人生を変えた七つの経験

1993年にアメリカの大学院を卒業。同時に経営学修士(MBA)という称号を受けた。ジョージア州アトランタにあるジョージア工科大学で2年学んだ。卒業後には日本コカ・コーラ就職が決まっていた。コカ・コーラ本社がキャンパスのとなりにあり、大学院では本社で働いていた人が教えてくれる授業があった。その方はロバート・ブロードウォーター先生という方だった。彼のことはいまでも覚えている。

コカ・コーラがロシアに向けて市場開拓をする時代。200回アメリカとロシアを往復したという。まさに市場開拓の先人のようなひと。国際ビジネスの経験と知識は相当なもので大学院でも国際経営を教えていた。もちろん先生の授業はとった。そして先生が受講生としても他の国際経営の授業も受けいて同じテーブルで受けた。彼は恩人であり大学院の中で最も影響を受けた人だった。コカ・コーラ本社で上級副社長まで昇進をし、引退後にジョージア工科大学でボランティアとして教えていた。

彼はわたしが帰国するときにひとつの教えを授けてくれた。この人の本を読みなさい。そういってある著名な経営学者の名前をあげてくれた。彼はその誰でも知っている経営学の神様みたいな人のことを称賛しており、常に読んで参考にしていた。わたしはなんの疑いも持つこともなく、いまでもその経営学者の本を読んでいる。日本語も読むが英語でも読むようにしている。人を中心にし、経済よりも社会に目を向けた経営を推しているひとだった。

そのひとの本の中に「プロフェッショナルの条件」という本がある。パート3に自らをマネジメントするというのがあり、第一章は「私の人生を変えた七つの経験」とある。わたしはこの章が気にいっていて何度も繰り返し読んだ。この文章では同じような題名で自分事として書いてみたい。もちろん偉大なことは一切書けない。しかしながらなんとかこれまで運も味方につけてそれなりに経験を積んだ。スポーツ、受験、留学、そして継続のこと。読者の方にとってなんらかの参考になるかもしれない。


中学時代

中学時代は愛知県豊田市にいた。豊田市といっても市の中心から1時間もかかるところで山に囲まれていた。当時は子供が多く生まれていて田舎であってもクラスは45人いた。最初の1年間はのんびりと過ごした。そして2年目になると愛知教育大学を卒業してまもないフレッシュな先生が赴任してきた。その先生は数学を教え、放課後にバレーボールの指導をしてくれた。

わたしはセッターとしてパスとアタッカーがスパイクをするトスをあげることに専念した。ところが何度練習してもうまくいかない。あのバレーボール選手がするようなやわらかい包むようなトスやパスができない。でもやりたい。そんなとき先生が見本を見せてくれた。自らボールを持って高く宙に浮かしてトスをした。わたしの手をつかみ指がボールをさわる感覚を教えてくれた。その感覚を持ってしばらく練習した。するとやわらかいタッチでパスができるようになった。ドリブルはなくなった。

指導者が見本を教えてくれる。それだけでできなかったことができるようになる。これほどまでに違うのか。指導の力を信じるようになった。そして高校に進学。ただ高校ではバレーボールの指導者はいなかった。勉強は数学だけを学び、他はバレーボールと女の子のばかりを考えて過ごしてしまった。

大学受験

受験はとても苦戦をした。高校生活でバレーボールばかりというのがよくなかった。そのため大学受験は3年生からはじめた。うまくいくわけがない。3科目の私立に絞らざるをえない。ところが3科目ともうまくいかなかった。成績はあがらなかった。

途方にくれていたときなぜか塾に通う塾生のひとりが勉強会に誘ってくれた。どうやら彼は英語の読解に役立つ方法を見つけたらしい。それを受験仲間といっしょにやろうということだった。ひとりでやっているより仲間5人と丁寧に読解をする。そのほうが彼にとってもためになるようだった。

わたしたちは毎週1回集まった。そこで彼のリーダーシップのもとでライシャワー駐日大使の本をじっくりと読んだ。皆で精読をした。同時通訳の松本正と長崎玄弥のもどらない読解のやり方をまねて読み合わせをした。ひとつの段落をひとりづつ。英語を読みながら訳をした。ひとつの方向に皆が向かう。だれもが必死だった。そして5人とも合格した。

それまでどうしても英語の成績があがらなかったが読解ができるようになって成績が少しづつ伸び始めた。わかるということがすばらしい。しばらくするととったことのない偏差値60を超えていた。

そこで変な自信をつけたわたしは国語や社会にもいい影響が出始めた。それまで蓋がされてあったのが一気にとれた。英語の成績が上がったことで連鎖反応を起こし国語と社会も得点が伸びるようになった。

この経験から学んだことは独学よりも仲間との勉強会で成績が伸びるということだった。ひとと学ぶ。そうすることで正しく、早く、そして楽に学べる。誘ってくれた彼はいまでは南山大学と愛知淑徳大学で教授をしている。わたしは彼と同じ年に南山大学外国語学部英米科に入学し4年後に卒業をした。

卒業後の進路

卒業をするときに就職か留学かとてもまよった。当時はあまりいい就職口がなくなにかしらのプラスをつける必要があった。しかし親はもうお金を出してくれない。すでに大学4年間で合計600万を出してもらった。授業料以外に月10万の仕送りだった。さて留学したくてもお金がない。どうするか。

大学の掲示板で募集をしていた奨学金にたよるしかなかった。1年目は受け取れなかったが2年目になんとかもらえた。もういい年だというのにアメリカに行きたいという気持ちが通じた。奨学金をもらえた。1年間350万円というぜいたくな資金だった。

3月に大学を卒業。奨学金の授与式があった。スーツをきて財団の理事長から直接お言葉をもらう儀式があった。わたしはそのときの写真を大事に持っている。その理事長というのはあのソニーの盛田昭夫会長だった。わたしは賞状をもらうとき震えがとまらなかった。民間企業というものは何なのかを知らない。会社で働いたことがない。にもかかわらず、目の前で握手を求めているのはあの盛田会長本人だった。

わたしは弱弱しく自信のなさそうに右手を出して頭を下げた。ありがとうございます。すると盛田さんはこういった。奨学金、おめでとう。がんばってきてください。ソニーはひとがやらないこと、他の会社がやらないことをやってきた。これからもソニーはそういう会社でありたいと思っている。

これが会社というものか。わたしははじめて会社というものが何なのか。本物の実業家から聞いた。

わたしは震えがとまらなかった。壇上から下がろうとしたときに盛田さんが握手をしてくれた。わたしに握手できるのか。そのときの感触はいまでも覚えている。盛田さんの右手は大きくてわたしの小さい手をすべて包み込んだ。そして彼の手のひらはやわらかく、そしてやさしい。がんばってきてください。そして出発をした。

この経験でわたしは会社というところはどういうところか。代表が一般の人でもわかるようにわかりやすいようにシンプルに語るということを知った。ソニーは人がやらないことをやってきた。これからもそうありたいと思っている。これだけで会社のビジョン(姿)が容易に想像できた。そこでソニーは挑戦をし続ける会社ということが後でわかった。

わたしもそうしよう。失敗し続けるに違いなくてもだれもやらないことでもいいからやっていきたい。

1回目の留学

ミシガン州について勉強をはじめたものの勉強量についていけなかった。英語もまったくわからない。それにルームメイトやクラスメートのユダヤ人は相手にしてくれなかった。おい、卒業後は何になるんだい。医者か弁護士か。

なんだそれは。当時ユダヤ系の学生は皆裕福であってニューヨーク、シカゴ、マイアミからきていた。その9人からことごとく見下された。医者にはなるつもりはない。弁護士など目標にしていない。するとおまえはなにをしにミシガン大学にきたのかと聞く。

あるときどうしてもおなかがすいた。チキンを丸焼きにして食べようとした。やけになっていて塩でなくてテーブルに置いてあるケチャップをかけて食べた。するとユダヤ人のひとりが日本人はチキンにケチャップをかけるのかと揶揄した。それを何度も繰り返した。いじわるなやつだった。わたしは耐えるしかなかった。

勉強などついていくことはできない。国際政治が理解できずほとほとまいってしまった。中東政治の専門家のレイモンド・タンター先生だった。タンター先生はタカ派として知られていた。なんとか単位はとれた。すると調子に乗って次の学期も同じような政治の授業を受けた。次の授業ではハト派として知られている先生の授業を受けた。

タンター先生の授業は大教室で行われたが次の授業は40人くらいしかいなかった。中間になってだれか発表をしなさいという。するとなにもわかっていないわたしではあったがせっかく留学をしているのだから少しくらい発表はいいだろうと勘違いした。図書館にいって適当に軍事侵攻について調べてタンター先生の授業で習ったことをクラスメートの前でまくしたてた。うまくいくはずがない。

わたしは15分くらい大汗をかいて発表を終えた。何をいったのかはまったく覚えていない。すると政治学の先生は皆がいるまえでわたしのことをこういった。常日頃、クラスメートからけちょんけちょんにいわれていたのでここでも来るかと思った。

先生はこういった。皆さん、今の発表どうでしたか。皆さんはアメリカ人。ここで発表した学生は日本からひとりできて間もない日本人。このような(発表するというような)振る舞いをちょっと見習いなさい。えっ、発表をしたことで褒められる。ありえないことだった。しかしわたしはあのとき、あの瞬間にやる気が数倍になった。下手でも発表することはプラスに評価されるんだ。はじめてわかった。

これはおとなしくしていてはいけない。発言したほうがいい。そう思った。それからアメリカでは大学でも大学院でも手をあげて質問をするようにしている。そうしたほうがいいし、だまっているとクラスメートから批判を受けるのである。

2回目の留学

1回目の留学で帰国し投資銀行に就職した。仕事はまったくできなかった。金融のことなどほとんどわからない。4大証券から中途採用されたひとたちは悠々と仕事をする一方、わたしは日夜仕事で苦戦。コンピューターにもなじめなかった。そうしているうちにバブルは崩壊。会社からひとが少しづつ抜けていく。わたしもこのままいても埒が明かない状態だった。

そこでビジネススクールにいくことにした。受験はあまりうまくいかなかったがなんとかジョージア工科大学に入学できた。できたものの大学院での勉強は苦戦。学部よりはるかに厳しく1年目はへとへとになった。幸い、コカ・コーラのインターンができて帰国後は就職ができることになっていた。そのインターンを一緒にした人の中にコロンビア大学でMBAをとっているひとがいた。

そのひとがいう。マッキンゼーに応募したんだけどうまくいかないんだ。年をとりすぎているだって。なんのことだ。マッキンゼーってなんだ。わたしはそんなことくらいだった。しばらくして2年になって卒業がまもないときにジョージア工科大学の卒業生が講演にきた。コンサルティング会社で働くというタイトルだった。集まった人は少なかった。

その先輩はマッキンゼーで働いている人だった。ひととおりコンサルティング会社で働くということを説明したあと締めの言葉をいった。終始とても厳しい顔つきだった。皆さんはこうやってジョージア工科大学という大学院で学んでいる。マッキンゼーに入れば有名校の卒業生がいる。しかしそういった権威めいたものに屈してしまう必要はない。(ジョージア工科大学でも)やれるのだ。

わたしはこの言葉を忘れたことがない。というのは大学院卒業後に働いたところではことごとくハーバード・ビジネス・スクールの卒業生が上にいた。日本コカ・コーラもそうだった。その後カート・サーモン・アソシエイツというコンサルティング会社で働いてもハーバード大学だった。そして三菱商事では上司がハーバード大学卒だった。もっとも三菱商事はハーバード大学卒業生が25人もいるというエリート集団だった。しかし先輩のいったことをたよりに権威というものに屈せず胸を張って仕事はした。

卒業の時

序章のところでロバート・ブロードウォーター先生のことを書いた。先生はボランティアで教えていた。わたしも企業勤務をやめて10年間、東京や関西の大学で経営学を教えた。国際社会貢献の一環でボランティア同然の仕事だった。600回登壇し1200名のレポートを読んだ。

10年続けた読書会

ここまで6人から影響を受けたことを書いた。最後は大学の先生ではない。それはある読書会をはじめたひとだった。しかも彼はわたしよりも20歳も年下だった。五常・アンド・カンパニーの社長慎泰俊氏だ。彼のことはわたしが2010年代の10年間で最も影響を受けたひととしてあげれる。これほどまでに影響を受けるとは考えてもいなかった。

それは彼が早稲田大学のファイナンス学科を卒業したあとにはじめたエコノミストを読む会(エコ会)というものだった。MBA仲間の首藤繭子さんから紹介をうけた。恐る恐る入会して3か月後にはじめて古ぼけた渋谷のビル4階にある会議室にいった。寒い日曜日の朝8時だった。そこに慎泰俊がいた。

彼はいった。「エコノミストを十年読めば何かが変わる」 一体、何が変わるんだ。わたしはこの会に個人的なこだわりがあった。それは20年前の1990年。スイス銀行の上司からエコノミストを読みなさいといわれた。しかし一人で読んでも難しすぎて何が書いてあるかわからない。それですぐにほっぽり出してしまった。10年続けたことがあまりない。いっちょ、これを10年やるか。50歳になっていたわたしはエコ会で最年長だった。

最初の頃エコ会は厳しさを極めた。ぶるぶると震える冬の朝8時。しかも日曜日。遅刻は許されなかった。遅刻すれば司会者にどなられた。2時間の会議で発言しなければタダ乗りだとしかられた。幸いわたしは難を逃れた。だまっていることはゆるされない。一体、これでなにが変わるのだろうか。何が書かれているというんだ。

しばらくしてこれはなんのためにやっているかというのがわかりかけた。議論に強くなるためだ。国際会議でも堂々とディベートができる。そのために用意されたものだった。しかし議論が強くなってどうなるっていうんだ。

わたしはひたすら考えた。考えて考えても答えはでなかった。6年経っても出ない。8年経っても出ない。あと2年だ。焦った。慎泰俊ももうエコ会にこない。彼自身はどう変わったのか。そう思い彼のブログを読んだ。するとわかったことがあった。

それはエコ会に参加していればエコノミストの記事を読む習慣ができる。議論に強くなる。それらはもうできていた。実はわたしにとって変わるというのはそれではないのだ。エコ会の外で変わる。それは走ること。そして書くことだった。それぞれに気づいたのが6年目と8年目。なるほど慎泰俊は走る人であり、かつ、書く人である。普段はエコノミストを聞きながら皇居の周りを走る。

ここでは何が変わったのは詳しく書かない。しかし走ることは3年続けた。書くことは5年続けている。わたしは走る人ではなかった。けっして書くことはしていなかったのである。しかし10年の時がたち、いまこうやって書いている。

わたしにとってはこのエコ会を10年続けたことはかけがえのない経験を与えてくれたと感謝している。これがなかったらを考えると恐ろしいこともある。

さてここまでがわたしの人生を変えた七つの経験である。いずれも七人の偉大なひとたちから授かったもの。わたしにとってはこのひとたちのことは忘れることができない。

第一に学校の先生の指導がきっかけでできなかったことができるようになるということ。やりたいことができるというのはどれだけすばらしいことか。第二に独学ではなく仲間といっしょに勉強することで得意科目ができる。しかも一つの科目が他の科目をひっぱってくれる。第三に偉大な経営者はビジョンを一般のひとにもわかりやすく説明できる。盛田さんのことばを道しるべにしようと決心した。

第四に積極性は認められるということである。だれも発表をしない時に勇気を出して発表をしてみる。そうすると支えてくれる人がいる。第五に周りに有名校のひとがいてもブランド名に屈しなくていい。相手は権威があること認めるものの同じようにやればいい。最後は50歳になってから走ることと書くことをするようになれた。エコノミストを10年読み続けたことによって変わる。それを身をもって経験した。

大学生の読者の皆さんはどうだろうか。あまりひとりで悩まないでひとと接する機会を増やす。そしていつまでもあきらめずに、目標とビジョンをもって自分の道を歩き続けるのはどうだろうか。わたしのように失敗し続けるに違いなくても。やりたいことは必ず少しづつできる。