宗教の事件 02 辺見庸「不安の世紀から」

そうこうしていると、救急隊員が「だれか通訳できる人はいませんか」と叫んでいる。「患者が不安がっているので、ちょっと声をかけてやってくれ」というわけです。通訳できるほどの英語ではないのですが、しかたなしに私は、「すぐに救急車が来るから、もうちょっとがんばれ」とか、そんないい加減なことをいっていたのです。そしたら、これは小説(『ゆで卵』角川書店)にも書きましたが、金縁のメガネをかけた大学教授ふうのおばさんがつかつか歩み寄ってきて「あなた、病気の外人さんと話すのに、タバコをくわえて話すことはないでしょう」と私を怒るのです。私はなぜかわからないのですが、このことにひどく腹が立ちました。その朝、最も不愉快だったのは、このおばさんの登場だったといってもいいほどです。そのつまらない常識、その市民主義者然とした小さな“善”を疑わない態度がいやだったわけです。“ファック・ユー”ということですね。とにかく余計なお世話だと思い、サリンのせいか目も痛くなってきました。それで救急活動をやめて仕事部屋に帰ってしまったのです。
部屋に戻ってテレビをつけたら、全局がほとんどこの地下鉄の事件を映している。それは築地だったり霞ヶ関だったりするのですが、つい私が三分前にいた神谷町の現場も映っている。ところがその映像は、私が肉眼で見て、臭いもかいだその現場とはまったく違うのです。いや、違うとしか思えない。そこで、私はしきりに入口にある駅名を確認しようとする。確かに「神谷町」とある。それに、救急車のあたりにどこかに不審な男が映っている。まるで犯人みたいな中年男。よく見るとバカ面さげた私じゃないですか。ですから、そこは確実にわたしがさっきまでいた現場なのです。にもかかわらず、私が見た現場とは違うのです。

そこで、どうしてこういうことになるのかを考えてみました。戦後50年のなかでも特筆大書すべき大事件が起きたにもかかわらず、私が見たものは、たとえばジョギングしている外国人であったり、犬の散歩をしている人であったり、それから一生懸命職場を目指す会社員であったり、おおむね組織に忠実であろうとする記者たちであったりしたわけです。そして、当初は全体として非情に静謐な現場でした。いわば報道の内容とは矛盾するものだった分けです。そのように、ひと連なりのできごとというのは、我々が頭で構成するようには案外動かないもので、必ず全体に整合しないところがある。地下鉄サリンの現場でいえば、大半の乗客たちは職場を目指していたということ、一部の例外は知りませんが、大半の記者たちは乗客のだれをも助けなかったということ、つまり、当初は日常が、ただひたすら日常のみが風景を支配していたということです。

みんながただ職務に忠実であるという日本的な会社意識……そういう者がある種のイナーシアとなって継続していたともいえるのではないかと思うのです。

でもそれでは原稿ができない。映像にもならない。そこで、“無駄”な要素を全部そぎ落として単純に意味化してしまう。たとえば、熱帯魚が四匹いてスイスイ泳いでいる映像というのはだれも撮らない。ま、大方はなかに入れなかったから、しょうがないのですが。それから、一般の通勤者たちが被害者を跨ぐようにして職場に向かい急いでいたということも、だれも書かない。映像も無視する。そうやって予めつくりあげたストーリーに整合しないものを全部こそげ落としていくという作業が無意識のうちに、しかも誠実になされていったのではないかと私には思えるのです。だからこそ、私が肉眼で見た現場とテレビで伝えられた現場の映像とはずいぶん違っていたのだと考えるわけです。

かねがね私は、映像や活字というものは現象やあるいは状況を鏡像的に映すものではないという確信を持っています。ニュース・メディアには、事件や風景を鏡に映る像のように映像化し、活字化し得るという、とんでもない誤解がありますが、私はそうは考えない。どこか歪められ、またどこかで必ず主観的に翻訳されてしまうものだと思うのですが、あの事件で、改めてそのことを強く感じました。それから、これはまだ深めることができていないのですが、よい報道と悪い報道、良い媒体と悪い媒体、あるいは良い番組と悪い番組……そんなものは本質的にはないのではないか、という疑いも持っています。ただありようとして、いったん松本サリン事件の誤報で反省しかけたメディアが、問題の所在がわかっているにもかかわらず、またぞろパック・ジャーナリズムに走っていく……そういう経緯ではなかったかと思うのです。

●イメージが論理を無力化する

そうしたメディア状況のなかで、私がいま最も耳をそばだてているのは、ジャーナリズム論では、レジス・ドゥブレです。彼はテレビについて述べたなかで、「イメージが論理を駆逐している」ということを指摘していますが、私もそう思います。オウム報道あるいは地下鉄サリン報道がそうでした。いわゆる恐怖のイメージ、狂気のイメージ、悪のイメージがロジックを駆逐し、圧倒し、席巻し、論理を無力化していったのです。

例えば、瑣末なことかもしれませんが、横山という弁護士に対する扱いがそうです。これは本当に目茶苦茶で、取材、報道態度が実に下賤で、下等だと思います。面立ちが整っている人間だったらああいう報道をしたでしょうか。人の美醜を呆れるほど次元の低いところで問題にする本当に卑しい業界だとわたしは思いました。漫才も記者たちも視聴者も、彼の口真似をしては笑い転げたのです。これこそ、オウムの犯罪とはいささかも関係のない、メディアによる犯罪です。別種の誠実な、業務に誠実な犯罪でしょう。もしこれを「やっているのはワイドショーだ」と報道局の人間がいうのであれば、それはあまりにも無責任だと思います。

レジス・ドゥブレはまた、テレビ・ジャーナリズムによる「状況のヒステリー化・短絡化」ということと「大衆迎合主義」ということを指摘しています。これもまた私は正解だと思います。世の中に正気というものと狂気というものとが画然とあるかのような報道をする。また、麻原という人間をマスコミ挙げて「俗物」だといいつのった一時期もありました。しかし、他者を俗物といえるような<非俗物>が、世の中にそんなにいるのかなと私は思います。俗物の最たるものとは、我々の仕事のことをいうのではないでしょうか。

それからもう一つ、「現在性が歴史を圧倒し、無化していく」・・・・・・これまた正しいのではないかと思います。一部の例外を除いて、歴史の縦軸というものが意識されていることはほとんどないと思います。だからこそ、全体が非常に強力なイナーシア=慣性によって支配されていく、歴史的に大事な事柄がじつに軽く扱われ、読者、視聴者がすぐにとびつく刺激的な、しかし、歴史的にはさして意味のない事件をのみあたかも大事なことのように伝える傾向もある。電波か活字かを問わず、われわれの仕事にはそういう力学が働いているのではないかと私は思っています。彼はまた、テレビ・メディアは「分析的思考を無力化し想像力を奪う」と指摘していますが、私も同感です。

(つづく)

辺見庸 「不安の世紀から」(角川文庫)

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