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あなたの「旅」に会える 田所敦嗣『スローシャッター』

旅行記は「当たり」が多いジャンルだ。
それはそうだろう。
長い旅の時間から、著者が書くに値すると感じたエッセンスだけを綴ってくれるのだから。
日常と違う光、風、音、匂いを感じて、異国の風俗や料理、水平線のはるか向こうに暮らす人々との邂逅に立ち会う。
読者は、面倒な旅の準備もなしに、ひととき旅の同伴者になれる。

田所敦嗣のデビュー作『スローシャッター』は、そんな旅行記の系譜に連なる一冊だ。
書籍版で2回通読し、note連載時を含めると各編を3回ほど読んだ。

読めば、旅に出たくなる。人に、会いたくなる。

「ベトナム語でありがとうと言った気もするが、あまり覚えていない。
ロアンと再会したニャチャンの夜を僕はずっと忘れないだろう。」

アラスカ、チリ、ヨーロッパ、ベトナム……世界各地を出張で訪れた田所敦嗣。コロナ禍を経たいま、仕事を通じて出会った人々との交流を切り取った「旅」の本質を問う紀行エッセイ。

Amazonの概要より

登場する旅先のうち、私が行ったことがあるのはポーランドの港町グダニスクとバンコクくらい。後は見知らぬ土地ばかりだ。
それでも、題名の通り、緩やかな筆致で描かれる風景がくっきり目に浮かぶ。そこに住む人々の顔が見え、声を聴き、手に触れた気持ちになる。

本の作りも贅沢そのもので、手触り、写真の発色、文章のリズムとシンクロしたゆったりした文字組みまで、読書の心地よさを支えてくれる。

手元に長く置きたい旅行記の条件はそろっている。
同好の士には、良い読書の時間を保証する。

そのうえで、『スローシャッター』はふだんは旅行記を手に取らない方や、旅自体にあまり興味がない方にもご一読をお勧めしたい。
この本には、あなた自身の旅、「どこかに行かなくても出会える旅」をみつける手がかりがちりばめられているからだ。

誰もが旅人

『スローシャッター』を読んだ人の中には「こんな風に現地の人と心が通う旅をしてみたい」と思い、同時に「でも、自分には真似できそうもない」と感じる人が多いのではないだろうか。

でも、そういうことではないのだと、私は思う。

『スローシャッター』は「すべてが出張」という異色の旅行記だ。
全編が、旅であり、仕事でもあるのだ。
水産系商社という仕事柄、著者は休暇の旅行なら「選外」であろう地の果てまで足を運び、取引先や工場の関係者と長い時間を過ごす。
そこで得難い交流や邂逅が生まれるのは、仕事という営みが仲立ちしているからだ。
観光客や「視察のお偉いさん」のようなお客さんでなはく、同じ仕事に取り組む者同士が時間と場を共有している。

無論、仕事という舞台にともに上がっているからといって、必ずドラマが生まれるわけではない。
だが、『スローシャッター』を読むと、人と人との間に何かが生まれるのに、劇的な仕掛けやイベントが必要なわけではないのが分かる。
ちょっとしたきっかけで、胸に残る、心と心が触れ合う時間は生まれる。

「踏み込む」ほどの歩幅でなく、人に少し歩み寄ること。
話してみたいと思う人と、話してみること。
迷った言葉を、口に出してみること。
相手の人生を想像してみること。
慌てず、急かさず、関係を築くこと。
少しだけ、人に親切にしてみること。
少しだけ、いつもより自分の心を開くこと。

必要なのは、ちょっとした心の持ちようだ。

『スローシャッター』の巻頭の写真と目次の間にこんな言葉がある。

「旅することは、生きること」

そして『グダニスクの夜』はこう書き出される。

旅は、見知らぬモノが視界の中で交差するのを、ただ眺める時間だ。

田所敦嗣『スローシャッター』グダニスクの雨

遠くに旅に出なくても、生きている限り、私たちの眼前を様々な人と事象が通り過ぎていく。
旅の間、いつもの場所を離れている時には、その事実に敏感になる。
非日常の時間と空間に身を置くと、緊張と解放感が刺激となって、心が開かれ、踏み出す勇気が出る。

『スローシャッター』は、職業作家が名調子で綴る紀行でも、未踏の地を拓く冒険家の記録でもない。
日々、旅の中で仕事に向き合ってきた男性が、物理的な旅が封印されたコロナ禍のなか、記憶と内面に向き合った文章を編んだものだ。
どの一篇でも、ハリウッド映画のようなドラマチックなことは起きない。
どちらかと言えば日常に近い、でも少しだけ違う風景が描かれる。
その風景は、異境のものではあるけれど、縁遠いものではなく、私たちの日々と地続きのものだ。

私はこの文章のなかほどで、こう書いた。

この本には、あなた自身の旅、それも「どこかに行かなくても出会える旅」をみつける手がかりがちりばめられている

心と心が触れ合う機会は、旅の中だけにあるわけではない。
「旅することは、生きること」ならば「生きることは、旅すること」でもあるはずだ。
シャッタースピードを落としても世界がしっかり像を結ぶように、いつもの慌ただしさから自分を解放して、心と目を定める。
そうすれば、人生という旅にも、いつもと少し違う風景が浮かび上がってくるはずだ。

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