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陳独秀と不断革命論 1930-42

 林致良他編《陳独秀晩年著作選》天地2012年を使って、陳独秀(チェン・ドウシウ  1879-1942)の民主主義に対する考え方の変化を確認したい。仮説として考えられるのは、トロッキー(Leon Trotsky 1879-1940)の「不断革命論(日本語は永続革命論あるいは永久革命論 permanent revolution)」の影響、そしてその変化である。その場合、当初は、民主主義の徹底はあくまで社会主義を実現するための戦略であって、その先に連続して社会主義革命を目指すというスタンスである。しかしいわゆる最後の書簡になってくると、社会主義革命の部分は後退し、民主主義の重要性を強く強調するものにシフトしているように見えるのである。この点を1930年の著述から順に見てゆく。

 最初の「無産者」の論文は(1930年1月)、一挙に社会主義革命を目指すことを機会主義的と非難。まずは資産階級民主を目指し、その後社会主義革命を目指すとする。一挙に目指した側はすでに世界革命第三期にあるとしていた。しかし結果として1927年の中国革命は失敗した。32-50

 答国際的信は1927年の革命失敗背後にあるコミンテルンの指導を隠して、陳独秀個人の機会主義だと責任をなする付けたやり方を非難している(1930年2月)。67-71

 十月革命論與不斷革命論。トロッキーの不断革命論では資産階級の民主革命のあと、そのまま連続して無産階級の革命にすすむのであるが(このことを不断革命という)、問題は中国の経済状態が遅れていること。そのため、資産階級民主を完全にやり遂げた後、無産階級専制に転ずるとしている(1930年11月)。72-75

 つぎの国際路線と中国党(1931年2月)。瞿秋白が反李立三路線を唱えているが、実際は、コミンテルン=共産国際の指導(盲動主義的冒険政策)の失敗だとしている。81-87

 国民会議についての文章では資産階級の議会制度は民衆にとり欺瞞的というフレーズがある(p.90)。この言い方は、資産階級の民主主義に肯定的な後の陳独秀とは違っている。(1931年2月)88-91

 中国革命は民主の要求で始まり社会主義革命で終わるという次の論文(94-100)はおそらくだが、トロッキーあるいはトロッキー派の主張に近いのではないか。

 左派反対派綱領(1931年5月)。まず1925-27年の中国二次革命が失敗に終わったとしたうえで、左派の任務は失敗の原因を明確にして、団結を維持して、三次革命の準備をすることとしている。108-109  失敗の原因はコミンテルンの機会主義路線にあったとしている。109.国民党は「訓政」の名のもとに専制主義的政策を進めるなかで、民主のスローガンが持つ意義をコミンテルン=共産国際は否定して、機会主義だと否定している。この曲解を批判して、民主の撤退を主張して、無産階級による政権を目指すとしている。114。ここで陳独秀は、無産階級が政権を取る意味を専制(独裁)と置いており、資産階級の私有財産を動揺させると述べている。115-116。(つまり民主主義の徹底を求めるのだが、そのあとは革命であるが、この権力奪取のプロセスは、暴力を伴うのか伴わないのか、いささか曖昧である。疑問が残るのは徹底した民主を求めれば、議会での多数で政権を取れるはずだが、それでも独裁が必要になるという記述は矛盾するように感じられる。)最後に左派の役割は、マルクス=レーニンの思想の基礎上に共産国際を復興することだとしている。108-118

 土地問題決議(1931年5月)。一定の規模以上の富農の土地を没収する、各地に貧農を中心とする農民委員会を設立して没収した土地を管理させるとある。119-128

 兩個路綫    ここでトロッキーの中国革命問題などが引用されている。
民主主義への肯定が並びそれが幻想欺瞞でないという言い方がでてくる。
ここもやはり大きな転換ではないか。そして政権を無産階級がとっていれば、民主革命の完成から社会主義政策に進むというトロッキーの言葉も見える。民主のスローガンのところは陳独秀にこの段階で学習された可能性高い。160-166,esp163-164   1931年11月

 国民会議を論じる この1年後の論文では 民主というスローガンが従来機会主義的とされていたがそれを積極的に使うことが 戦略として肯定されている。国民会議あるいは国民立憲会議は形式的民主主義で資産階級民主主義の政治的表現であるが、現在の中国においては無産階級だけが資産階級民主主義の任務を完成できる。それは中国無産階級の政党である中国共産党の戦略でなければならない。250-261,esp.251 1932年10月 ここでも大きな思想的変化がうかがわれる。

 目前形勢と反対派の任務。この中で無産階級が政権を取る前に民主主義運動を放棄することはマルクス主義の策略ではない。我々の民主運動は目的は無産階級民主制であるが目前の資産階級軍事統治との争いにおいて資産階級民主主義もまた歴史推進の動力であり、国民立憲大会運動は民主運動の具体的総括表現だとしている。1933年3月  276-279,esp.278

 3年後 無産階級と民主主義 1936年3月 この論文は冒頭で民主主義について人々は誤解しているとして、民主主義は資産階級の専利品とするのは間違いだとしている(このフレーズの発想はどこから来たのか。今後調べたい)。これは民主主義を資産階級の民主主義と、無産階級の民主主義に分ける考え方から脱却している。そして無産階級の政権こそ、民主革命を完成できるとして、民主革命が社会主義革命と不可分になると「不断革命」を説明している。つまり大変綺麗にロジックは整理されている。 

 問題はこのあと1940-1942年の最後の著述に至ったときに、社会主義の言葉は表面的に残るものの「不断革命」という言葉が消えて、陳独秀は民主主義にさらに踏み込んでいるように見える。若干の推測を交えて仮説を述べると、スターリン体制のもとでの独裁体制の問題についての認識が深まり、社会主義と民主主義を並列するのではなく、社会主義に比べて民主主義を評価する気持ち、民主主義を確立することの重要性への認識、が高まった、と考える。仮説としては、1940年8月のトロッキーの暗殺、第二次世界大戦の開始(ドイツ軍のポーランド侵攻は1939年9月、ソ連も領土的野心を隠さず東欧・北欧に侵攻、日本の太平洋戦争開戦は1941年12月、1942年前半までは日本は攻勢を維持)という国際情勢の変化が、陳独秀の思想に影響を与えた可能性もある。世界戦争の開始で革命までの時間がさらに長期間あると考えるようになった可能性も否定できない。

陳独秀とトロッキー
新中国建国以前中国金融史


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