翻訳の日本語

質問者F 日本の作家の方で、日本語の大辞典を何冊も潰すほど日本語を生み出すのに苦労をなさっている方がいるということを、何かで読んだことがあるんですけれども、今度は逆に日本語にする段階でご苦労はなんなのか。あと、私は翻訳を始めたばかりなんですけれども、日本語を磨けとよく言われましたし、意図的にそのへんの努力をなさっていることとかありましたら聞かせていただきたいんですけれども。

柴田元幸 まずですね、その、日本語を磨きましょうという言い方をよく目にするんですけど、どうも違和感があるんですね、僕は。何でなのかなあ、所詮自分の使える日本語しか上手く文章にはのらないということを痛感するんです。たとえば、文章を練るうえで類義語辞典というのは、必須なわけですね、よく使うわけです。それで、このAという言葉ではしっくりこないからなにかないかなと思って辞書使いますよね。そうするとBという類義語があって、これは自分ではあまり使わない言葉だけど、おーいいじゃないと思って使うでしょう。それで次の日に読み直してみると、やっぱりそこだけ浮いているということがものすごく多いんです。だから結局、自分にしっくり来る言葉には限りがあって、それを活用するしかないなというふうに思うことが多いです。だからもちろん、自分に使える言葉を豊かにするために、いわゆる日本語を磨く、いい文章をたくさん読むというのは、原理的には大事だと思うんですけれども、そうやっていわば下心をもって、いわゆる美しい日本語を読むことを自分に強いても、そう上手く自分の中に染み込まないんじゃないかと思うんです。というか、そう思いたい。あとね、何で僕がそういう磨くとか鍛えるとかいう考え方がいやかというと、僕にとって翻訳は遊びなんですよ。

村上春樹 ははは。

柴田 違います?

村上 いや、そうです。そのとおりです。

柴田 そうですよね。だから、仕事じゃないからそんな苦労はしたくないし、ええっと、いや、みなさん笑うけどこれ真面目に言っているんですよ。あのう、ええっと、なんというんだろう、要するに、日本語筋力トレーニングみたいな感じでね、好きでもないのにこれは美しい文章なんだからって自分に無理強いするみたいなことはしたくないんですよ。そもそも、何が美しい文章かっていうことの基準なんてものはないし、べつに日本文学に限らず英米文学でも、美文の基準みたいなものがあって、それに則って書くのが正しい作法みたいなことは現代の場合全くないわけですよね。だから、いわゆる美しい日本語と言われるものが仮に身につくとしても、それは単に、ある特定のトーンの日本語を身につけるだけのことだと思う。

それで・・・・・・僕は簡単に染まります。ある日本語の文章を読んでそのあとなにかを訳すと、その文章が反映されているような気がしますね。自分の文体というのは、基本的にはもちろん、いやでも持っていると思いますけども、細かいところはですね、たとえば、村上さんの小説を読んだりしたあとに何かを訳すと、何かそれっぽくなったりするなと思ったりすることはありますから。

すみません、ちょっと支離滅裂ですけど、話を戻すと、英語の小説に限って考えても、美しい文章というのは制度になっちゃえばもう、文学にとってはそれからどう逸脱するかがむしろポイントになるわけだから、そういう、正しい型みたいなものを持つべきだとか、そういうことはあまり思わないです。もうとにかくその、原文を読んだときの感じがいちばん伝わる日本語を探すということであって、それは美しい美しくないというのとは別の話だということです。

村上 僕自身も自分の文章を書くとき、小説を書くときは、ものすごく苦労します。一生懸命考えます。辞書は一切引かないですけどね。日本語の辞書って、何か調べるので引くことはあるけど、自分の文章を書くために引くことはまずないです。引く必要はないから、そんなにむずかしい言葉は使わないし。

翻訳をする時には、文章的にはそんなに苦労しないな。というのは、原文があるわけですよね。原文の意味と流れと呼吸がある。その原文を日本語に移し換えれば、そのまま自然に文章になっちゃうんだもん。とくに考えることないですよ。

柴田 というのは極論ですよね。

村上 いや、僕の場合、極論でもないんです。日本語に関して、翻訳の日本語に関しては、苦労したことはぜんぜんないですね。だから翻訳をするのは楽しいということになるのかな。だからさっき翻訳は遊びだって柴田さんがおっしゃったけど、そういわれてみればたしかに遊びだという要素は大きいかもしれない。だって、考えなくていいんだもん、自分の文章に関しては。ただ、英語を日本語に移し換えるという、その置き換えについてだけ考えればいいわけであって、文章に凝るとかいうことはまずないですね。

小説を書くというのは、文章的にいえば、たとえばお客を呼んで特別料理をつくるのと同じなんです。スーパーマーケットにいっていろんな食材を買い込んできて、冷蔵庫に入れて、いろんな下ごしらえして、客用の食器も出してきてというのがあるわけですよ。ところが翻訳というのは、おばんざいみたいなものなんです。冷蔵庫を開けて「あ、きょうはこれとこれがあるから、これをささっとつくっちゃおう」という自然体でやるのが、翻訳なんです。少なくとも僕にとってはそういうことなんですね、僕の場合はもちろんまあちょっと特殊なケースかもしれないけど。

村上春樹・柴田元幸 「翻訳夜話」


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