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上野東照宮について

   徳川家康(天文11年1542-元和2年1616)の死の翌年にあたる元和3年1617年、日光に東照宮が造営された。東照宮の名称は太陽神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)になぞらえて家康の神号を東照大権現としたことによる。元和4年1618年に江戸城内紅葉山にも東照宮を建立。その後元和9年1623年に、一般志士に江戸近くに参拝の機会を与えようと藤堂高虎(弘治2年1556-寛永7年1630)が自身の屋敷地であった上野の山に祠を設けたのが上野東照宮の始まり。
 高虎の死後も、長い年月をかけて整備が進められた。現在も東照宮入り口に残る大石鳥居は寛永10年1633年のもので重要文化財(鳥居に古いものがある例として大阪四天王寺の石鳥居が永仁2年1294年建立の貴重なものであることが、ふと想起されたが、ここでもこの石鳥居が古い歴史を伝えている)。東照宮社殿に向かって右手の上野動物園内に寛永寺の五重塔として残る五重塔は、もともとは東照宮のもので寛永16年1639年に造営された。三間五層會塔婆。銅瓦葺、高さ36.4M。
 → 上野寛永寺について
 そして最後に3代将軍徳川家光(慶長9年1604-慶安4年1651)により、慶安4年1651年に上野東照宮社殿を造営された。本殿、拝殿、幣殿からなる権現造り。社殿のほか、社殿周辺の唐門、透塀(すきべい)、銅灯篭などいずれも慶安4年1651年のもの(明治44年1911年4月重要文化財指定)。
 唐門には左甚五郎の龍の彫刻が見えるが、拝殿(金色殿)には狩野探幽の壁画がある。このほか諸大名が寄進した多数の石灯篭も興味深い。
   エミール・ギメの『明治日本散策』(岡村嘉子訳)角川ソフィア文庫平成31年2019年は、ギメが明治9年1876年に日本を来訪した際の記録である。その上野来訪のところを読んでいて(同訳書pp.63-72)、東照宮に今も残るレリーフ(以下に写真)のスケッチを発見した(同訳書p.70図版参照)。ギメは確かにここを訪れたのだと実感した。

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   なお正岡子規(慶應3年1867-明治35年1902)の次の句はここの参道の石畳を詠んだものとされている。
   秋淋し毛虫はひ行く石畳
     最後にこの空間で特筆したいのは、金箔に覆われた社殿ではなく、石鳥居からの鬱蒼と茂った緑の中のアプローチだ。都会の喧騒を離れた気持ちになれる貴重な空間である。
 なお寺田寅彦(明治11年1878-昭和10年1935)は大正12年1923年9月1日、たまたま上野に美術展を見に来ていたとき、関東大震災に遭遇。展覧会場から東照宮に移動し、地震直後の上野東照宮の様子を詳しく記録している。
 「T君と別れて東照宮前の方へ歩いて来ると異様な黴臭い匂が鼻を突いた。空を仰ぐと下谷に方面からひどい土ほこりが飛んで来るのが見える。これは非常に多数の家屋が倒壊したのだと思った、同時に、これでは東京中が火になるかもしれないと直感された。東照宮前から境内を覗くと石燈籠は一つ残らず将棋倒しに北の方へ倒れている。大鳥居の柱は立っているが上の横桁が外れかかり、しかも落ちないで危うく止まっているのであった。精養軒のボーイ達が大きな桜の根元に寄集まっていた。大仏の首の落ちた事は後で知ったがその時は少しも気が付かなかった。」(『震災日記』より)

  交通 JR上野駅から徒歩5分


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