吉本隆明「幸福論」死を迎える心構えというのは、これは自分はまだ体験していないことだし

死を迎える心構えというのは、これは自分はまだ体験していないことだし、また、もっと言いますと、わかりきったことなんですが、自分の死というのは自分のものではないんです。

 病気で重体になって死にそうになったというところぐらいまでは、自分でも体験できるだろうなと思いますが、重体になってから死に至る過程というのは、いまの医学の段階、あるいはいまの習慣とか風習で言えば、自分のものではないと思います。だから、死を迎える心構えもへちまもない。死ってお前のもんじゃないよ、ということです。

それは近親のものであるか、医者のものであるか知らないけれど、とにかく、はたでいちばん親しかったとか、親しく看護してくれた人が納得するかしないかのものなんです。自分ではその前に死なんてわからなくなっていて、極端に言えば危篤であるとか、重体であるとなったときに既にわからなくなっている。だから死というのは自分のものではなくて、近親のものだというのが、いまのところ一般的なんじゃないかと思います。僕もそうなるにちがいないと思っているから、死というのは他人のもの、自分のものじゃないという考え方を持っているわけです。

だから死を迎える心構えみたいなものはあまりないです。

それから、文学の人で多いのですが、葬式を派手にするようなことはしないで身内だけでやってくれとかいうことを、生きているうちに言う人がいる。でも実際問題としてみると、ちゃんといっぱい葬式に来ています。だから、僕は葬式については何も言わない。それは他人ものなんだからと思っています。

自分の葬式は簡単にしてくれとか、冗談言うなといつも思っているというのが正直なところです。そんなことは余計な心配だと思います。死は他人のものなんだから、他人がどうしようが、そんなことは僕が何か言うべきことに属さないと思っているわけです。だからそういう意味では、死を迎える心構えなんて何もないというよりも、意図的にそんなことは考えない。

文学者はみんな言ってますよ。できるだけ人に迷惑をかけないように見たいなことを言ってますけど、何百人と寄って来ます。つまり、そんなことを言うのがだいたい間違いなんだ、というのが僕の考えです。

吉本隆明『幸福論』

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