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「死」とは何か 第7章 第8章

40年前のミシガン州デトロイト。そこから40分ほどクルマで西にいくとミシガン大学のキャンパスがある。わたしはそこで学生時代を楽しんでいた。騒がしい学部生たちの住む寮を避けて一軒家に移ることができた。そこはどちらかというと大学院生の住む静かなところだった。わたしは3Fにある狭い一室を借りていた。デイビッドというニューヨークから来たユダヤ人がいた。

彼とは仲良しだった。中国語を大学院で専攻していたこともあり日本人であるわたしには親切だった。ただしいつも勉強をしていたので顔面は蒼白だった。それほど勉強量が多かったのである。

もう一室には女性が住んでいた。ほとんど会ったことがない。彼女は静かに部屋にこもってなにかしら勉強していた。うわさでは哲学を大学院で専攻しているとのことだった。わたしはミシガン大学の大学院で哲学を学ぶということはどういうことなのか。将来はどのような仕事につくのか。想像しただけでも怖かった。勉強量が半端ではない。彼女とはほとんど会話らしい会話をしたことがなかった。

あるオンラインイベントに参加する予定でいる。そこでは「死」とは何かについて話題にとりあげられている。本にはDEATHというタイトルがついている。イェール大学で23年連続で人気のある授業の内容を本にしたもののだ。著者はシェリー・ケーガン博士である。7・8章が今回の対象となっている。

わたしはこの章を読んでみた。かなりよく書かれているという印象を持った。難解ではあるものの考える本としては良書にはいる。

読書会では仕事かプライベートでのなんらかの経験を共有することが目的である。わたしは残念ながら死について考えながら仕事をしてはいなかった。そういう経験はないのであまり話せないかもしれない。ただ過労で倒れそうになり重い病気になるのではないか。そしてやがて早く死ぬのではないか。そういう思いで仕事をしていたという経験はある。

7章のところに興味深いエピソードがある。イェール大学の学生が余命宣告をされて、あと2年しか生きられない。そこでその学生はどうしたか。残りの2年をつかい大学で過ごして卒業証書をもらったという。彼がなにを考えていたのかはわからない。彼の証言がないからだ。また彼の様子を具体的に表す描写は見当たらなかった。

ならばわたしが大学3年生のときに余命宣言をされたらどうしただろうか。これを想像してみることにする。この本の中でとても参考になる箇所があった。それは死とは無縁の場所と時間を確保することとある。これはもっともなことであるけど大切なことだ。

無縁なところであって危険なところにはいかない。安全なところに身を置く。大学のキャンパスはとても安全なところとして知られている。イェール大学のあるコネチカット州ニューヘイブンは静かなところとして知られている。わたしは40年前に訪問したことがあるがきれいな郊外にあったと記憶している。教会のような建物がいくつもあった。そういった空間を確保するというのはうなずける。では時間はどうなのか。どのような活動をするか。

哲学を勉強したり教会でお祈りしたりする時間を過ごす。そうすれば死とは無縁になる。つまり突然死ぬことはない。危険なことではないからだ。少なくともそういった理由でキャンパスで過ごしたのであれば正しい選択だといえよう。

ただ大学で勉強をすることが楽しいことなのかという疑問は残る。わたしならば勉強ばかりしていることは楽しいことではないと答えるだろう。勉強をすることは必ずしも楽しいことではない。おいしいものを食べて好きな人と時間を過ごす。それが人生を楽しむということだろう。彼はそれができたのだろうか。できたのかもしれない。

では仕事をしているときに余命宣言を受けたとしたらどうしただろうか。この場合は何をするかというよりも何をしないかという選択をする。わたしの場合はつらい仕事はしないだろう。たとえたくさんお金をもらえたとしても続けない。わたしがしてきた仕事というのは難しい仕事が多い。金融、IT、そしてコンサル。どれも難しい。さてどれをしないか。

まずITの仕事はこれらの中でもすぐにやめるであろう。あれほど難しくて見返りのない仕事は余命宣告の前にはなんの価値もないだろう。給料も仕事の質量から換算してとても低い。システムエンジニアは評価されていなかった。給料が安くてつらい仕事はすぐにやめるであろう。

金融も同じようなことがいえる。株式市場が活況のときはよかった。給与はよくてオフィスにいるひとたちはのんびりとして落ち着いていた。ところが市況が悪くなるととたんに雰囲気が変わりザワザワとしはじめた。なにをやってもダメとなるとギクシャクしたものが起こり始めた。金融も死を前にしたらそれほど未練はないものだ。

ただしコンサルティングには未練がある。すぐにはやめることはないだろう。この仕事につきまとう問題提起という仕事内容はなかなかとりつかれるとやめることはできない。不思議なもので少しでも長い時間やっていたいと思うようになる。

仕事はやめてどう過ごすか。これはもう幸せになるほうを選ぶであろう。それは好きな人や親戚、友達といっしょにいる時間を増やす。もともと人はふたつの活動をするしかない。

ひとつは成功を目指す活動。もう一つは幸せになる活動。前者は取引を増やすことで得られる。つまりお金儲けをすることが活動の主な目的である。それは仕事を通じて達成される。いろいろな仕事上の関係者と取引をすることだ。組織の中で仕事をするというのも含まれる。そこは戦いの場だ。皆、少しでも多くのお金を得ようとしている。

もうひとつは幸せになることであって人との関係構築になる。気の合うひとたちと一緒にいる時間を増やす。戦いをせず、勝った負けたという世界には身を寄せずのんびりと過ごすこと。健康を保ちながらということも含まれる。楽しければいいという場だ。

確かにお金はほしいと思うであろう。ただ余命宣告をされてしまったらそれどころではない。十分なお金があれば仕事はやめるであろう。ではお金がなかったらどうするか。そうなるとさらに難しい問題になる。

ミシガン大学の共同住宅にいた哲学専攻の大学院生。彼女はほとんど姿を見せることなく部屋で過ごしていた。ところがあるときちょっとしたことがきっかけで部屋のとびらが開いているところを目にした。床にはペーパーがところせましとばらまかれていた。なにか考え事を整理していたのだろう。

そしてしばらくすると訪問客が現れた。なんと彼女のボーイフレンドだった。たとえ哲学の大学院生であってもボーイフレンドとはいっしょにいたかったのであろう。

そしてボーイフレンドと手をつないでどこかに出かけたのである。彼女は決して余命宣告を受けたわけではない。しかし厳しい大学院生活の中に息抜きをする時間を持っていた。彼女なりに潤いある時間を過ごしていた。

余命宣告を受けようが受けまいが人生は楽しんだ方がよいはずだ。