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DEI推進の懸念

40年以上前に大学に入学した。その大学はいまでも外国人の多い大学として知られている。東京が所在地ではないが200万人の政令都市として知られる名古屋。そこにカソリック系の大学として昔からあった。地元からはある程度知られているところで中・高にも付属学校がある。私立学校は比較的裕福な親が子供を通わせる。公立は乱れているからだ。わたしは公立高校から入試を経て入学した。

しばらくするとこんなことに気づいた。ずいぶんと女子学生が多い。ざっと数えただけで180人の中に8割程度はいたのではないか。その数を苗字からアルファベット順に並べて6クラスに分けた。わたしはHなので比較的前の方のクラスにはいった。

英語のクラスが多い。あるときその中で男女平等でなければならないという授業があった。同じ実力であれば同じ待遇。つまり給与と役職に不公平な差をつけてはならない。そんなことを学んだ。わたしはえっ、公平ではないのか。男女で差別があるなんてそんなことが社会に出たらあるのだろうか。そんな受け止めだった。

だれしも性別や人種を選んで生まれてこれない。自分に選択権がないのに差別されるなんてありえないのではないか。そんなことを考えていた。

先週の日曜日にハーバード・ビジネス・レビューという月刊誌を読む会が都内で会った。そこには15人くらいが集まった。3つのグループに分けて2時間感想を話し合った。わたしのグループには主催者と3人の読者が入った。メーカー出身のひと。コンサルタント。経営企画にいる人。女性がひとりもいなかったのが残念だった。他のグループにはいた。

特集の記事をとりあげてどんなところに疑問が発生したのかを話し合う。そこではDEIについて話された。DEIというのは定義が難しい。一般にはD(ダイバーシティ:多様)E(エクイティ:公正)I(インクルージョン:受容)というように定義する。

いろいろな人種、性別、国籍、年齢、男女、少数派、そして信条において多様なことを認める。つまり差別をしてはならない。憲法に記載されているように基本的人権を守る。公正であることを追求する。そして差別なくすべてのひとたちを受け入れること。排除してはならない。

それを会社経営にもあてはめる。それにはDEI経営を実践すること。それが命題としてどの特集記事にも取り上げられていた。わたしは2時間にも及ぶ議論を聞きながら考えていたことがある。それをこの文章で書きます。

まず差別はいけない。あってはならない。会社経営というのは仕事をするところ。仕事とは会社の業績をあげること。そのために仕事をする。パフォーマンスを下げるような差別をうけてはならない。これは前提として踏まえておかなければならない。そのための実践であることは間違いない。

ただ懸念がある。それは目的、手段、そして結果における影響である。まず目的から述べよう。

どうも多様性を求めることが会社の目的であるというようなことにはなっていないか。目的化していないのか。たとえば200人いる職員の中に外国人を1割雇わなければならない。そのように誘導していることはないか。また女性職員を3割にまで増やす。そのために業績をあげなければならない。男性社員はがんばること。こういった議論になっていないだろうか。

多様性を求めることは企業の目的では必ずしもない。会社は顧客にモノやサービスを提供する。業績をあげることであって組織の構成員を多様にしなければならないとはなっていないはずだろう。会社法においてそのような記述があるとは考えられない。まずこの会社経営において多様性がどこまで目的化してしまっているかに懸念を示した。

次に手段がある。例えば女性の管理職比率をあげるためにクォーター導入をする。そうして達成しようというのがある。クォーターというのは割り当てであり、例えば3割といったら3割にしなければならない。部下を持つ課長が10人いたとする。その10人のうち3人は女性から選ばなければならないというものである。

アパレルや化粧品、あるいは銀行といった金融機関ではありうる。女性を相手にした商品が多く、女性社員が多い。しかし建築業やトラック業界でそれができるであろうか。求められているのだろうか。そんなことをすれば男性社員はやる気をなくすであろう。むしろ業績に悪影響が出てしまう可能性すらある。

また記事の寄稿者の中にDEIを実践すると業績が上がる。つまり正の相関があたかもあるように考えている。事例や研究を紹介して客観性をもたしている。

業績であれば指標としては売上、利益、そして株価がある。はたしてDEIで売上が上がるのであろうか。確かに多様な人たちを集めた組織。そのように会社を紹介すれば消費者が喜ぶ会社もある。

例えばおむつの会社。顧客が若いお母さんであることが多い。多感で都会に住んで文化、食事、芸術、ファッションを楽しむひとであればそのような会社は好印象を与える。ひとにやさしいという印象を与えるであろう。プロモーションとしてはよい。組織においても公正であれば製品も品質が高いであろう。しかし会社というのはそういったお母さんだけを相手にしていない会社もある。

利益はどうであろうか。売り上げと同じように損益計算書には経常利益として記載されている。その中でひとに関わるコストは直接費と間接費である。直接費というは工場が稼働すると生産されるモノ。そのモノを生み出すときに発生するコストをいう。つまり直接費として計上される人件費は原材料と変わらないのである。そこが下がるとはあまり考えられない。

すると間接費はどうなのか。多様性を求めれば間接費が下がるであろうか。そこは議論が出るであろう。費用が下がって利益が上がるとほんとうにいえるであろうか。

さらに株価。株価というのは上がるとはいえない。社員に対して差別行為をした。それで訴えられたとなれば下がることはあろう。上がる要因にならない。株価を守る手段としては理解はできる。しかし上げはしないだろう。DEI経営で株価を上げるということはいえない。

最後にここがどうも気になる。DEI経営は実力主義ではない。そのために不公平が生まれる。公正であっても公平ではない。そんな結果になりかねない。例えば女性3割と決めれば男性は働かなくなる。そんなことがいえよう。ただ差別はしてはいけない。これはあくまでプロモーションであり差別行為撤廃のための人権擁護策である。

DEIを推進するとどうなるか。ひょっとしたらコスト高になるだけで利益が下がる可能性がある。そんなことが言えよう。差別をしてはいけないという当たり前のことがどうしてここまで複雑になってくるのだろうか。混乱を招くだけである。

40年前の大学で学んだことがまだ実践されていない。そんなことがわからなかったのだろうか。差別はいけない。いじめは嫌がらせをしてはいけない。法律によって、法律の解釈によって同じように注意を喚起する。そういう活動であろう。

わたしはこのDEIが新たなDEIを生むのではないかと憂慮している。それはDがDiscrimination(差別)、EがExclusion(排除)、そしてIがIsolation(孤立)といった結果を招くのではないか。そうであったらこの活動は逆効果だったといえよう。

アメリカでは奴隷制というあってはならないことがあった。そのための救援策としてDEIが進められている。ミネソタ州で黒人のジョージ・フロイドが無抵抗なのに白人の警察官によって殺害された。そんなことからこの話題への意識は高い。

会社経営にどこまで取り入れるか。経営者にとっては頭の痛い問題であろう。



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