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1.2 土地改革法制定前後

『杜潤生自述』人民出版社2005から  (写真は占春園)
劉少奇報告の討論

p.5  1950年初め、中央は全会の開催を決定した。土地問題は議題の一つであった。土地報告を起草するため、私は2回北京に呼び出された。1回目は中央政策研究室副主任寥魯言が私に中南局の数人の幹部を北京に連れて行かせたもので、一緒に行ったのは張根生、任愛生など。ただ情況を報告した。もう一回は劉少奇の土地問題報告草稿についての意見交換のため、中南局の何人かが招集されたもの。それは湖南の黄克誠、江西の陳正人(二人はともに省委員会書記)、湖北の劉建勲(省委副書記)と私だった。華東からはただ一人、土改工作の劉端龍が来た。2回とも、霊境胡同の紅楼に宿をとり、中南海で会議は開かれた。
白石さんたちの訳(農村漁村文化協会2011年p.42)1950年代初頭に、党中央は中央委員会全体会議の開催を決定しており、そこでは土地問題が議事の一つに挙げらていた。土地改革に関する報告の起草のため、私は二度北京に呼ばれた。

2回の会議はいずれも劉少奇が招集したものであった。彼は新区の土地改革は、準備され、指導され、基準に従う(有法可依)べきものだと述べた。我が党は全国執政党(全国を統治する党)になったのであるから、土地改革には秩序がなくてはならず、政策を語るには、さらに一層上手に行う必要がある。我々は皆地方の情況について報告を作成。さらに今後の土改について意見を述べた。中南局は配置されたのは早かったので、河南はすでに(土地改革が)行なわれており、若干の一歩先行した経験があった。劉は比較的詳しく質問し、報告時間も比較的多かった。
→白石さんたちの訳(農村漁村文化協会2011年p.42)二度の会議は、いずれも劉少奇が招集したものであった。劉少奇は、新解放区での土地改革にあたっては、よく準備し、きちんと指導し、根拠となる法律を定めるべきであると述べ、さらに我が党は全国の政権党になったのであるから、土地改革は秩序を保ち、政策を重視し、一層しっかり行わなければならないとも述べた。

私と劉少奇が初めて会ったのは1938年に延安に行ったときで、1942年に彼が南方から太行を経由して延安に戻るときにさらに1回会い、今回が3回目であった。

会議に参加したあと、土地改革法可決の中央准备と劉少奇報告の会議に列席を求められ、かつ会議は毛主席主催と告知された。

毛沢東の謁見

会場は香山の双清別墅に設けられた。

我々何人かは早く行ったものだから,だれにも出会わなかった。黄克城と毛主席とは親しかったので、彼は我々は先に毛主席のところに行こうと言った。客室についてしばらく待っていると、毛主席が我々を接見しに現れた。このとき私は解放後、毛主席と初めて会った。主席が土地改革の情況に質問した時にこう言った。劉少奇同志は君たちに来てもらい、はっきりした意見を求めている(出点主意)。君たちの2つの区は新区で土地改革の主要部分だ。二つの区の人口は2億数千万にもなろう(当時新区の人口は合わせて3.1億)。君たちはできるだけ早く進めなければならない。土地改革は我々の民主革命の残った尾の部分だが、この尾はただ小さくない。大きな尾なのだ。土地改革はうまく進んだとして、第二歩建設に必要な条件(本銭)はこれは多い。君たちはどのような意見か?

劉端龍はまず華東の経験を紹介したが、大意は過去の土地改革の決定を避ける必要があり、今回は政策にさらに注意しさらに準備する必要があるとするものだった。ただし封建勢力の抵抗はとても激しいもので、軽視できない。都市に入ったあと、地主を代弁する人(替地主话的人)は一層多くなった。

毛主席は言う。都市の人間と農村とは複雑に絡み合っている。当然であることは、これは我々の工作にさらに少し進める力となりうるものだ。

その後、中南方面の意見を聞かれたとき、黄克城はただ湖南省一省のことを論じた。省内の政治状況は比較複雑で、統一戦線の情況はさらに複雑だと。土地改革反封建は、すでに固く解き放たれるべきであり、政策策略を把握する必要がある。その後彼は毛沢東に対して(私を)紹介して、杜潤生は中南軍政委員会土改委員会副主任、中南局秘書長、兼政策研究室主任であり、情況全体をいささか了解しているとした。彼は私に話しをするよう推したのだが、これには少し困ってしまった。

毛主席は私に、君はどの省の人間で、どこで仕事をしているのかと尋ねた。私は山西(省)の人間で、太行区で仕事をしていると答えた。彼(毛沢東)は昔から三晋(山西)の地は人材が輩出したところで、(古代の伝説の帝王である)三皇五帝、都の建設、戦争(打仗)すべてはあすこが源だ、八路軍もまた山西にあって強大になったのだ、といった。私の緊張を和らげるためだろう、彼と私は次の言葉で笑いあった。君たち杜家から有名人(人才)は多い。杜預、杜佑、 杜甫など何人もが姓がだ。

私は推薦には値しないし、また全面情況について語り過ぎるのも適切できない、ただ何点かの見方を提出する(と言った)。一つは中南(局)は農村工作の準備をして当面の中心を行おうとしている、これはすでに中央に対し意見を求めたところだ。我々が農村でうまくやれれば、都市への供給を保証できることになり、それは政治経済環境を改善することになる。二つ目は土地改革は段階的だということ。中南局で論じたことがあるが、農村が土地を分配する前の第一歩は地主の悪行の清算と、地代と利息の引き下げであり、主題(主要)は反動政権を力いっぱい打ち壊す(摧毁)ことだ。この一歩の実質は政治闘争であり、農民の政治優勢と組織優勢とを築くことで、農村で威張り散らしている封建勢力代表と国民党の武装したやから(匪徒)とを掃除(扫除)してしまうことだ。もしも反動勢力を力いっぱい打ち壊さずに、すぐに党組織の建設をし、すぐに土地を分配し、ただ経済をして政治をしなければ、群衆は政治に信頼を寄せることはできないと感じるだろう。我々は一面では敵の基層統治を力いっぱい打ち壊すことができるし、一面では闘争を通じて積極分子を発見して、政権を建設できる。第一歩は農会を設立することである。第二歩が土地を再分配することである。主席の『湖南農民運動考察報告』は、「すべての権力を農会へ」が結論だが、新区はおそらくはこの「すべての権力は農会へ」の時期にある。

毛主席はこれは(君の報告は)筋が通っていて手順もとてもいい(这个安排很好)。国もそうだし村も同じだ。基層の政権がうまく行われて、国家政権の強固な基礎をもっているといえる。彼はさらに我々に戻って報告を書くように指示した。

後に私は報告を仕上げて中央政研室に送った。毛主席はこの方針(部署)に同意し、以下の意見を表明した。「われわれは杜潤生が提案した方法に同意する。すなわちまず各県であまねく群衆を行動させる(发动)、地代削減保証金返還反地主そして反革命鎮圧闘争を進める。基層組織を整頓する。これを一つの階段として、続けて田を分ける階段に入る。このようにすることは完全に必要であり、かつまた最も迅速でもある。土地改革の正確秩序は、本来このようであるべきである。過去、華東、東北および山東の土地改革の経験もこのようであった。」かつ中央の名義で発出された。以後に我々はまた、土地改革は3つの階段に分かれるべきだとして、土地改革の再調査と組織建設の階段を増やすことを提案した。これに対してまた毛沢東は以下の意見を示した。「土地改革の過程が明確に3つの階段に分けられることは強く必要だ。各新区の幹部を教育して3つの階段を順番に行わせること、省略したり飛び越してはならない。」(《建国以来毛沢東文稿》第2冊 107,217頁)

富農は働かせ中農は眠らせる

この会見の中で富農問題も議論した。今回我々は少奇同志に対し鄧子恢同志の一つの意見を報告したと、言った。彼(鄧子恢)は、富農の土地を税として没収をすれば十分な土地が(確保)できると主張している。というのは我々の調査では、中南地区の地主、富農の土地は足し合わせて40%余りに過ぎない。70%の地方はとても少ない。この数値と主席の文章中に挙げられている数値にはかなり違いがある。まったく土地をもたないか、少ししか土地をもっていない農民の数はとても多い。人が多く土地が少ない。もし富農(の土地)を動かさず、ただ地主の土地だけ分けると、貧しい雇われ農の要求を満たすには不十分だ。

毛主席は言う。土地がたくさんあるというのは客観事実。多いと言って多くなるわけでも、少ないと言って少なくなるのでもない。君たちの意見には根拠があり、一次資料が基礎となっているから、僕は当然君たちの意見を受け入れるよ。全国はどうであるか、まだ明らかにされていない。将来すべて明らかにされるだろう。富農問題については、私はなお富農を残し、しっかり動かさない(以不动为好)を主張する。というのは我々はなお、都市と農村の資産階級をすべて保留する反封建(の段階)にあり、これは生産に有利であり、重要な問題は我々が生産が低いこと(落后)だ。「富農を歩哨に立たせ,中農は眠らせる」、富農を保つことは中農の生産積極性を刺激する。将来、貧農は分けられた土地が少ないため、困難である、ということであれば我々が政権を取っているのであるから、ほかのところで就業を手配するなどほかの方法を考えることができる。君たちはもどってから子恢同志にこの点を説明したら(做点解释)どうか。
→白石さんたちの訳(農村漁村文化協会2011年p.46)しかし私(毛沢東)は富農を残存させ、手をつけない方がよいと主張している。我々は現時点でまだ反封建をやっており、都市と農村のブルジョア階級はどちらも残しておくほうが生産の発展に有利だからだ。…富農をそのままにしておくことは、中農を安心させて彼らの生産意欲を引き出すのに有利である。

のちに我々が聞いたところでは、このことの前に毛主席と周総理が訪ソ中、スターリンにこの問題を論じたということだ。中国は資本家と富農に対して等しく一種の新たな政策をとる準備をしている。ソビエト区時代に地主に田を分けず、富農に悪い田を分けることを実行一度したが、効果はいずれも良くなかったと認めているからだ。それゆえに農村で富農経済を保存することを準備している。スターリンは同意を表明した。中国の富農はソ連の富農と同じではない、ソ連の富農はソビエト政権に反対した、中国の労働者階級はすでに政権を獲得しており、また富農は反革命の側にまったく立っていない、富農を保留することは有益であり、農民が経済を発展させることを刺激うえで得策である。

その後、我々は毛主席が主催する中央会議に列席した。この会議ではまず婚姻法草稿(党の婦女委員会主任の王明が提出説明した)を討論し、その後、土地改革問題を討論した。当時一人の老同志が土地改革を議論する中で、農民に節約を教育することに注意することに説き及んだ。土地を分けたあと、大飲大食はよくない、防ぐべきだと。毛主席は言葉をはさんだ。「1000年苦しんだあと、ようやく解放された、喜びのあまり、一度飲み食いしたとて、仕方がない(在所难免)、そのあと注意すれば十分だ(此后注意就是了)。」この話は理屈がありまた情があり、私には忘れがたい印象を残した。

この2回の面会を通して、私は毛主席に、とても謙虚で(平易近人)とても和やか、他の人の意見を注意深く聞き取り、また原則を堅持して自然にふるまえる(从善如流)大政治家の趣(风度)を感じた。

今回毛主席は我々の一つの意見に同意し、我々の別の意見を否定した。黄克誠、陳正人はとどまって中央全会に参加した。私と劉建勲は戻った。私たちは遠回りして済南に、そこで闘病中の林彪を見舞い、併せて報告を行った。彼は私たちに、東北で都市を出て両厢を占拠し、群衆を決起させて(发动)わが党の力量を高めた経験を紹介した。今日この2回の林彪との会見を思い起こし、文革時期の逃亡(出逃)を合わせて考えると、人が変わったようだ。問題はどの方向に変わったか。なぜ逃亡したのか。なお疑問が残る。

中央全会中には、富農問題で、黄克城と饒漱石との間で論争があった。饒は中央の意見を擁護し、黄は子恢の意見の受け入れを主張し意見が対立した(相持不下)。のちに富農問題は中央は保留させるように(仍予以保留)決定した。動かさないことを基本とし、個別の地方の事情により、情況により富農から小量の土地を納付させるかを決定する。実際の執行では、中南と西南地区では最小限度、富農の多くの余った土地がすべて変動したのである。

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