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学習系イベントを非協力ゲームで説明する

いまから20年前の2003年というのは忘れられない年になった。それはわたしが40歳を過ぎてボランティアに目覚めた時として記憶されている。お金儲けだけをして約20年が過ぎた。会社の人たちと昔ほど飲んだり騒いだりしない。コミュニケーションがしずらくなった。なんとなく経営に対して不信感を募らせていた。ただなにかしたい。そんなときにボランティア活動というのが選択肢としてあった。

わたしは浅草のボランティアガイドを18年続けた。ボランティアを続けているといろんなことがあるものだ。そこにやってきたひとがさらに別のボランティア活動を教えてくれる。アメリカへの留学応援や島根県の地方創生といった自分のお金を持ち出してもやってみたいことが出てきた。しかも仕事を持ちながら週末にだけやる。

さて対面、リモートを問わずなにかしら学習系のイベントというものが増えてきた。その特徴はなにかしらのイベントプラットフォームに掲載されている。Meetup、Peatix、あるいはfacebookといったところにイベントを探すことができる。一般的には趣味の集まりのようなものだ。気軽に参加できるものや読書会のように課題図書を買って読まないと参加してもあまり意味のないものまである。

そんな中で具体的な名前は出さないけど一年ほど参加してきた学習系イベントがある。朝30分だけなんでもいいからしゃべろうというイベントだ。そこは参加無料。不特定多数の人たちのはずだが、だいたい常連で固められていて15~20人程度が集まってくる。素性はわからない。4つくらいのグループに分かれて話をしはじめる。

なんのことはない。しゃべればいいではないか。そんな気がする。しかしこのおしゃべり会はなかなか盛り上がらない。その理由を非協力ゲームを使って説明してみます。

非協力ゲーム

ひとつは、だれも話題を提供したがらなくなってきた。各グループには5人くらいの人が来る。ブレイクアウトをしてさあはじめよう。ところがだれも何についてしゃべりたいかを言わない。他人任せになってきている。そうするとほとんどのひとたちが協力したがらなくなる。これが非協力ゲームのはじまりになってしまう。

よくないのは、開口一番、だれか話題を提供するひとはいませんかとはじめてしまうことだ。だれも話題をもってこない。もってこなくてもなにも罰則がない。すると無料でも人がこなくなる。なんでもいいからというのはなんにもないになってくる。

つぎに話題を提供したひとがちょっと損をする。だれもがなにかをしゃべりたがらないため朝のおしゃべり会に参加してくるはずだった。話題を提供してなにかしらの意見を他の4人が順番に語り始めるようにならなくなった。

するとこういうことをいうひとが出てくる。つまらない。もう次の話題に移ろう。ほんの5分もしゃべっていないのに残りの25分をどう使うか。それを言われた人たちが戸惑ってしまう。しかも文句をいったひとが進んで話題を提供しないのだ。そうするとなぜボツになったのか不明のままで不快になる。そういった無礼なことが起きる。

もっとひどいのは話題を提供して会話がはじまった後のこと。しばらくするとこんな話題はおもしろくない。時間の無駄だというひとまでいる。これでは話題を提供した人に対して失礼だけでない。二度と話題を提供したくなくなる。そういったことがたびたび起こると憤慨してしまうひとが出てくる。

最後に30分の朝のおしゃべり会というのはもともと目的がない。何に関心があるのはいつまでもわからない。ちょっと問い合わせても答えが返ってこないのだ。

スポーツ以外であればなんでもいいです。心理学的な事ならいいです。朝仕事に行く前だからあまり重たい話はしたくない。そういったなんともとらえどころのない、わがままな要求しか出てこない。そんななかで適当な話題を提供すればすぐに話題を変えようとかつまらないといったことを平気で言う人たちが出てきてしまう。

非協力ゲームになってしまうとイベントは縮小していく。毎日だったものが平日のみか休日のみになって日数が減っていく。そして1回1時間だったものが30分へと半分になっていく。主催者が時間通りには始めなくなる。そういった非協力ゲームの兆候がではじめる。

おそらくは主催者にとってそれほどのメリットが感じられなくなっているに違いない。話題を提供しようという人が少なくて提供したひとが損をするのだからだれもそうしたいとは思わないだろう。

話題を提供するしないは参加者の自由になっている。強制ではないのでしなくても参加は認められる。しなくてもとがめられない。無料であるために気軽に参加してくる人が多い。ところが参加しても話題を提供しなくなって他力本願になってくるとやる気をなくしていく。1000人グループの中にいても20人程度しか集まってこない。

参加者の中にひとりでも協力をしないひとが出てくると非協力な状況が起き始める。主催者が話題を提供しないひとを注意しなければいけない。よいイベントは5人集まれば、最低5つの話題が出てきても不思議ではない。そうではなくなると一気にイベントは意気消沈していく。それを盛り上げることは難しい。

無料であっても参加者が協力しないとなにも生まれない。生まれないどころか不快感が残ってしまう。その感覚を気分転換するだけでも時間がかかる。わたしはそういった不快感を除去するのに家のまわりを散歩する。あるいは自転車で近くの駅までいく。それでなんとか均衡を保つことができる。

精神的コストが発生することになる。それを上回るだけのメリットがあればいいのだがそうはメリットも出てこない。コストがコストを産む悪循環に陥っていく。

期待を下げる

さてそういった悪循環がはじまってしまったらどうするか。わたしなりにこの1年くらい考えてみた。1年で100回参加した。そのうち50回話題を提供した中で考えてみたことだ。

まずは期待を下げることだ。無料のイベントでなにやらおしゃべりができる。それだけのイベントして理解する。なにも学習をするわけではない。引退した人も入ってくるため暇つぶしも多い。遅れて入室し、早退するだけのひとも2~3人くらいいる。だれも注意しない。

そこでまあ目指すというかやってみることはなんとか場づくりができればいいというものだろう。なにかしらの状況設定。ある出来事の描写が事実をベースにできればそれでいい。それより踏み込んだ解釈はできない。どう状況を把握しているのかでイベントは終わる。

たとえば福島県の処理水について。福島産の海産物を食べますかと話題が提供されたことがあった。なにもそこで意見を述べることはない。事実をそのまま描いて発言をすればいいだけのことである。そこに解釈を加えるから物議を醸すのであってそのような物々しい話はしたくはない。

つぎに話題を提供するのは5回に1回くらいにすればよいであろう。いつも提供する必要などない。おしゃべり会でも聞き役にまわる。いわゆる聞き専というもので消極的な参加に変えていく。それでも害がない。害がなければそれでいいのである。摩擦がないことが目的になる。イベントに継続して参加することが目的である。

なにかを学習しようとか何か問題解決をしようという大きな期待を持たない方がいい。そうではなくてひたすら続けるだけ。聞き専として相槌をうつだけのときがあっても時間は過ぎていく。

このような方法をとるのは一癖あるひとが入室してきたときだ。イベントには素性がわかっているひとは参加してこない。さまざまな思惑で参加してくる。問題が起きない場をつくる。それだけのことだ。

ちょっとだけ期待をあげるのであればどんなことに関心があるのか。この関心事を探る時間としていいであろう。不特定多数の素性のわからないひとたちが適当に集まって適当にしゃべっているのであるから何に関心があるのか。それを探るだけのこと。それ以上は望まない。

これはボランティア活動をはじめた20年前に気づいたことだった。どんなにボランティアであるとしても運営をしなければいけない。この運営が簡単ではない。というのは会員にいろいろなひとがいてボランティアというのはなかなか難しい。浅草のボランティアガイドではいろいろなひとが集まってきた。

中には大企業を引退してボランティアガイドをしたいというひとがいた。ところがそのひとはIBMを定年退職してやってきて周りの女性に対してこういったそうである。お茶を飲みたい。おい、持ってこい。こういうひとがボランティア活動に会員として参加してくる。本当にあった話である。

積極的にやるひとが得をする仕組みがなければならないであろう。協力ゲームとしてのイベントがちょっとした不正により非協力ゲームになっていく。そうするとイベントは次第に廃れていく。