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妄想と欲望という名の夢か誠か第六話~交錯~

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妄想と欲望という名の夢か誠か 第六話~交錯~


不安

 「大変じゃあ!」
  賢治は大慌てで、雅樹の経営するコンビニにがなり込んで来た。
 「どうしたで?  また」
  商品の新聞を読みふけっていた雅樹は、賢治の慌てように、またもや商品のミネラルウォーターの蓋を取ってから、手渡した。
  ぐびぐびとそれを飲み干す賢治。
「おいおい、急に飲み込むと腹下すで、焦らんと飲みいや」
「こ、これが焦らずにおられんのですよ!  雅樹さん!」
  口から溢れ出た水を手の甲で拭うと、賢治は深呼吸をして、口を開いた。

「まーた、殺しですわ!」



その日、幸夫の住むN市は、恐怖のどん底に叩き落とされた。
  先日、幸夫の同級生でもある角田秀夫に続いて、またもや殺人事件が発生したのだ。
  殺害されたのは幸夫、秀夫と共に同級生だった高階圭一。
  高階は市内で自営で中古車販売を営み、そこそこ羽振りのいい男だった。その対価のほとんどは、高級クラブやガールズバーなどに湯水のように費やされ、それぞれの店で太客として、重宝されていた。
  殺害日前夜の彼は、高級クラブをハシゴし、酩酊するまでに大量に酒を飲んでいた。最後に彼が訪れた店舗のスタッフも、一人で帰らせるには忍びないと思わせる程に酔い潰れていたと言う。しかもその日の彼はやけに落ち着きがなく、大声で喚いては、急に大人しくなって、キャスト達にずっと愚痴をこぼしていたとの事。

「なんか、ずっと、『ねばいいのに!』って、何かの呪文かのように連呼していました。」
「何かに怯えていたような印象を覚えました。まるで、それから逃げるかのように、その日はお酒に走っていたようにも感じました」

  行きつけの店のスタッフやキャストは、後々の警察からの事情聴取の際、口々に同様な発言を繰り返している。

  そして今朝未明に、背中に包丁を突き刺された状態で発見される。第一発見者は従業員の室見。彼の一つ下の後輩。
  警察は発見された際の状況を鑑み、前回同様に他殺と断定して捜査を開始する。しかし、それからわずか数時間、未だに有力な情報は発見されては居ない。そして、狭い田舎故、あらゆる憶測や噂話に尾鰭が付いて、歪んだ形でこの事件は周囲に広まっていく。いずれ皆が疑心暗鬼に囚われ、殺伐とした空気に包まれるのは時間の問題。焦る警察。不安に苛まれる住民たち。
   それを一向に介せず、時間はいたずらに過ぎていくのだった。


「なんで、こんなド田舎で殺人事件なんぞ、起きるんじゃろか?」
「圭一はキレ者じゃったけ、色々周りを蹴落として来とるで、まぁ、恨み持つもんはゼロではなかろうて」
「だども、それで殺すか?  て話ですよ」
「うーん、それは分からんが、早よ犯人捕まってくれんと、安心して外も歩けんだて」
「しかも、なんで今年や?言う話ですよ。ほら、今年は駒田小学校最後のタイムカプセルを掘り起こす年でしょうが。その時の生徒だった子達が、二人も殺されるなんて、なんか不吉でたまらんのですわ」
  興奮気味に唾を飛ばしまくる賢治。
「しかも、また、あの言葉やし」
   雅樹と賢治はお互いに目を見合わせて、敢えてその言葉を飲み込んだ。

『んな、 いだ! ねばいいのに!』
  その声がまたもや、雅樹の頭の中でこだまする。
『俺にどうせい、言うんじゃ?』
  雅樹はこの事件に少なからず責任を感じていた。あの声は空耳ではなかった。そして誰かの、何かしらのメッセージだったのかも知れない。それを今の今まで放置していた自分は、ある意味加害者だ。
『あの声に対峙するべきか』
   彼の中でもう一人の自分が激しく『正義』を訴える。
『いや、何の義理がある?  全くの無関係。何故にわざわざ火の中に飛び込む事があろうか?』
   そしてもう一人の自分は、今までの彼を擁護し、『護る』姿勢を崩さない。
「雅樹さん、どうしよう?  俺らなんかするべきでしょうか?」
  大袈裟にも今にも泣き出しそうな顔の後輩が彼を見つめる。彼には妻が居て、子供もいて、その子供達も結婚し、出産を控えている。彼に何かあれば悲しむ人は大勢居る。
「賢治や、お前はなんもせんでええ」
「雅樹さん……」
   雅樹は無言で頷き、後輩の肩を叩いた。


交差

  幸夫は悦に入っていた。
  『僕は愛する女(ひと)の為ならば、心を鬼にしてまでも、悪人に堕ちることが出来る。それが僕であり、僕の愛だ』

  彼は前回の加奈子とのやり取りで味をしめて、金が無くなるとその都度、彼女から小銭をせびっていた。
  『警察に言うよ』
  その言葉さえ言えば金を出す加奈子。毎回十万単位の金を要求しては、即座に使い果たす。おかげで、彼はみさきちの配信に於ける、ギフティング応援第一位を走り続けている。しかし、みさきちはその配信のイベントでは暫定二位止まり。あと、もう一押しで彼女を一位へ押し上げられる。あの女(加奈子)には、もう少し用立てして貰わなければならない。
  愛する者のために、美女を配下に置き、思いのままに操り続けている、そんな大悪党になったかのように、幸夫は御満悦だった。働かなくても、世界は自分を中心に回り続ける、そんな気さえしていた。

  そして今日は、イモ娘達がゲスト出演するライブが隣町で開催される。もちろん幸夫も参戦する。今日も今日とて、自転車を漕いで片道二時間のロングドライブだ。しかも、もう働いてないから、次の日の事を心配する事もない!
  より一層、世界は彼の為に動いていると実感するのであった。

   ライブスタートは十八時。幸夫は少し早めの十五時半に自転車に股がる。無論、自転車のカゴはへこんだまま。それを手で無理やり曲げて、リュックサックを投げ込む。
『いざ行かん!舞台(ステージ)へ!』
  彼の頭の中に、そのタイトルのイモ娘の楽曲のイントロが流れ出す。
『走り続けた日々、今燃え上がれ!』
  最初の歌詞に合わせて、彼の脚も燃え始め、烈火のごとく、ペダルを踏み込んだ。 


  加奈子はあまり気乗りしなかったが、坂本社長の申し出を受け入れた。
  あの日の夜以降、ほぼ毎日と言っていい程、坂本とはグラスを交わし、楽しい時間が続いていた。しかし、彼女の中で不安な事がひとつ。どんなに酒を交わそうと、一向に彼からのモーションが掛からないこと。
  『紳士』と言えば聞こえはいいが、決まって十二時前にはお開きになり、帰りのタクシー代を渡されて、見送られて帰る毎日。
  今までの男だったら、大概二回から三回目で、彼女を求めてきた。しかし坂本は爽やかな笑顔で、彼女を見送る始末。もしかすると自分が女性として見られていないのか?  そんな不安さえよぎってしまう。
  そんな中、坂本から『自分の仕事も見て欲しい』という要望が。てっきり半導体事業の事かと思い込んで話を聞いてみると、副業でやっているアイドル育成の事業のほうだった。しかも今日、その育成しているアイドルがゲスト出演するライブがあるという事で、それに招待されたのである。正直アイドルなどなんの興味も無ければ、なんの知識も無い。しかもうら若い美少女に囲まれて、満面の笑顔の彼を果たして正視出来るだろうか?  それを考えると、胸の中に熱く渇いた感情が炎をあげる。そんな気持ちになるのは彼女自身初めてだった。
   そんなもやもやを抱えながらも、鏡の前に立ち、紅を引く。
  ライブスタートは十八時。    彼女には他の観客席とは違う専用ブースが設けられている。そこで彼と待ち合わせだ。三十分前に着けば、事前に少しでも話が出来るだろう。
  未開の地に足を踏み入れる覚悟をして、彼女は念入りにファンデーションを、その雪のような肌に塗り込んだ。


「ありがとうございます! 今日は彼女達の正式なライブでは無いんですが、僕がいちばん大切にしてる子たちなんです。あまり興味は無いかもしれませんが、少しでも楽しんでいただければ幸いです!」
 満面の笑みで、坂本は加奈子に微笑むと、そそくさと特別室から消えて行った。
「仕事だから……」
  聞こえるか聞こえないかほどの声で呟き、加奈子は自分に言い聞かせた。

  十五分前。
  招待された場所に着くと、そこは場末のライブハウスだった。恐る恐る扉を開き、階段を降り、受付に向かう。向かったその先には、短髪で耳、瞼、鼻、唇に何重にもピアスを付けた若い女が立っており、加奈子の脚はその佇まいに歩を躊躇った。
「いらっしゃいませ!」
  見た目とは裏腹に、元気で快活な声に促され、彼女は特別室に通された。
 そこは芸能関係者達の為に準備された部屋であろう。客席からステージまでを一望出来、アイドル達のパフォーマンスもしっかり確認出来る作り。また、観客席も一望出来る事から、きっとどれだけ盛り上がっているのかも伺えるのであろう。
   加奈子は準備されていた、コーヒーとスイーツを頬張りながら、坂本を待つ。
  二個目のケーキに手を伸ばそうとした矢先に、ドアがノックされ、カジュアルな服装、否、彼が育てているイモ娘とかなんとかいうアイドルのTシャツをまとった坂本が、飛び込んで来た。

「では、準備あるので、ひとまず失礼します。あ、これが終わったらいつものとこで!」
「分かりました。いつものとこで」
  挨拶もそこそこに、坂本は加奈子の前から姿を消した。
  ちょっと場違いな所に居る気持ちが彼女を苛む。しかし、何故か『帰る』という選択肢は無かった。今までの男達、前回のIT企業の社長程度の男であれば、彼女はこの時点で見限っていたはず。無論、終わってからの約束がある事も起因するが、坂本がそんなにまで熱を上げているものを見届けよう、そう思う自分が居た。
「これで最後」
  そう呟いて四個目のケーキを手に取り、目の前のステージに目を向ける。
  そして、ステージは一度暗転し、四方八方からレーザービームのように照明が乱舞し、観客席からは一斉に歓声が沸き起こった。


「いやぁ!  今日も良かったよ!最高だったよ!  みさきち!  卒業だなんてもうやめにして、これからもイモ娘、続けておくれよ〜」
 ライブが終わり、物販ブースの最後尾を飾り、みさきちとの逢い引きを楽しむ幸夫。
「ありがとう!ゆっきー!  いつも応援ありがとう!」
  幸夫の馴れ馴れしい態度に、一瞬眉をひそめたが、すぐに満面の笑みに戻り、謝辞を述べるみさきち。
「あ、そうだ!  社長!社長!」
  そう言うと、『少し待ってて』みたいな表情をして、みさきちは壁面に並んで居たスタッフ然とした男に声を掛けた。
「紹介しまーす!  この方が、私たちイモ娘の生みの親、坂本社長デース!  そしてそして、こちらの紳士さんは、今、いちばん私を応援してくれている、ラブリスナーのゆっきーさんデース!」
  営業然としたアイドルボイスで、坂元と幸夫を引き合せるみさきち。
「あ、あなたでしたか?  ゆっきーさん、いつもみさきちがお世話になっております! お噂はみさきちより伺ってます。応援して下さって、本当にありがとうございます!」
  爽やかに微笑み、握手を求めて右手を出す坂本。
「あ、いえ、こちらそ……」
  坂本のあまりにもの爽やかさにたじろぎつつも、幸夫も右手を差し伸べた。すると力強く握り返され、更に幸雄はたじろいだ。
「ゆっきーだけだよ!  社長紹介するのは!  本邦初公開デース!」
  坂本にぴったりくっついて、間髪入れずにアイドルボイスを繰り出すみさきち。その言葉に一瞬にして舞い上がる幸夫。負けじと坂本の手を強く握り返す。
「あ、あの、すみません、い、痛いです」
  更に坂本に強く握り返された幸夫は、つい、声をあげてしまった。
「ああ、これは失礼しました」
  これまた爽やかに、満面の笑みで謝罪する坂本。
「ゆっきーさん、みさきちも後残り少ない時間ですが、それまでは毎日配信、そして卒業ライブと、最後の最後まで駆け抜けさせますから、これからも応援よろしくお願いしますね!」
  幸夫が右手を庇っていると、坂本は引き続き満面の笑みで彼に謝辞を述べる。
「それでは、時間も差し迫ってますので、ゆっきーさんも気をつけてお帰りくださいね」
  周りを見渡すと、他の客は誰一人おらず、スタッフ達は撤収に入っていた。
「さ、足元にお気をつけてどうぞ。お帰りはこちらです」
  短髪ピアス女に促され、幸夫はとぼとぼと出口へ歩き出した。
「ゆっきー、またね〜!」
 アイドルボイスで幸夫を見送るみさきち。彼女の肩にはそっと坂本の手が添えられていた。
「みさきち!  愛してるよ!」
「あったしも〜! だーい好き!」
  配信内で交わすお別れの挨拶を交わす二人。
  幸夫は痛みを堪えながらも右手を振って、みさきちとのしばしの別れを惜しんだ。そして会場の扉は無造作に閉じられる。その断末魔の音を、彼女の先程の挨拶の声で掻き消す。
『お別れじゃない。明日にはまた逢える!』    そう言い聞かせて通用口から出口に向かう幸夫。次の角を曲がれば出口。そしてその角に差し掛かる刹那、眩いほどのオーラが彼の前に立ちはだかった。


 『 ライブが終わったら会場に降りてきて欲しい』
  短髪ピアス女から受け取った、坂本社長からの伝言通り、加奈子はライブ終了後、会場へと降りていった。狭いライブハウスのくせして、通路が多いのが気になる。きっと元々はその為の建物ではなかったんだろう。そんな事を勝手に思いながら会場を目指す。
あの角を曲がれば会場だ。
  そして、その角を曲がろうとしたした瞬間、一番彼女が見たく無かった顔が、目の前に現れた。

「!」
 加奈子の表情は引きつった。目の前には、この所ずっと金をせびり続けている、あの男が立っていた。

「!」
幸夫の表情は引きつった。その目の前のオーラは紛れもなく、今、彼が下僕に強いているあの女だった。

 加奈子と幸夫は互いに一瞬固まり、脚を止める。しかし、加奈子は一瞥すると無言で走り出した。
「ちょ、ま……」
  追いかけようとしたが、幸夫も瞬時にそれを諦めた。背中に揺れる眩い光を感じながらも、胸中と脳裏に焼き付いた、みさきちの笑顔に意識を集中させた。
『誰にも僕とみさきちの時間を邪魔はさせない!』
  そう心に言い聞かせ、出口への階段を、幸夫は駆け上がった。


「あ、加奈子さん。今日はありがとうございました! あ、紹介しますね。この子達が僕が育ててるイモ娘です」
  会場に入るなり、坂本がいつもの満面の笑みで彼女を迎え入れ、自分の育ているアイドルを紹介した。

  イモ娘達は加奈子を見て、『綺麗』、『素敵』、『オーラが凄い』など、その美しさに感嘆の声を漏らした。そして彼女達は一様に加奈子に挨拶を終えると、スタッフと一緒に撤収作業に取り掛かった。
「あの、急になんですが、変な男と遭遇しませんでしたか?」
  急に神妙な表情になる坂本。
「えっ?」
 加奈子の脳裏には、さっきすれ違ったあの男の顔が浮かび上がった。
「あ、いえ、ちょっとね、度が過ぎたファンが居て、僕達も少し困ってるんですよね。うちのみさきちのことをずっと応援し続けてるファンで、ありがたいっちゃありがたいんですが、毎日、朝昼晩に長文のDMが送られて来てて、最近では羽振りが良くなったのか、彼女がやってる配信で、桁違いのギフティングしたり、事務所にもプレゼントが山のように送られて来てるんです。まあ、アイドルであればそれは日常茶飯事なんでしょうけど、まぁ想いが重くて、飛び抜けて勘違いしてるんですよね」
「そうなんです!  毎晩結婚しようとか、子供何人欲しいとか、それに私のライブで言った発言を事細かに覚えてて、悩んでもないのにそれに対して長文のメッセージで、私を励まそうとしたり、もう何百個もハートマークや顔文字でデコレーションしてきて、超キモいんです!  んで、公表してる私の情報、全部覚えてるんです!  もうなんかこのまま行ったらストーカーされるんじゃないかって、凄く怖いんですぅ」
  撤収作業をしていたみさきちが割って入る。
「加奈子さんに言っても仕方ない事なんですが、あ、まぁ、その、加奈子さんもお綺麗だから、ストーカーとか、本当にお気をつけくださいね」
  みさきちも相当参っているんだろう。止まりそうにない愚痴を、坂本が手前で制した。
 
「あとで、今日のライブの感想聞かせて貰えませんか?  後三十分くらいで終わるので、いつものとこで、待ってて貰えます?」
  我が子を愛でるかのように見つめていた坂本の視線は、加奈子に向けてのそれにに切り替わった。その切り替わりに気付いた加奈子は、はにかむように微笑んだ。
「はい。待ってます」
「なるべく急ぎますので、絶対に待っててくださいね!」
  いつもの少年のような表情に、イタズラに微笑み返す加奈子。
「社長!  長机運んでくださいよ!」
「あいよ!ちょい待ち!」
 スタッフからの要請に、社長でありながら、嫌な顔ひとつせずに対応する坂本。
「ごめんなさい、バタバタで。では、後ほど!」
「うん!」
  加奈子はガチャガチャと撤収する雑音を背に、会場を後にした。そのまま通用口を経て、出口への階段を登る。
  その瞬間彼女はハッとした。
『私の金はあのみさきちという女に貢がれていたのか』
   バカバカしさと情けなさに、彼女は爪を噛んだ。ガリッという音に我に気付き、そして肩を落とす。右手の人差し指のネイルが欠けてしまった。
『あいつがバカならあたしもバカだ』
  何となくあの男と同類になったようで、胸焼けがした。
  この扉を開けるとまたあの男が、金をせびる為に立っているかも知れない。そう不安に感じながら、そっとドアの取手をゆっくりと開ける。
  ドアを開けると一瞬にして街の喧騒が耳に流れ込んで来る。煌々と光り輝くネオン、行き交う人々の息遣い、ひっきりなしに流れる店舗のコマーシャルの音声。
  その聞き慣れた音に少し安堵を覚えつつも、あの男が居ないか周囲を見渡す。
「だ、いじょうぶね」
 そっと呟き、足を踏み出す加奈子。
  約束の店には最寄り地下鉄から10分程度の場所。数メートル先に地下鉄の表示を見つけた加奈子はその歩を早めた。

『……ねばいいのに……』
ふと、そんな囁きが彼女の耳に流れ込んだ。その声に後ろを振り向く。すると、数十メートル後方に、彼女に真っ直ぐに視線を送る男が立っていた。その容姿に彼女は見覚えがあった。
「加藤社長?」
  加藤とは、前回まで懇意にしていたIT企業の社長。坂本と逢うようになって、最近は疎遠になっていた。
  加奈子は目を凝らして、その姿を見定めようとした。そしてその男の前を数人が通り過ぎると、その姿はもうそこにはなかった。
  気になって駆け出した加奈子だったが、
「まさかね?  人違いか見間違いよね?  きっと」
  そう、自分に言い聞かせた。
  今日、彼女がここにいる事は誰も知らない。
  ましてや加藤がそれを知る由もない。

  加奈子は気を取り直して、またもや地下鉄の表示目掛けて走り出した。


つづく

https://note.com/hiroshi__next/n/nf1eb6d972d5d





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