[続]人生を変えた七つの経験

さて、前回のブログでわたしに大きな影響を与えてくれた七人とかけがえのない経験について紹介をした。その方たちから授かった生き方だった。わたしは書いている間もその人たちを思い出していた。いまでも心から尊敬している。振り返ってみてそれらの経験は大きかった。自分の価値観を形つくり行動特性や生活習慣にまで影響を受けた。わたしは変わることができたといえる。いつもそれらばかりで過ごしてきたわけではない。けれどもこれらで目指す方向を成してきたといってもいい。

ただこれだけというわけにはいかない。むしろ信じて追及をし過ぎたことによっていくつかの反省も出てきた。それを続編として書いてみます。結論としては万能ではないということです。

球技の怖さ

中学校2年生の時に指導者からバレーボールのパスのコツを教えてもらった。練習をしたらできるようになった。うれしくてしょうがなかった。そうして高校に進学をしてもバレーボールを続けた。わたしのバレーボールにかける熱意は相当のものだった。そこからやりすぎた反省がある。

練習は平日の4時30分からと決まっていた。夕方になり日が暮れるまで毎日練習をした。県大会にも出場した。身体は丈夫で風邪をひくことはなく病気もしたことがない。中学と高校は1度も学校を休んだことはなかった。

だが大学に進学をすると身長が足りないためバレーボールをやめた。代わりにテニスをするようになった。社会人になってからも10年ほどのらりくらりと趣味で続けた。30代になると新たにゴルフを始めた。ゴルフ場で練習をし10年くらいはコースにも出た。ボールを使う球技はゲーム性があって面白い。冗談を言い合い、他のプレーヤーとも社交ができる。しかしこれらのスポーツには落とし穴があった。

球技はケガが多い。特に40代になるととり返しのつかないけがをする。バレーボールはすでにやめていたのでよかった。テニスですらケガの多いスポーツだった。肉離れ、上腕二頭筋の断絶、擦り傷と絶えなかった。ケガをすると何日も病院に通い手当てをうけなければならなかった。日ごろからのメンテナンスが必要なスポーツだ。中には知り合いで十字靭帯損傷という取り返しのつかないけがをする人がいた。これはリハビリをしても完全には治らない。

ゲーム性があり意外性があるため苦境から勝つときもあるし負ける時がある。そのため気持ちの高低がはげしく揺れ動く。たまに気持ちよく勝った時がうれしい。そのためだけにテニスをやるひともいる。近くのクラブにはテニスのことしか考えていないひとたち。いわゆるテニス・バカといわれるひとがたくさんいた。

20年くらい続けたらテニスはやめたほうがよいだろう。やったとしても準備運動、整理体操をして季節のいいときに軽い練習にしておく。試合には出ない方がいい。むしろテニスを通して練習の前後にする付帯運動から学ぶことが多い。

テニスやゴルフをやるかわりに軽い運動をする。ウォーキング、サイクリング、夏場の水泳。40歳を超えればこれだけで十分だ。それに関節可動域を広げる運動。柔軟体操。そしてスクワット。これらは家の中でできる。ストレッチポールもよい。

目的なき勉強会の落とし穴

受験に向けて5人の友達と1年間英語を学んだ。効果は確実に出た。5人はすべて志望校に合格した。そのうち4人はすべて南山大学外国語学部英米科に合格した。当時の入学倍率は10倍だった。そうして身に着けた勉強法を基礎に大学で習う教科も英語で学ぶことができた。

しかしながら受験英語と留学などで使う英語は違う。しかもアメリカの大学では英語を使って学習するのは当たり前のことである。たしかにアメリカ人の先生は大学にもいた。しかも1年間交換留学をすることもできた。しかしながらアメリカに行ってアメリカ人の中で勉強するのとは違う。かなり主張をしないとだめだ。

日本人だけで集まって英語でディスカッションをする。またディベートをする。確かに可能である。しかし日本人だけで集まればほとんどの場合、日本の中の場を使って討議をすることになる。場づくりはそう簡単ではない。友人通しが集まっても英語ではなかなかできない。むしろ日本人が集まれば日本語で話した方がいい。

なにより受験に合格して目標を失っていた。受験をとおして入試に合格すること。しかも同じような難関大学にいくことを目ざす。そういった共通の達成目標があるときのみ仲間で集まって学ぶことは効果が出る。そうでないときはどこかだらけた態度がではじめたり迷惑行為すら発生する。そこから挽回するにはさらに頑張らなくてはならない。むしろ逆効果だ。

素性のわからない不特定多数の人がSNSで集まるのは最悪だ。共通の目的はなく暇つぶしになる。関心の的も定まらない。そういったところは参加はしない方がよい。むしろ有害になることが多い。負担が多くなるだけだ。学習は目的を持ってちゃんとお金を払って習おう。市場価格よりも安い格安の学習もよくない。

ソニーの栄枯盛衰

わたしは確かにソニーの盛田会長と握手をした。奨学金をもらいミシガン大学に留学した。その後ソニーのことが好きになり家電製品はほとんどソニーのものを買った。中には値段を見ないで買ったソニー製品もある。2000年にプレーステーションが出た。家でほとんど使わないのに買った。ただバブルがはじけてからソニーはそれほどうまくいっている会社ではなかった。多角経営も裏目に出ているようだった。

盛田さんがいなくなったあと魅力的な商品が次々と出るわけではなかった。そこは品川にあるソニーの社員もわかっていた。優秀な社員が辞めていきグーグルやアマゾンに転職をした。わたしの知人はソニーに就職したもののやがてアマゾンに転職をした。そこにはソニーの経験者が50人くらいいるという。グーグルにもソニー出身者は多い。転職が必ずしもいいというわけではない。むしろ悪い場合が多い。

ただし経営のやり方ひとつで業績が左右されてしまう。ソニーだからと言ってすべてがうまくいくわけではない。ソニー自体が官僚的になりリスクをとらないようになった。リスクをとってもそれにともなうメリットがなくなった。ソニーという会社はなくならないがどこか勢いを失った時があった。アップルにやられてしまった。

問題意識と姿勢が低い

ミシガン大学に留学しているときに先生から積極性をほめられた。そこでやる気が数倍になりいろいろなことに積極的になった。そういった態度は長く持っていた。攻めの姿勢だ。教室でも積極的に手をあげて質問をするようになった。アメリカ人からもほめられたことがある。しかし日本に帰って仕事をするとそういうことをする日本人は会社にはいない。

むしろ聞き上手な人を称賛する傾向がある。農耕的な仕事の仕方が通例だった。おとなしく文句を言わず。素直でなんでもいうことを聞く人が好まれた。会議をしてもそうだった。

会議の内容はすべてメモに書かれている。議案は会議内で読み上げられる。それだけで15分が過ぎる。書いてあることを読み上げて討論はしない。なにも疑問点はうけつけることはない。書いてあることを理解することだけが会議の目的だった。問題意識は低くそれでも給料はもらえるひとがたくさんいた。

そのため質問など出るはずがないのである。しかも上司や同僚は質問をするひとを煙たがっていた。答えたとしてもだれもほめることはない。給料もあがらない。そういったことから議論をしない人ばかり。反対意見を煙たがる傾向があった。だまっていてリスクをとらない低姿勢の人が増えた。

イノベーションよりオペレーション。0→1よりも10→100に向かう人たちが大半をしめる。そこでは改善を得意とする。当然、0→1は厳しい。1→10でも厳しい。10になったものを100にするのは比較的楽だ。定型業務が多いからである。

また不確実性をごまかし世渡りのうまいひとが会社に残るようになった。積極性は裏目に出ることが多くなった。

厳しいコンサルティング

ジョージア工科大学の先輩から励ましの言葉をいただいて帰国。耳に残った有名校のひとたちと互角にやっていける。そのとおりだった。がんばればなんとか機会をもらうことはできる。そこでがんばって結果が出るかどうかだった。ただし結果を出すことは難しい。特にコンサルティングは難しく厳しい

そういったことができるのは競争がかなり激しい業界。例えばコンサルティング・ファームであるとかITの新興企業だった。そこは競争が激しく給料も決していいわけではない。先進的な考えをする反面、ギャンブル性が高いため堅実な仕事はなかった。無理のきくのは30代まで。

2度目のバブルがはじけ、リーマン・ショック後はリスクが高い仕事は身体が受け付けない。30代後半までは健康で拘束時間が長くてもやれる。そういった無理のきくときは長時間労働もいいかもしれない。ただし高い報酬をもらうべきだ。40代になったら無理は利かなくなる。そのとき大学教授といったのんびり、マイ・ペースできる仕事であればいいがそうでないかぎり関わらない方がいいだろう。

大学教授はアイデアやコンセプトを研究を通じて文章にするひとたちである。大学から給料は払われている。そうでもないひとが危険な仕事にかけることはリスクが高すぎる。どんなリベラル派でもリスクをとるのは40代半ばくらいであろう。成功確率は低い。攻めれるのは若い時だけだ。50歳は遅すぎる。

大学の陥落

大学の教壇に立つことは長く希望していた。三菱商事の先輩が本を書いた。それをたよりに著者が働く国際社会貢献センターに登録をした。いつまで経っても連絡が来ない。そこで直接浜松町にあるセンターに出向いてお願いした。そこには著者がいて親切に説明をしてくれた。そこからセンター主催のパーティにも出席した。2011年から5校で教えた。

ただしわたしが頭で描いていた講師生活と現実はまったく違った。そのひとつは謝金がとても低いということ。1回の謝金は1万円以下。10年間で600回登壇したからといっても600万円くらいにしかならない。そこで他の仕事をしながらの講師生活だった。

授業があれば1日つぶれる。それは正しかった。学生との交流があり、大学という比較的安全なところで施設が使える。先生、先生ともてはやされることもある。しかしながらまじめに勉強にとりくむ学生は少ない。むしろ遅れてきて私語をやめない。授業開始から15分くらいはやむことがなかった。それを注意することもしなくなり、授業は90分から実質75分になっていった。わたしのやる気も年々そがれていった。

大学の講師をするならば65歳の定年を過ぎてからでよい。なるべく家から近いところのキャンパスにいく。それには都内に住んで都内の大学にいく。あるいは車で1時間程度でいける神奈川、千葉、埼玉の大学がよい。通勤に時間がかからないほうがよい。授業開始の30分前にいって授業をして帰ってくるだけ。時間はかけない。疲れない。お金をかけない。そういった講師生活ならば勧める。

規律が失われた読書会

確かにエコノミストを読む会はよかった。それを10年続けたことは大きな達成になった。しかしいまではちょっと長くかけすぎたと反省している。ここまで時間を使う必要はなかった。また当然お金もかかった。結果として読む習慣、議論に強くなる。これらは自然に身についた。

10年で毎日2.7時間読む。すると1万時間になる。だれでも10年なにかにとりくめば得意になる。続けることが才能であり能力である。そのため読書会を続けるために必要なことが成果になった。

長くゆっくり走ることができて粘り強くなること。また読んで話すだけではない。読んだ文章の構成をスケッチして参考にする。そこから文章を組み立てて書く。そういった構想から執筆ということもできるようになる。それがわたしの成果だった。

しかし書くというのは相当なエネルギーを使う。時間もかかる。読んで話すだけとはわけが違う。大学の先生であるとかコンサルタントのように給料をもらいながら研究・執筆をするのとはわけが違う。趣味でやる程度ならばブログに残すくらいでよい。書く練習にはコツがいる。また65歳で引退をしてから本を書くという準備としてやるならよい。

このくらいのことであれば形式的な教育を受けて3年くらいで習慣としてとりいれることができたであろう。10年はかかるはずがないしかけてはいけない。そちらのほうの専門家に相談したほうがよい。素人ばかりが集まるところでマイ・ペースで議論をしているだけでは効率的ではない。

特にfacebook上で行われているエコ会は昔のようなよさがなくなってしまった。特にズームに移行してから劣化してしまった。それは形式面での劣化だった。時間通りには参加してこない。読んでこない。カメラはオフのまま。ファシリテーションをしない。もっといけないのはアドミをだれも手伝わないことだ。そのためアドミのひとたちがイベントにこなくなった。規律は失われた。

それだけではなくイベントに来るのはシニアのひとたちが大半になった。そのひとたちががっちりときているためか若い人が来なくなった。きてもすぐにやめていく。どうだろう。30代の人が60代のひとといっしょに読書会をするだろうか。感覚があわない。世代間のギャップはひろがっていった。

3年くらいで離れていった方がよい。それでもエコノミストを読み続けることはできる。