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スターリン、トロッキーの中国認識(1927-29)

 以下は曹泳鑫《馬克思主義中國化:基本認識和實綫》學林出版社2015年pp.57-61の一部を訳出したものであり、スターリンやトロッキー、陳独秀にもどって、曹泳鑫の記述の正確さを細かくたしかめてはいない。
 ここでは1927年の蒋介石による反革命以降、トロッキーが中国革命について述べたことについての理解の一助として、そして、この時期のトロッキー派ー陳独秀が党内右派あるいは取消派と呼ばれていることを理解するための、一つの参考資料としてこれを訳出しておくことにする。
    なお1930年代初頭の陳独秀の著述は披見している。陳独秀は国民党の軍事独裁にたいして、普通選挙による国会(国民会議)を当面の主張としている。将来的に無産階級政権を目指すものの、そのためにも民主主義の徹底を目指すのが正しいとしている(たとえば「中国共産党左派反対派綱領1931.5.1」「両個路線1931.11.28」『陳独秀晩年著作選』天地2012所収)。

p.57  1927年の四一二と七一五の反革命政変後、中国大革命は失敗する。スターリンとブハーリンなど多数派はレーニンの民族と植民地問題の学説を継承発展させ、中国は半植民地半封建社会であるという認識を堅持した。封建主義に反対しそして帝国主義に反対することが依然として中国革命の基本問題であった。武装している、そして
p.58  武装していない地主階級が中国の政治経済権力を掌握しており、伝統的封建専制制度に封建の残余と軍閥官僚の上層建築が置き換わって、中国国内圧迫の主たる様式となっている。帝国主義の中国への統制は現在軍事面にとどまらない。中国の工業、財政、金融、交通など国民経済の動脈(命脈) を支配統制するものである。それゆえ中国革命は資産階級民主革命であるしかなく、この種の革命は封建残余に反対する闘争と、反帝国主義闘争の結合である。この認識は中共六大の中国社会性質と中国革命性質についての判断の重要なポイント(因素)であった。
   スターリンと国際インターナショナル(コミンテルン)の中国問題に対する認識には実際の判断に合わない(不符合)ものもあった。蒋介石の革命への背反を、資産階級による都市革命に反対しそして富農による農村革命に反対する、民族資産階級の敵対(叛变)と同程度のものととらえるというような。これらは、中共党内の認識と決定においてすべて誤った指導をうみだし、左傾した盲動、猪突猛進(冒進)の一因になった。
(訳注 なぜか触れられていないが。中国共産党に対して、スターリンが国共合作にこだわった指導をした問題がある。その姿勢は蒋介石による反革命ーつまり清党という名での共産党員の摘発、殺戮にもかかわらず変わらなかった。言い換えると、蒋介石による反革命で、中国共産党に多くの犠牲者がでたのはスターリンのこの政策の結果だとも言えたが、スターリンはその責任を認めることを拒んだ形になった。これに対してトロッキーは国民党から共産党が出ることを主張していたので、この点でトロッキーの主張に共感するモスクワ在住の中国人留学生が少なくなかった。スターリンートロッキーが対立するなか、これらの学生は中国に送還され、ボリシェビキレーニン派と呼ばれるトロッキー派のグループを中国で立ち上げることになった。曹泳鑫は、このスターリンの問題を曖昧にしたまま、半植民地半封建社会という認識をスターリンが維持したことをただ評価する書き方をしている。)
 中国社会性質と革命性質の認識問題の上で、ソ連共産党内部にも分裂が現われた。トロッキーを頭(かしら)とする少数の人たちは、中国大革命の失敗はスターリンと国際インターナショナルが中国で誤った路線を進めた結果だと考えた。トロッキーは1928年7月から1929年夏まで「中国革命の総括と展望(前瞻)」「国際インターナショナル六次大会後の中国問題」「中国の政治状況と反対派(ボリシェビキレーニン派)の任務」など三篇の論文を連続して投稿(抛出)して、以下のような認識を示した。ーアヘン戦争後の中国は資本主義化を実現した。中国は資本主義社会である。封建勢力の中国における作用は軽微である。民主革命はすでに歴史的過去であり、中国資産階級の角度から見て、辛亥革命と今回の大革命の2回の奪取を経て、蒋介石が政権を得たことが示すのは、中国の民族資産階級はすでに中国の統治権を取得したということであり、民族資産階級は反革命的であり、中国はすでに資本主義の安定発展時期に入ったということである。「中国に革命の情勢は欠落している」この時にあっては、ただ時期の成熟を待つことによってのみ「社会主義革命を日程にあげることが」できる。彼らは、中国の農村には基本的には封建勢力は既に存在しない、それゆえに中国農村の農民闘争は封建残余反対するものではなく、資産階級に反対するものだとした。

p.60  陳独秀らの人々は、中国の封建、半封建社会性質否認を堅持し続けた。その思想はトロッキー派の主義とさらに結合し、「トロッキー陳独秀取消派」の政治綱領と呼ばれる一組の体系を形成した。「ト陳取消派」の誤った観点は陳独秀が1929年7-8月に中共中央に書き送った3通の書簡に集中して反映している。その主要論点は、1927年の蒋介石の背反で資産階級は勝利を得た、蒋介石の南京政府は資産階級が指導する政府である、中国の民主主義革命任務はすでに基本完成している。ただ関税自主権が実現さえするなら、帝国主義に反対する民族革命の任務はそこで完成する。経済上、封建残余は「最後の打撃を受け」すでに「残余勢力の残余」に変化している。無産階級とその政党はただ資本主義が相当に発達するのを待ってそれから社会主義革命を進めるのであり、当面の形勢のもとでは中国はただ「国民会議招集準備闘争」を行えるだけであり、それゆえすべての革命行動は取り消されるべきである。それなのに「中央はこの明らかな事実を無視して、今に至るも封建勢力の地位を過度に評価している。」
 中国革命の極端に困難な条件のもと、陳独秀らの人々は「トロッキー派」の観点を鼓吹しただけでなく、党内思想に混乱を生み出し、またトロッキー主義の分子と結合して反党組織を成立させた。党中央は陳独秀らの人々の党籍剥奪(开除出党)を決定せざるを得なくなった。その後、陳独秀らの人々はトロッキー派の観点の拡散を続けた。
陳独秀と不断革命論 1930-1942
中共六大(1928)について
中国経済学史目次

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