬ街の見知らぬ路上で父が突然、車を止めた。
自動販売機の前で、100円玉を渡され、降りろ、と言われた。
「ここでジュース飲んで、ちょっと待っとれ」
そう言い残し、トラックは走り去った。

ジュースを飲み、10分まち、30分たっても、父は戻らない。
車通りは多いものの、道行く人は少なく、小さな子供が1人でポツンとしていても不審に思われることもなかった。
いつ父が戻るか分からないし、迷子になったら大変だから、その場から動くわけにもいかない。時計もなく、だんだん不安になってくる。

小さなころから、何かにつけて父から「お前は橋の下で拾った子供だ。いつでも元の場所に捨てるぞ」と謎の脅し文句を聞かされて育ったので、ついに本当に捨てられてのか、という思いが頭をよぎる。
最近、捨てられるようなヘマをしただろうか、などと考えていたら、何事もなかったようにトラックが戻ってきた。たっぷり2時間以上は置き去りにされていたはずだ。

車内に戻り、ほっとした私は、待たされた文句を言った。父は謝るわけでもなく、悪びれもせず、「ケケケケ」と笑っただけだった。

後年、あのとき、どこに行っていたのか、父を問い詰めたことがある。「知らん。忘れた」と白を切られた。雀荘か、パチンコか、女関係か、良からぬところにしけ込んでいたのだろう。

路上に放置、というのはこのときだけだったが、仕事の現場に子供だけを置いて父が姿を消してしまうことはよくあった。
作業の指示を出しておいて、自分はトラックでどこかに行ってしまう。別の仕事があるときもあっただろうが、そんな目に遭うと兄はいつも「どうせパチンコだ」と怒っていた。十中八、九はパチンコか喫茶店だっただろう。

思い返すと、父がこんなことをやっていたのは40代、今の私とそう違わない年ごろのことだった。
不渡りを出してから数年という時期で、返しきれない膨大な借金と3人の子供を抱え、たまには息抜きでもしないとやっていられなかっただろうと、今なら少し理解できる。

もっとも、全く理解不能な「置き去り」もあった。私がまだ幼稚園児で、まだ会社の経営がおかしくなる前、父は三十代後半から四十に手が届くか、という脂の乗った年回りだったころのことだ。
父はたびたび、私を行きつけの喫茶店で置き去りにした。
パターンはいつも同じ。父が私をジュースで釣って、喫茶店に連れて行く。玉突き屋と喫茶店を併設した名古屋城近くの「名城」という店で、ビリヤード台の横にコカコーラやファンタの瓶ジュースを引き抜くタイプの販売機があった。
父は、私がトイレに行った隙や、漫画に夢中になったりビリヤードの台で遊だりしているうちに、姿を消してしまう。そのうち私がワンワン泣き出す。小さい頃の私は泣き虫で、2人の兄にいじめられては毎日泣き暮らしていた。

たいていは30分もすると父が戻ってきて、泣いている私をみて「ケケケ」と笑った。「お前はまだまだガキだな」などと言ったりする。幼稚園児に、ガキも何もないものだ。
ご丁寧に喫茶店の外から電話で私を呼び出し、「お前はもう捨てた。そこで育ててもらえ」とトドメを刺すこともあった。私が一段と号泣したのは言うまでも無い。

なぜそんなことをしたのか、まったくもって理解に苦しむ。のちにこの話をしても、父は「ケケケ」と本当に嬉しそうに笑うだけだった。
毎度、毎度、同じような手口に引っかかる私も私だったが、当時、ジュース(お気に入りはスプライトだった)はなかなか飲ませてもらえず、小遣いでは手が届かなかった。
「またやられるかも」と思っても、誘惑に負けてついて行き、またやられる。父にはそれが面白く、かわいかったのかもしれない。ろくでもない愛情表現だ。

同じ手口に何度もやられた幼い私が考え出したのが、「自宅の電話番号を覚える」という対策だった。置き去りにされたら母に電話すればいい。
名古屋市内の電話番号は3桁プラス4桁の合計7桁で、何度も
「△△△-〇〇〇〇、△△△-〇〇〇〇」
と復唱して番号を覚え込んだ。

そして某日。またしても父は私を「名城」に置き去りにした。
用意の一手でお店の電話を借りる私。
ダイヤルを回す手が半ばで止まった。
7桁の番号を覚えるとき、前半の「△△△」の後のハイフンを「の」と読んで調子をつけて覚えていたのだが、ダイヤルのどこにも「-」も「の」も無いのだ。窮した幼稚園児の私は、「の」の代わりにゼロを回してしまった。覚えた7桁の中にゼロがなかったのも不運だった。

電話は自宅ではなく、知らない家につながった。
出たのは女の人だった。
すっかり母だと思い込んだ私は、「おかあさん、おかあさん、おとうさんが…」と涙声で切り出した。
返ってきたのは、
「…あんたのお母さんなんかじゃないよ!」
という苛立った声だった。
ガチャリ、と電話が切れた後、私は絶望感から号泣した。母にも見捨てられたと思ったのだ。

その後のことはよく覚えていない。
いつものように店のママさんやウエートレスさんに「じきにお父さんが迎えに来るから大丈夫」となぐさめられながら、泣き続けたのだろう。店にしてもいい迷惑だったろう。
そんなことがたびたびあったせいか、大きくなってからも、この店の女性たちは私の方が戸惑うほど目をかけて可愛がってくれた。

この顚末は「いかにひどい父親だったか」という話題の定番ネタだ。
本人はいつも「ケケケ」と愉快そうに聞いている。

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