村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」 話しかけているのだ

しばらくのあいだ誰も口をきかなかった。綿谷ノボルは僕がやってきたことにさえ気づかないように見えた。僕は自分が透明になっていないことを確認するために、掌をテーブルの上に出して何度かひっくりかえしてみた。やがてウェイターがやってきて、僕の前にコーヒーのカップを置き、ポットからコーヒーを注いだ。ウェイターが行ってしまうと、加納マルタがマイクの調子でも試すみたいに小さく咳払いをした。でも何も言わなかった。

最初に口を開いたのは綿谷ノボルだった。「あまり時間がないからできるだけ簡単に、率直に話をしよう」と彼は言った。彼は一見してテーブルの真ん中に置かれたステンレス・スティールのシュガーポットに向かって話しかけているように見えたが、彼が話しかけている相手はもちろんこの僕だった。彼は便宜的に、両者の中間に位置しているシュガーポットにむけて話しかけているのだ。


村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」

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