宗教の事件 49 西尾幹二「現代について」

●「オウム」を生んだ日本人の精神的不用意

オウム真理教の話はもう聞き飽きたとお考えかもしれませんが、私たちが出合った近年の出来事のなかでは、やはり未曾有の出来事でした。そろそろ、単に現象面を見るだけではなくて、文明論的な判断を加える段階に入ってきたのではないかと思います。
私は、オウム真理教は小型ファシズムと考えています。ファシズムというと、いままでの観念では、党が支配し、旗が降られ、制服を着た軍隊が闊歩し、独裁者が演壇で拳を振り上げて演説するというイメージがあります。しかし、先進工業国では、こういうファシズムはもう起こらないでしょう。代わりにまったく違ったスタイルが登場する可能性があります。まさに宗教が土台になったファシズムが、今後わが国だけではなくて、世界的にも重要な問題になってくるのではないかと思っています。

オウム真理教は、テクノロジーと軍事力を駆使して「国家内国家」を企て、教祖が独裁者として国民国家をのっとろうとしました。少なくともそういう動機を持っていました。幸か不幸か、麻原彰晃という人物にはリアリズムがなく、日本の現実が見えていなかったから馬脚を露わしましたが、サリンが完成してから実際に動き出したら大変なことになっていたと思います。しかし、彼が現実をみくびっていたおかげで、せいぜいが自衛隊と警察の一部にオウムの勢力が潜り込むという程度ですみました。本当に恐ろしいのは、そうした勢力が狂暴な形をとらず、秩序に従順で、かつ裁判所や検察庁、官僚機構、さらにマスコミなどにだんだんと進出してくることです。そういうファシズムのほうがはるかに恐ろしいことは間違いありません。

宗教というものが、いままでと違って個人の信仰の次元にとどまらず、国家の枠をゆさぶりだす。それは新しい文明の状況ではないでしょうか。冷戦崩壊後に世界各地で起こっている争いは、常に宗教が土台にあります。ボスニア・ヘルツェゴビナの状況はまさに宗教戦争以外のなにものでもありません。オウム真理教事件は、広い目で見ると、冷戦崩壊後の新しい文明の変化、すなわちボスニア・ヘルツェゴビナの状況がわが国にも日本らしいスタイルでひたひたと波及した表れと考えられないでもありません。

ファシズムは、普通は愛国主義とは無関係です。日本でよく天皇制ファシズムという言葉を使う人がいますが、これは全くの形容矛盾です。天皇制は伝統から来るものですが、ファシズムは人工的な観念で、多種多様な宗教、イデオロギーなどとつき混ぜて、いわゆる擬似政治体制を作っていくものです。作り物なんです。オウム真理教はまさにそういう性格を持っております。

またファシズムは3つのテロ機構、すなわち秘密警察、強制収容所、独裁者直属の親衛隊を駆使します。これらのテロ機構を駆使したのは、世界史上、ドイツのナチズム国家とスターリニズムの共産国家しかありません。現在は北朝鮮にわずかにその残骸が残っている程度ですが、オウム真理教はこの3つのテロ機構をちゃんと具えています。

秘密警察的な動きもしましたし、強制収容所は地下にたくさん穴を掘ってもっていたわけですし、実行部隊と称する独裁者直属の親衛隊も持っていました。しかも何の宗教だかわからない。キリスト教みたいなところもあれば、チベット仏教も入ってくる。何でもかんでも取り入れてしまうわけで、そういう混雑イデオロギーがファシズムというものです。


(つづく)


西尾幹二 「現代について」(徳間書店 初版:1997年12月)

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