「犯罪季評」 もてあます命

1986年の出来事

●失われた命の貴さ

別役 今シーズンはいろいろありましたね。自殺、誘拐、保険金殺人……ゲリラってのはあまり大したことない、どうでもいいと思うけど。

朝倉 岡田有希子(注1)とか。

別役 僕は自殺についても、誘拐についても、保険金殺人についてもね、要するに戦後一貫して高度成長やってきて、命が高くなりすぎた。もてはやしすぎた。現実の命の重さと、観念としての命の重さの乖離が始まっている。観念としての命が過大評価されているんで、ここへきて逆に、命をもてあそぶ傾向が出てきたと思うんです。

朝倉 そうですね、ヒューマニズムの肥大化というか。

別役 それをもてあまして、どうしたらいいかわからなくなった。そして、行きついた先の最もグロテスクなできごとが、ベトナムの結合体児だと思うんです。ああいう形で、命は貴い、ヒューマニズム素晴らしいとポーンと引き受けちゃって、ところがどう扱っていいかわからないという状況へ来ちゃっている。それはたとえば、誘拐犯が人質をとって、もうオレはすごいことをやっちゃったんだと思いながら、次に何していいのかわからないという方法論のなさとね、よく似てる。あるいは、みんなにチヤホヤされた自分の命を、何かに対するツラあてのために捨ててみせる。命をもてあまして、それほど世間が重要視してるなら捨ててみせる、という形で自殺するとかね。命の貴さってのがリアリティを失ってきた。それがここへ来て集中的に現象された、と思います。

朝倉 ベトナムの二重体児(注2)はね、ヒューマニズムの典型的なカリカチュアという気がします。つまり、彼らが生きて、おとなになって死んでいくということに、ぼくらの想像力は及ぶはずがないですよね。ヒューマニズムというのは、一個の自我が一個に肉体を持っているという公理みたいなもので成り立っている。それが、まったく違う身体性を持った人間がどうして生きていくかってことへの想像力は・・・・・・。そういう違う人を、五体満足なわれわれのヒューマニズムにとり込もうというのは、すごく傲慢だと思います。考えただけで頭おかしくなりますよ。

別役 あの子たちは、極言すればベトナムの不幸、ベトナムの歴史における不幸なんです。ベトナムから切り離せないし、しかもベトナムにいる限りにおいては不自然なんです。いかに極限的な不幸であれね。それを日本へ連れて来ちゃうということで、抽象されちゃうでしょ。あの二人の人格とも、二人がどうなった歴史性とも違ってきちゃうでしょ。日本が、単に医学設備が若干整っているというだけの理由で引き受けられると考えること自体がね、傲慢だね。これは明らかにテレビ的発想でね。テレビはそういう、いわゆる珍獣扱いする機能を持っている。そういう形で、女優のスキャンダルを扱うのと同じレベルで、状況に対するある説得力を持っている。しかし、新聞がからんだところで、なぜもう一つの問題をはっきりさせないか。

朝倉 少なくとも、ベトナム戦争ってのをちゃんと持ってこないとウソですよね。

別役 それから、いわゆる単純なヒューマニズムというものがどこまで有効なのか。あの人格、ああいう存在に関してね。命というものに対するリアリズムがうち立てられなければいけない。そのリアリズムを欠いたところでは何もすることができない。たとえば、一人殺さなければならない状況が出てくるかもしれないでしょ。そういうときにどんな哲学があるかっていうのはリアルに試される。そこを逃げて扱うことはできない。

朝倉 ヒューマニズムの図式から言うと、片一方を殺さなきゃいけないという時には両方殺しちゃうんじゃないか、という気がしますけどね。おかあさんが出てきませんね、報道に。

別役 おかあさんは親権を放棄しているんだって。

朝倉 去年、輸血を拒否して息子を死なした「ものみの塔」の事件がありましたよね(六月・川崎)。あれは、親子関係のなかで、父親が息子の死というものを選んだ。積み重ねられた家族の歴史といったものを基盤にしていた。今回は、その基盤すらない。ヒューマニズムが限度を超えちゃってるんです。ヒューマニズムは、基本的には、そんなに普遍的な価値を持ちえないと思う。

別役 それほど崇高なものじゃない。一つの方法として、政治や法律のシステムの中にヒューマニズムの精神が生きているというのは重要なことだと思うけど、日本の場合は、現象をチェックするために、論理の裏付けのないヒューマニズムという得体の知れない感情が蔓延している。哲学は方法を欠いた、ヒューマニズムだけの生命賛歌なんてありえないですよ。

朝倉 ところが、ベトちゃんと救ったのは私だと中曽根がいい出すんだから、たまったもんじゃないですよ。いいまくってるんですってね。

別役 そうらしいね。ただ、あの子たちを見るのがつらいっての、本能的にあるでしょ。受け入れられるはずがない。単なる善意だけでやってどうするつもりだろう、ってのは潜在的にあると思うんです。そこで中曽根が無定見に、したり顔して私の手柄だとやるのについては、かなり反発があるんじゃないかな。かなり票を減らしたと思ってるんだけど。ヒューマニズムでいうと、もう一つ、どこかの外人(近鉄のデービス)が東尾(西武)をなぐったでしょ。デッドボールくらって。デッドボールくらわせたピッチャーをなぐったって、これはどうってことない、当然のことだと思うんだけど、スポーツ紙はいっせいに「暴力はいけない」と書く。一つのドラマの中で、それがどういう暴力でどういういきさつがあったのかってことを抜きにして、現象面で暴力はいけないとなる。そういう形でヒューマニズムってのが機能してきた。暴力は禁止する。争いは排除する。その中で、こんどはボールをぶっつけた東尾の方も叩かれる。そうじゃないんですよね、野球というのは、ピッチャーはぶつけるべきであるし、ぶつけられたらなぐるべきである、と。なぐってきたら防ぐという、そういう中でルールができあがる。じゃあ、スパイクで蹴るのはやめましょうとか。

朝倉 野球が思想善導になっている。いっそのこと価値観でチームつくったらどうですかね。読売ヒューマニズムとか、ええ・・・・・・西武オルガにズム。もっとわかりやすくなります。

別役 自殺があって、カルガモがあって、ベトナムが出てきて……あのへんで、ヒューマニズムとか人間の命って何だろうかってのが、スルスルって変なドラマを演じた。


(つづく)


別役実・朝倉喬司 「犯罪季評」


注1 岡田有希子の自殺事件があった86年ころから、芸能市場における「アイドル」は次第に解体しつつあるようにみえる。その後、人気者になった山瀬まみ、井森美幸、森口博子といったタレントは、人気の支えを「歌」になど全くおいておらず、テレビのバラエティ番組でのしぐさや喋りの“特異性”を前面に押したて「バラドル」(バラエティ・アイドル)などと称された。さらに91年現在、誰よりも「アイドル的」なのが、相撲の貴花田である。

注2 ベトちゃんドクちゃんは、分離手術後、ベトナムに戻った。その後、どうやって暮らしているのか、くわしく報告はなされていない。

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