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李鋭 自らの歩みを語る (3) 2006

《李銳新政見》天地讀書有限公司 2009, pp.72-77
(すでに述べたように、このインタビューの採録は2006年。ここでの議論は新民主主義をめぐってであるが、新民主主義に戻れという議論に対して、民主主義であってこそ社会主義といえると李鋭は切り返している。また陳独秀からの長い引用がある。陳独秀の再評価の動きはさまざまにあるが、確かに最後の時期の著述は民主主義を擁護する記述にあふれており、魅力的であり日本社会にもっと知られてよい。陳独秀は、当時すでに表面化していたスターリンの独裁体制の問題や、欧米の議会制度の歴史などを自身で研究してこうした記述を至ったと考える。)

笑蜀:現在北京の思想界ではたくさんの人が新民主主義について話しています。新民主主義と社会主義、これらは一体どのような関係なのか?
李鋭:あなたはこのように問題を提出したが、これは昔からある発想だ(一種老観念)、伝統的思惟方式によれば、いわゆる「新民主主義」は、「旧民主主義」とは区別される一種の民主主義で、社会主義は新民主主義がさらに高まった一つの社会発展段階である。通常の言い方は、新民主主義を通過することで社会主義に至るというもの。数十年来、我々は、この種の段階論をすでに良くしっているし、とても慣れている。実際は、すでにある学者は、民主主義は民主主義で新旧を区別するものはない、と指摘している。民主主義の上に「旧」という状態語を加え、それにいささかの制限と増補のために「新」民主主義とするが、すでにそれは民主主義ではなかったか。
 「社会主義」を名乗る、理論は多種類あり、実践もまた多種類ある。もしもあなたの聞くことが、社会主義はソ連モデルあるいはスターリンモデルの一種であれば、我々の長年慣れ親しみ実践してきたあの一種だとすると、あの種の「社会主義」はまさに「新民主主義」と組み合わされている(配套)。「新民主主義」を実行すると、その発展の末にあの種の「社会主義」に至る。
 真正の民主主義が新旧に分かれるものではないし、(民主主義は)私のみるところでは、社会主義の前の一つの発展段階ではない。そうではなく、社会主義の最重要な本質かつ内容だ。というのは民主と独裁との闘争、自由と人権の追求は、人類社会歴史進歩の普遍的な(普世)規律だからだ。我々は不民主あるいは反民主の社会主義といったものを(そもそも)考えることができない。民主主義を実行することなく、社会主義を宣称するものはニセものだと、はっきり事柄をわける(作爲一個分水嶺)ことさえできる。
   ここで私は陳独秀の晩年の民主思考について少し紹介したい。これはわれわれが今日、民主を理解するのにとても有益だ。というのもわれわれの過去の曖昧な観念や誤った理解はあまりに多いからだ。
 陳独秀は晩年の著作『無産階級と民主主義』の中で言っている。「民主主義は社会進歩の動力である。」「民主主義を無産階級の戦利品とするような最も浅薄な見解」「もしも資本主義的民主に反対したり軽視(鄙薄)したりする人がいるなら、それはマルクス主義ではなくファシズムである。それは資産階級に反対するものではなく、資産階級がさらに残忍にさらに露骨に無産階級を迫害することを助けるものである」彼は繰り返して強調している。:「民主はいずれかの階級の概念ではなく、全人類が数百年の闘争により実現したものである。」彼は『我的根本意見』の文中述べている。「無産階級民主は中身がない名詞ではない。その具体的内容は資産階級民主同様にすべての公民はみな集会、結社、言論、出版、ストライキの自由を持つということである。とくに重要なのは反対党派の自由である。これらがなければ、議会あるいはソビエトは同様に一文にも値しない。」文中議論は以下に及ぶ。「いわゆる『無産階級独裁』、本来このようなものは存在しない。ただちに党の独裁であり、結果はまた領袖の独裁がありうるのみだ。独裁はいかなるものであれ、残虐横暴(殘暴)、隠蔽欺瞞(矇蔽)、騙しあい、汚職、腐敗の官僚政治と分けることができないものだ。」彼は指摘している。「スターリンが独裁制を生んだのではなく、独裁制がスターリンを生んだのである。」「無産階級が政権を取ったのち、大工業を国有にし、軍隊、警察、裁判所(法院)、ソビエト選挙法、これらの道具(利器)を手に入れたことは、資産階級の反革命を鎮圧するに十分であり、民主に変えて独裁を用いる必要はなかった。独裁制は鋭利な刀(利刃)のようなものであり、今日は他人を殺すのに用いるが、明日は自殺のために使うことができる。」五四運動の指導者はほんとうになんと(何等)英明な歴史予言者であったことか。
 笑蜀:しかし「新民主主義」の提案(提出)は、結局は(總還是)「民主主義」の一部を継承する意味ではありませんか?この種の部分継承は、当時において、策略だったのか、真心(誠心)からだったのか?
李鋭:この問題は、簡単に答えるのはむつかしい。これは何であり、何でないのか。毛沢東は策略の大先生で、彼の公開発表された著作は、明らかに宣伝あるいは策略を考慮したものが多い。現在は策略か真心からだったかというこの問題を提出している人がいる。『新民主主義論』の中で宣伝公布された主張が、その後、現れず実行されなかった、それゆえにその誠意は疑われると。実際のところ、宣伝は宣伝であり、理論は理論であり、政策は政策であり、措置(措施)は措置である。これらはそれぞれ関連しているが、けっして同一ではない。毛の多くのやり方は、多くは実際(現実)から出発しており、決して抽象理論から出発していない、のちには先に行うことが生じたが、優秀な人たちによって理論的に説明されている。いくつかの本当にせざるを得なかったこと、あるいは(すでに)行っていることは、従来、宣伝されなかったことである。たとえば、「マルクスが秦始皇帝が一緒になったもの」(延安時代にはこう言われた 「皇帝、総統、主席は一つである(一回事)」といった話)かつて言われた言葉であるが、今調べても正確な出どころはわからず、これまで宣伝されたこともない。一部は宣伝されたが、まじめに実行されてはいない。この数年前に,抗日時期の党新聞上で鼓吹された民主的社説(社論)や記事(文章)を集めた『歴史的先聲』が出版された。その中で延安の『解放日報』上の資料は少なく、重慶の『新華日報』上の資料は多かった。というのは前者は解放区の幹部に閲読させるものでこれらを宣伝する必要はなかった。後者は国民党の統治区でシンパ(同情者)を獲得するもので、当然国民党の不民主、反民主を暴露する必要があった。
  毛が提出した新民主主義理論は、複雑な歴史原因と当面する国民党との闘争が必要としたものである。中国共産党が成立してから、(中国)革命の性質と、どのような国家を建設(建立)するかをめぐっては、ずっと議論があった。国民党との第一次合作のときには、孫中山の三民主義が合作の政治綱領の役割をした。1927年の合作決裂後、また三民主義は「完全に一部資産階級の反革命理論」とみなされた。これはまた左傾教条主義統治時期の一種の理論認識であった。抗戦が勃発し第二次国共合作に際して、『中共中央為公布国共合作宣言』は「孫中山先生の三民主義は中国にとり今日必需であり、わが(本)党はその徹底的な実現を願い奮闘する」とある。1939年12月、毛沢東が発表した長文『中国革命と中国共産党』はすでに「三民主義」を「旧三民主義」とみている。『新民主主義論』は1940年に発表され正式に提案(提出)した。中国(革命 訳者補語)の第一段階(階段)は「決して中国資産階級独裁(専制)の資本主義建設ではありえない。(そうではなくて)中国無産階級が指導する中国のさまざまな階級が連合独裁する新民主主義社会であり、その完成をもって第一段階とする。その後、それを第二段階にまで発展させることで、中国社会主義社会を建設する」新民主主義理論の提出は、宣伝上或いは策略上から言って確かにとても大きな成功を収めた。中国民族資産階級とその政治代表は、共産党への疑念を減らし、国共両党の死闘で進んで共産党の側に立った。これはこの闘争の場面における最後の勝敗に結局大きな関係があった。
 これは実際上効果のある言い方だった。毛の当初の考え(初衷)によれば、彼が新民主主義論を提出したのは、当時、党内闘争の中で必要があったからである。王明は『中共五十』の中での説明によれば、1941年に毛は王明と、自身「毛沢東主義」の考え方を作り上げることが必要だと話したことがある。「新民主主義は毛沢東主義でもある。僕の『新民主主義論』は毛沢東主義の第一部理論著作だ。1939年に僕は「新民主主義」を書いてこの点まで考えた。ただあの時は公開してはなすことはできなかった。いまはできる」。これはおそらく毛が提出した新民主主義論の多数の考慮のなかで最も重要な類だ。この点からすれば、彼はとても心を込めていた(非常誠心的)。
笑蜀:それでは当時新民主主義が提出されたときに、党内で意見の対立(分枝)はなかったのですか?もしあったならどのような対立ですか?
李鋭:《新民主主義論》は1940年2月に発表されています(刊行物に掲載されたときの原題は「新民主主義的政治與新民主主義的文化」だった)。あの時は整風運動の前で毛はまだ一人崇められる(定於一尊)地位を得ていなかった。彼が提出したこの主張は、党内でなお対立を生むものだった。王明は《中国五十年》の中で言っている。『新民主主義論』となる草稿が政治局に出されて数人がみているとき、王明は直ちに、この原稿は中国革命のあらゆる問題について、すべてレーニン主義と矛盾している、「新民主主義」は実際上反レーニン主義で、反社会主義の理論であり行動綱領である、と表明した。王明が本書で述べているところでは、当時、仁弼時が新民主主義に対して同じく批判的態度であった。
 みんなが知っているように王明はインターナショナルの忠実な代理人である。彼は当然、レーニン主義、スターリン主義を神聖不可侵の絶対真理だとみていたので、彼は反対の立場でなければならなかった。私が1939年の最後の日に延安に到達したとき、当時の刊行物上にはこの文章があり、誰もがみなまじめに学習していた。というのは1938年(ママ)の『新段階を論じる』は、すでに学習文献になっていた。党の上層の対立情況は我々は皆知らなかった。整風(運動)のあと教条主義と経験主義が批判された。七大(1945年4月延安にて開催 訳者補充)以後、毛沢東は党の精神領袖となり、もはや対立はなくなった。
笑蜀:現在多くの人とくに多くの革命老人が新民主主義を懐かしみ、新民主主義に戻るべきだと考えています。あなたはこのことをどう見ていますか?
李鋭:なぜこのような問題が提出されるのか。過去の歴史の節々を少し思い出す必要がある。1949年9月臨時憲法の役割を持つ『中国人民政治協商会議共同綱領』は明確に規定した。「中国人民共和国は新民主主義のすなわち人民民主主義の国家であり、労働者階級により指導され、労働者農民の連盟を基礎として、すべての民主階級と国内のすべて民族とが団結した人民民主独裁であり、帝国主義、封建主義、資本主義に反対し、中国の独立、民主、和平、統一と富強のため奮闘する。」
    当時中国の経済はとても遅れていて(工業はわずかに10% 農業と手工業が90%), マルクスがいうところの社会主義とは距離があった。この過渡期間(時期)は長いと、一般に「相当長期間(長的時期)」と認識されていた。毛沢東は政治協商第二次会議で講演して、「私営工業の国営化と農業社会化」は「相当遠い将来」のこととした。1951年3月に劉少奇は党の全国組織工作会議で3つの句の話をした。「現在は新民主主義を強固にする闘争をしている。将来は社会主義制度に変換(転変)するための闘争が必要である。最後には共産主義制度を実現するための闘争が必要である。」1953年初め、周恩来と鄧小平が責任者となって起草した文書(文件)は述べている。「我が国の新民主主義社会秩序はすでに確立した。」みんなが知るように、毛沢東が過渡時期総路線を提起(提出)して、「新民主主義の社会を確立する」ことを厳しく批判して、つぎのように指摘したのは、1953年6月である。「彼らは革命の性質の転換(転変)を理解していない(ので)まだ彼らの「新民主主義」を続けて行おうとしている。社会主義改造に進まないのは、右(傾)の誤りを犯すものである。」すぐに資本主義商工業の改造と、農業の合作化が進められた。1953年4月に、中共中央の幹部理論教育の文書のなかで、対応する規定の高い(還規定高):対応すべき、中級幹部学習『ソ連共産党史』の重点は、ソ連が国民経済を回復させ、国家工業化と農業集団化の歴史過程を表現(反映)する第九章から十二章であった。これはスターリンが重工業の発展を強調したからであり、単一国家所有制のスターリンモデルの追求であった。
   歴史は振り返って歩むものではないし、来た道を戻らない。歴史とはそういうものだ。ある時代に戻りたいということを言う人もいる。(昔の人も、(伝説中の)唐虞の時代を懐かしんだ類の話だ)。しかしこれは現実の環境に不満があるということを表すに過ぎない。もしも1949年以前の解放区の情況あるいは1949年から1952年までの短い3年の情況を言って、新民主主義を実行すると言うなら、実際それはなにも理想の天国ではない。戻ると言う必要もない、戻れるとして戻るつもりはない。戻っても出口はない。勢いがあるときに全面的に進むことに出口がある(出路在興時俱進)。(そして)我が国をして、本当に民主的、法治的、富裕的現代国家を建設させること、これは前にすでに話したことだが、まさに私の観点(看法)である。
笑蜀:このような本当に民主的、法治的、富裕的な現代化国家、あなたは中国はそこに至る望み(希望)があると考えますか。(それならそれは)いつごろ達成できるのですか?
李鋭:現在中央は和諧社会の建設を提起(提出)しています。これは大変良い提案で合わせて6つが目標とされ、民主・法治は首位に列していて、全国の人心に符合していますし、世界の潮流にも沿っています。・・・(中略)・・・過去のスターリン、毛沢東理論であれば、このような提起は必ず、階級闘争を消滅させる議論だとして批判されたでしょう。しかし今日誰が帽子をかぶるでしょうか?これは歴史の進歩です。経済上大きな問題が生じなければ政治改革、社会の転型はゆっくりと進みます。希望があるのです。中国のことは慌てる必要はありません。一つの世代の間は動かないかもしれないが、大きな環境は変化しており、全世界の形勢も変化しています。だから全体として私は悲観せず、むしろ比較的楽観的なのです。

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