内田樹「街場の戦争論」 弟子と消費者

弟子はこのような「金で安心を買う」消費者の対極にある存在です。修業をしている弟子は「自分は自分が何をしようとしているか知っている」と思うことを原理的に禁じられている。弟子の仕事というのは「自分がどうしてこんなことを稽古させられているの、実はよくわからない」ということを認めないかぎり始まらない。

自分の無知と無能について自覚する事、何より自分の無知を無能の容態や程度について判断できる「ものさし」を持っていないことを認めること、それが弟子になるというときの最初の心構えです。この心構えができれば、だいたい弟子になったことの甲斐の八割くらいは果たせたといってよいのではないかと思います。逆に、この心構えができない人は、どれほど才能があっても、その技芸を習うのには向いてなかったということになる。

芸事の場合、最も重要な才能は「習う」能力そのものです。弟子として身につける知識や技術そのものよりも、「人の弟子になれる能力」「ものを習う能力」の方がずっと優先する。僕はそう思っています。修行について書かれたすべての伝書も同じことを書いています。

よくものを習うときに、「自分はこの道には才能なさそうだし、あまり熱心に稽古にも通えそうもないから」という理由でわざわざ二流三流の先生を探す人がいます。けっこう多いのです。自分程度の人間には、それにふさわしいレベルの教師のほうがフィットするんじゃないかと、そう思っている。これもある意味では消費者マインドの現われだと思います。手持ちの貨幣が少ないから、買えるとしたら「まあ、この程度の品物かな」と値踏みしている。

でも、なにしろ、最初から「この先生は二流三流だから」と思い込んでいるわけですから、稽古にも当然身が入らない。先生の話も上の空で聞き流すし、「やってきなさい」といわれた課題もやらない。だから、結局、あまり進歩しない。いずれ飽きてやめてしまう。これほど無駄な時間の使い方はないと僕は思います。

ものを習いはじめるときは全員素人なんです。自分に才能があるかないかなんかわからない。わかるはずがない。だって、これからそれを習うわけですから、その領域においてはどのような能力を優先的に評価するのか、どういう基準で力量を査定するのか、素人にわかるはずがない。わかるはずがないのに、「どうせ才能がありませんから」と言い張る人は言外に自分はその「道」における業績や才能を客観的に査定するだけの鑑定眼があると主張しているわけです。これはずいぶん専門家を「なめた」発言だと僕は思います。

いや、僕も若いころは「僕には才能がありませんから」とよく言いました。謙遜じゃなくて、本当にそう思っていたから。でも、自分が教える立場になったときによくわかった。それは言っちゃいけない言葉だった。禁句なんです。

「自分には才能がありませんから」という無能の表白は実は「自分には才能のなんたるかがわかっている」という全能の表白でもあるわけだからです。そして、「才能がある」と「才能の有無が判定できる才能がある」では、後者の方が質の高い能力だと自分では思っている。才能がある人間、ない人間、有象無象を鳥瞰する視点を仮想的に想定して、そこに立って、あたかも科学者が観察対象について語るがごとく「僕には才能がありませんから」といっているわけです。

自分がそういっているときには気づかなかったけれど、学生や門人にそういわれると片づかない気持ちになった。どうして違和感があるのか。それを考えているうちに、次第にどうして「そういうこと」を言ってはいけないのかがわかってきました。

想像してみてください。もし、通知表に成績をつけた後に生徒がやってきて「先生はこの教科書で僕に五をつけましたけれど、僕は三だと自己評価しているので成績をつけ直してください」といわれたら先生は困りますよね。君には自分の成績を判定するだけの力がない、だから判定「される側」にいるのだということをどうやって説明すればいいのでしょう。

昔、同門にいくら上から言われても初段の審査を受けない人がいました。自分にはまだ黒帯の実力がないと言うのです。合気道の黒帯というのは自分程度の人間が締めていいものじゃない、と。そう言い張っていつまでも初段を受けないので、後輩にどんどん追い抜かれて、僕が入門したときにその人は一級でしたが、僕が三段になったときも一級でした。そして、まことに不思議なのは、十年以上稽古していたのに、彼はさっぱり術技が進歩しなかったことです。十年稽古して上達しないというのはある意味「たいしたこと」です。これは「何か」が彼の心身の能力の開花を積極的に妨げていたと考えないと説明できません。何かが「ロック」していたのです。

ですから、弟子の立場にあるときには、自分が稽古している術技について「自分がどれくらいできるか、わかっている」「どのレベルであるか、知っている」ということはうかつに口しない方がいい。自分が修行のどの段階にいるのか、自分の才能や実力について、客観的に語ろうとしないほうがいい。「どのくらい上手なんですか?」というようないささか無遠慮な質問に対しては「わかりません」と答えるのが穏当です。先生が「初段を允可す」といって免状をくださったら、ああ自分は初段なんだと納得するということでいい。それに対して「本当は初段の実力がないのに」とか「本当は二段の実力があるのに」というようなことは思わないほうがいい。それは師よりも仮説的に上位に立とうとすることだからです。

消費者と弟子が対極にあるということは、それで説明がつくと思います。自分がこれから習う知識や技術を「商品」としてとらえるならば、僕たちは消費者という立場からその術技を体系全体を上から目線で、査定的なまなざしで眺める権利を手に入れる。そして、消費者はこの取引を有利に進めようと思ったら、できるだけその商品に対して「興味がなさそうなふり」をする。その商品の価値や有用性について「とっくに知っている」ような顔をする。そうしないと安物を高値で売りつけられるから。そういう「市場のマナー」を消費者は骨の髄まで刷り込まれている。だから、ものを習うときには消費者マインドを拭い去らなければいけない。でも、現代人にとっては、それが一番むずかしいことなのかもしれません。


内田樹 「街場の戦争論」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?