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山種美術館 Yamatane Museum of Art

 山種美術館は何度も場所が変わった。広尾3丁目の現在の場所に移ってからは初めての訪問となった。後述するように渋谷あるいは恵比寿からバス便がある。恵比寿から駒沢通り沿いに歩いて徒歩10分である。
 これも後述するように展示室は地下にある。エレベーターがあるが、その位置がわかりにくく利用を阻んでいる。チケット売り場の後ろの位置にある。同様に1階奥にあるトイレも分かりにくい。大きなトラブルになる前に分かりやすくする積極的工夫が必要だ。
   以下3回にわたる訪問を記録する(2022年5月5日、7月17日、11月5日)。

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    奥田元宋(1912-2003)と日展の巨匠、と題した企画展(2022年4月23日-7月3日)である。
 展示室は地下にあり涼しい。今日(2022年5月5日)の日中は外は西日を受けてやや汗ばむ暑さだったので助かった。展示室の規模は小ぶりだが、見て回るにはちょうど良いと感じた。小ぶりなのをいいことに、普段の展覧会ではしないことだが、2回回って楽しんだ。目玉は奥入瀬(秋:元宋71歳)。同じ老人として、元宋が、70歳を超えて1年に1作の大作に取り組むとした気概に感じるものがあった。70歳を超えても毎年の大作。そうありたいものだと奥入瀬の紅葉を見て感じた。
 たまたま並べてあった、大観(1868-1958)の「楚水の巻」は中国での写生がもと。大観はなお若く、線が明瞭であることに大観の若さを、また詳細な描写に中国の造形を見る目が確かであることを感じた(大観:42歳)。
 良く知られていることだが、大観は菱田春草(1874-1911)とともに、明治36年1903年にインドに1ケ月ほどわたっている。また春草とともに、明治37年1904年から明治38年1905年まで欧米を旅行している。インド、欧米を旅行するとともに、現地で絵を描き、それが評価される経験をしている。そのうえで明治43年1910年に1ケ月ほど、寺崎広業、山岡米華とともに中国を旅行している。「楚水の巻」はその直後の成果として知られているもの。ここでは大観の並外れた行動半径の大きさに敬服を記録しておきたい。
 日展三山の東山魁夷(1908-1999)、杉山寧(1909-1993)、高山辰雄(1912-2007)の三人の作品を並べた部屋もあった。魁夷の「緑閏う」は京都の春を描いたもの(魁夷:68歳)。奥田の奥入瀬(春:75歳)の厳しい寒さから蘇ったばかりの新緑とはまた異なる雅な新緑の世界を描いている。

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    その後であるが、2022年7月17日「水のかたち」と題した企画展を訪れた。同じ画題、例えば奥村土牛の「鳴門」と石田武の「鳴門海峡」が興味深かった。目玉になっていたのは千住博の「ウオーターフォール」だが、かれの作品はややパターン化されているので食傷を感じ、「フォーリングカラーズ」というカラフルな作品に面白さを感じた。他方で日本画の源平の世界と題した秀作の展示もあった。

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 以下は撮影可とされていた山種美術館所蔵の小林古径(1883-1957)の『河風』(1915)である。

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 2022年11月5日、竹内栖鳳(せいほう 1864-1942)展を見てきた。「東の横山大観、西の栖鳳」という言い方がある、日本画の大家である。いろいろな感想を持ったが、一つは栖鳳の中国への2度にわたる取材旅行(大正9年1920と大正10年21年)である。南京や蘇州など中国各地をたずね、写生を繰り返している。横山大観もそうであったが、彼らの中国旅行が、中国の風物や景色を愛でたものであることた確かだ。戦前の日本と中国との交流について、大観や栖鳳の絵から感じるのは中国への親しみというメッセージである。蘇州での絵をみると、中国の人の生活もそこに描かれている。こうした交流は、まだ日本が本格的に軍事進攻する前だから可能だったのだろうか。
    竹内栖鳳 再び支那に遊びて 大正10年(1921)
 なお栖鳳は明治33年1900年に7ケ月かけて欧州旅行をしている。日本画家であって、欧州を見てから中国を見たという、この同じ経験を栖鳳も大観もしたことに注目したい。
 竹内の「班猫(まだらねこ)」大正13年1924年、重要文化財が今回の目玉だが(写真撮影可であったので以下に掲げる)、同じく重要文化財の村上華岳(1888-1939)の「裸婦図」大正9年1920年も今回見ることができた。参考作品として出品されていた長澤芦雪(1754-1799)作とされる「唐子遊び図」(重要美術品)。森徹山(1775-1841)の「兎図」などは、個人的には優品の発見だった。

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 アクセス JR恵比寿駅から日赤医療センター行きバスで広尾高校下車がちょうど美術館前になるので便利らしい。ただし私はJR渋谷駅から日赤医療センター行きバスで東4丁目下車で向かった。帰りも東4丁目だが、バス停の位置が日赤医療センターに向かって大きな通りを渡った反対側にあり、行きと帰りで東4丁目のバス停の位置がかなり離れているので注意が必要だ。


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