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2020-8-5 日記. ベンチャー企業の研究者: 死について、そして余生と死後生について

最近おじさんが亡くなり、死について改めて考えることになった。

死ぬ前にどうなるかとかではなく、死んだ後のことだ。

最近、マインドアップローディングのような死後にも情報的に生き延びることが技術的に可能ではないかという話がある。また、冬眠技術を死期が近い人に適応することで延命治療に応用できないかという考えが出てきている。冬眠技術もそのような生き延びの問題として立ち上がってくる。

生き延びて、いつか病気が治るという希望にかけるのも1つだと思う。

生き続けるとういうことができるのもマインドアップローディングという技術が求めるところだろうか。それは1つの余生のようなもので、いつそれをやめるのかという問題が出てくるように思う。

情報的な死を決断する機会が増えてくるということではなかろうか。つまり、いつ死ぬのを決めるのかが現実的な問題になってくる。生きるのに飽きるということがやってくるのではないだろうか。生き延びをどう生きるかが問題になってくる。

もう1つ、どこまでを死と捉えるのかは今後社会的、もっといえば法律的な課題になるのかなとは思っている。具体的には、どこまで死んだのかが決められなければ相続税が取れない。さらに、犯罪経験者に対する処理がどうなるのかは気になっている。

人は大抵、死ぬことによって多くの罪やわだかまりを清算してきた。だがずっと生き続けてしまうこと、ずっと責任と取り続けることを半ば組み込むことできるようになる。しかし、死という誰もが経験する乗り越えられないが免罪符として機能してきた。

お金持ちからは課税し、特権階級にいるものも死があることで、国というコミュニティに間接的にも貢献してきたというところがある。

一方で、犯罪経験者もまた死によって赦されてきた。

生き延びることが、過去の犯罪経験と常に紐づかれることが今後でてくるときに我々はいったいどのように社会を作るべきなのか。

今後数十年でこの問題は真剣に考える必要が出てくる。


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