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李鋭 自らの歩みを語る (1) 2006

《李銳新政見》天地讀書有限公司 2009,p.63-67
(李鋭が自らの歩みを語っている。日本の侵略に対する国を守るという意識が、共産党に加わった理由だとしている。蒋介石の無抵抗に憤慨して、日本の侵略に対抗するために共産党に走ったと。聞き手の笑蜀が繰り返し聞いているのは、マルクスなどの古典を李鋭がどこまで読んでいるかだ。しかし李鋭の返答から明らかになるのは、共産党に走るにあたって、そうした古典の影響はわずかだという事実だ。また、ほかの西欧の古典の知識の摂取も限られていた。李鋭は自身の痛切な経験を通じて、言論の自由の大切さを学んでゆき社会民主主義を自身の立場として表明するに至る。なお、冒頭の質問者の言葉は、この採録が2006年10月から12月の間に行われたことを示唆している。)
  笑蜀:李さん、10月14日に中央テレビ局が放送した「長征70周年記念文芸夜会(晩会)」であなたの写真を拝見して。とてもうれしかったです。
  李鋭:私も古さでは資格があるといえます。(中日)抗戦以前に入党した党員として。抗戦前の党員はみな紅軍一代に属しています。
  笑蜀:長征から今まで70年、抗戦前に入党した、抗戦前に入党した年老いた生涯革命家は、今日語れるでしょうか。あなたは自分に対し一生社会主義に頑張るというのは、一体どういう思考なのか? 若いときにあなたは共産党に参加したのだから、社会主義に向かう(向往)ことを肯定していた、だとしたら当時あなたが考えていた社会主義はどんなものだったのですか?
 李鋭:私が当時共産党に参加した、原因はどこにあったか?それは日本に侵略されたからで、国を滅亡から救う(救亡の)ためでした。「九一八」(1931年の柳条湖事件、すなわち日本の満州軍が柳条湖で列車を爆破して満州侵略のきっかけとした事件 訳者)のあの年、私はちょうど高等中学の1年生、学校の愛国主義の気分はとても濃厚でした。社会上の影響もまたとても(蠻)激しかった。私は小学校、中学とともに長沙で学んだ。あのとき湘江の上には英国そして日本の軍艦があった。長沙で「六一惨案」が発生したのは、およそ1923年のこと、日本兵が上陸し、岸辺で武器を取り出し(開槍)二人が死んだがその一人は子供で、重傷九人、軽傷三十人余りであった。1928年には済南でもっと大きな「五三惨案」(訳注 日本では済南事件)が発生した。日本軍が侵攻する中で、我が軍民3000人余りを死傷させ、10名あまりの外交官を惨殺した。あの年の5月7日それは日本が中国に「21ケ條」の締結を強引に迫った日は、「国辱日」とされた。毎年学校は記念することが求められた。これらの事件は我々全員にとって大きな刺激になった。父の李積芳は1905年に日本に留学に赴き、日本についたところで孫中山の最初の東京講演(演講)に行き当たった。父は(講演を)聞くとすぐに辮髪を切り、同盟会に参加した。彼は早稲田大学において宋教仁と同じクラスで同窓であり、黄興、秋瑾は友人だった。民国2年に衆議院に当選した。だから私と二人の姉は皆北京で生まれた。彼はその後、孫中山に従って、広東で「非常国会」に参加した。ほどなく長沙に戻り1922年に亡くなった。
 笑蜀:その時、何歳でしたか?
 李鋭:5歳前でした。母の李張淑は清の終わりに平江啓明女子師範を卒業しています。母は、父の影響がとても深く、教養があり、夫婦間で詩詞唱和(一人が読んでもう一人が答える詩をよむこと)ができました。私は幼いとき、母が話すのを聞きましたが、日本の中国への野心はとても大きいというのです。たとえばオレンジ(橘子)はおいしいですが、日本の先生は子供に教えます、もっともおいしいオレンジはみな中国にありますと、オレンジを食べたいなら中国に行かねばならないと。父は私に書き机を残しましたが、その机の引き出しには、宋教仁、黄興、秋瑾の『榮哀錄』『飲冰室文集』などがありました(訳注 宋教仁(1882-1913)、黄興(1874-1916)は孫文と並ぶ中国同盟会創立の立役者。黄興は軍事面の責任者だった。宋教仁は議員内閣制確立によって袁世凱を牽制することを企て、袁世凱に嫌われて暗殺された。秋瑾(1875-1907)は辛亥革命を待たず、蜂起の露見により清朝政府により捕縛処刑された。『榮哀錄』は人の栄枯盛衰の意味があるので、この文章の意味は3人の一生を書き留めたものがあったという意味ではないか。『飲冰室文集』は梁啓超1873-1929の著作を指すとおもわれる。)。ですから私は小さいときから、日本は中国を滅亡させることを知っています。高等中学のとき私は一篇の左翼小説を書いたことがあります。私たちのクラスでは壁新聞(墻報)作りに往復し、愛国主義を宣伝し、同窓生の中の影響は大きかった。1934年に高等中学を卒業するとき、理科入門(基礎)の成績が良かったこと、科学で国を救うことに影響されたことで、大学で受験したのは(武漢大学)工学院でした。「一二・九」運動(訳注 1935年12月9日 北京の大学生を中心に、日本が進めている華北分離工作に対して生じた反対運動のこと)の後、全力で救亡運動(国家民族の存亡の危機を救う運動)に入った。
 笑蜀:あなたが全学生時代に受けたのはすべてが左翼の影響ですか。
 李鋭:すべて左翼の影響ですが、とくに魯迅に影響されました。魯迅の本はとてもたくさん読みました。書店ですべてを買うことができました。さらに自分の家庭世代住んでいたところの関係(家鄉關係)がありました。私の実家は湖南平江(というところ)です。平江にはとても早くから共産党組織があり、大革命が残した基礎があり、彭徳懐の蜂起(起義)があり、共産党と国民党の争い(紅白鬥爭)は極めて激烈でした。私の家と共産党の源(淵源)との関係はとても深いものがあります。私の父親の二人の同郷の友人はいずれも党草創期の重要人物です、方維夏は毛沢東の第一師範のときの先生です、もう一人は李六如といいます。彼ら二人は北伐のとき、ともに譚延闓第二軍部隊の党代表だった。李六如は小説体の自伝『六十年の変遷』を書いており、その中で私の母親を「李家の若奥さん(媳婦)」として言及している。
 方維夏もまた日本に留学し、帰国してからは湖南省議会の議員であり、私の父と年齢はほとんど同じだった(私の父は1882年生まれである)。李六如は私の父より五六年若く、辛亥革命に参加し、1913年になって日本に留学し河上肇の影響を受けた。長沙で学校を起こし、実家に会っては労働組合、農民組合を起こし、毛沢東と知り合った。1922年毛の紹介で入党し、抗戦時期には毛沢東事務室の秘書長を務めたことがある。彼の元夫人は私の母と同学同クラスであった。当時毛沢東はいつも李六如の家にやってきた。李六如夫人は母に訴えた。毛の上着(長褂子)は、洗ったことが果たしてあるのか、毛は衛生に無頓着だと。私の父が亡くなったあと、霊柩が水路に沿って平江に運び戻すとき、方維夏は棺をさすりながら激しく泣いてくれた。1934年,方は湘贛邊區で国民党に殺害された。一つには社会の影響、一つには家庭の影響であり、私の母は私に話したことがある、父は将来天下は共産党のものだと考えていたと。だから私は小さいときから左傾していた。主要には蒋介石に不満があった。日本の侵略に蒋介石は抵抗せず、独裁を行い、党は一つ、主義は一つ、領袖も一人だった。私は中国には民主が必要であり、強く盛んになるべきであり、希望はまさに共産党にあると考えた。
 「一二・九」運動のとき、私は武漢大学で事を構える側の頭(鬧事的頭頭)であり,その後は武漢秘密学連の責任者だった。学校には公開の学生救国会があったが、私たち四十人余りの進歩的な学生たちは別に「武大青年救国団」を成立させた。支援者が入っているので、完全な学生組織ではないが。
 当時武漢では党組織に接触できなかったので、われわれ八九人の最も信頼できる秘密学連中の人間で、1936年後半、自分たちで共産党組織「中国共産党武漢臨時支部」を設立した。そして1937年2月、謝文燿の家で厳粛な入党宣誓儀式を行った。謝文燿は解放戦争時に河南で犠牲となった。時に中原<七七報>の副社長であった。
 笑蜀:あなた方は当時共産党になることが危険だということを知らなかったのですか?
 李鋭:危険はわかってました。大革命失敗後、共産党は蒋介石により追われ殺されました。長沙で「馬日事変」*のとき、私は街頭で殺された人の首を見ました。殺された共産党の人それぞれに木製標識がそえられていました。軍隊がそれをもって街頭を行進し、軍のラッパを吹きならし、あるものは繁華街で首を高く掲げたりした。魯迅が<鏟共大觀>で「革命で頭を掲げられて退くことは、とても少ないがあることだ」と書いている。つまりこの種のことを話しているのだ。彼は政治犯の文章についてたくさん書いた。彼の本当に多くの青年友人が蒋介石により殺された。当時蒋介石に対し恨みは深いものがありました(恨透了)。東北を失い、河北東北(冀東)は自治、蒋介石は抵抗しない。そこであの時、危険を顧みることはできず、武漢大学において大いに騒ぎ、私を頭(かしら)に街頭をデモしました。1937年5月、党組織関係と接触したことで、私はすぐに学校を離れ北平(北京)に行きました。前後して行ったものに、謝文燿と楊純(楊純は亡くなりました。退職時は衛生部副部長でした)がいます。このあと私は完全に職業革命家になりました。私のあの世代の進歩青年の多くはこのようだったのです。
 (訳注 馬日事変:1926年7月に北伐軍が長沙にはいってから、長沙を押さえたのは中国共産党が支配する国民党左派であった。そのもとで階級闘争が始められた。土地改革をめぐり武力闘争が生じて、治安維持のため軍隊の発砲による死者が生じた。やがて地主や資産家が捕らえられ、裁判に掛けられて処刑されるなどの事態が生じた。1927年4月12日の蒋介石が上海で共産党を抑える上海クーデーターを起こした後、5月21日長沙において国民党軍司令官の許克祥が起こしたのが馬日事変であり、上海と同様に共産党員を一斉逮捕して処刑するに至った。この事件は前段の、国民党左派の土地改革がめぐる激しい闘争が出発点であるが、その詳細はなお不明な点が多い。手元の 李維漢 回憶與研究 pp.67-90 にも記述はあるが、時間的に整理されて記述されておらず、大変わかりにくい。ただこの事変が起きる前の闘争が双方に死者をだすほど激しいもので、それに対する反発や懸念が蒋介石の上海クーデターの一因になった可能性を捨てきれない。李鋭は逆に馬日事変に至る前に、つまり殺された共産党員が何をしていたかは、一切語っていない。また大革命失敗と冒頭述べているが、大革命とは1924年1月の国民党第一回大会で第一次国共合作が成立してから、国民党が結束して反共に転じる1927年までの時期をいう。1927年には4月に上海クーデターがあり、蒋介石は南京に国民党政府をつくる。これに対して国民党左派の汪精衛は武漢に国民党政府を樹立して、一次二重政権になるが、7月には両者が折れ合い、蒋介石は一時身を引き、国民党は反共で路線を統一する。つまり大革命は第一次国共合作の時期の国民革命の高揚を指すが、1927年に完全に終わることになる。一般に理解されている、革命の内容は北伐に示される北洋軍閥への闘争であるが、馬日事変に至る長沙での争いをみていると、闘争の中身はそれだけではなかった。その矛盾が、合作の終焉につながったということではないか。)
 笑蜀:当時魯迅の書物を読んだほかに、あなたはどのような進歩書籍、特にマルクスの書物を読んだのですか?
 李鋭:当時、読んだ進歩書籍のなかで影響が最も大きかったのは「西行漫記」です。(これは)まったくの救亡思想から出発したもので、もし亡国となれば、ただ共産党だけが、中国を救うことができる(というのである)。当時マルクスの本で読めるものはほとんどなかった。主として左翼書を読んだ。マルクスの本は武漢大学図書館にはあったが、英文だった。毛沢東の本は全く読まなかった、一体どこにあるかね?
 笑蜀:あなた方が当時理解していた社会主義は主としてどのようなものか?
 李鋭:それはソ連の社会主義。当時、我々はそれが世界で最良の主義だと考えていた。
 笑蜀:なぜですか?
 李鋭:ソ連は強大だったから。当時我々は、ソ連が強大であるのは計画経済が成し遂げたことと考えた。計画経済は好意的に理解された(正面理解)。ソ連は当時我々からは人類の未来の見本(樣板)とみなされていた。
 笑蜀:胡適のような知識分子はあなたには影響がなかったのですか?
 李鋭:彼らは我々になんの影響もなかった。あの時、私は胡適を罵りさえした。
 笑蜀:なぜですか?
 李鋭:当時、胡適は『独立評論』(という雑誌)を行っていた。我々も読んだが、彼は学生のデモに対して批判的態度をもっていた。学生のデモは構わないが、しかし法律を遵守するべきだと。彼は「再論学生運動」という文章の中でつぎのように説いた。「大規模なデモは、すべて事前に経路と目的地を警察機関に通告するべきで、その後は警察機関に秩序維持の責任を任せることができる。私は民国4年にニューヨーク市で「婦女の参政」(を求める)50万人の大デモを、民国22年「蘭鷹運動]50万人の大デモを見たが、いささかの騒擾もなかった。」当時、武漢大学の学生は『中国を救え(救中国)』という刊行物を出していた。私はすぐに『救中国』上に文章を発表して、胡適に答えた。文章の頭で質問した。胡先生は、文章を書いたとき、「ニューヨークにおられたのか北平におられたのか?」あるいは「この二度の運動の騒擾の罪を学生に与えられるおつもりか?もしそうなら、「中年人」の心はあまりにも残酷だ(太毒了)。」文章の標題は『胡論學生運動』(この文章は標題を『胡適論學生運動』と改題の上『李鋭詩文自選集』に収められた)
 笑蜀:当時あなたは胡適をとても嫌っていたのですね。
   李鋭:そうです。大嫌いでした。私が嫌いなだけでなく、当時の進歩学生の多くがそうでした。当時、学生の愛国運動を支持することは社会的に多数派でしたし、武漢大学の教授・大学当局も学生に同情的でした。
 当時、蒋介石に対し革命を行うことは、十分な理由があること(無可厚非)でした。現在ある一種の歴史観では、この革命を一体するべきだったかは再考の必要があるというのです。しかし当時は考慮するまでもなく、歴史とはこのようなもので、歴史にはそれ自身の必然性があるのです。

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