塩田明彦「映画術」 表現と存在

小津安二郎という人が、なぜ俳優を無表情にするのか、なぜ俳優の内面を露出するような芝居を禁止するのか、俳優に対して「機械的に動け、無表情になれ」と要求するかというと・・・・・・皆さんも小津の映画をみると不思議に思いますよね?・・・・・・表情を消すことによって「場」が立ち上がるからなんです。

ここでは、岩下志麻が置かれた「場」が立ち上がってきています。彼女の気持ちがどうかじゃなくて、彼女は今、どういう状況に置かれているか?それが、いわゆる小津の「残酷さ」と呼ばれるもので、ここでは処刑宣告のような「場」がつくられているんです。

状況がわからずにふらっとやって来て、死刑を宣告される。言う側も迷っている。ここで起こっていることは、「さらし者にしている」ということで、そしてそれは完全に意図してやってることが、人物配置と証明を見ればわかります。

まずは居間の奥に男たちが二人座っていて、奥から進み出てきた岩下志麻が、彼らの前に座って、彼らの視線を受け止める。部屋のトップライトが煌々と彼女の顔を照らし出す。一方、彼女を見つめる二人の男たちは、まるで審問官のような感じで彼女に体を向けているんですね。寄りのショットでは、彼らに落ちる照明が心なしか陰影を強くしています。

小津監督は、こうして家族の集う今を一種の法廷か何かのように設計して、その上で、岩下志麻に被告人のような動線を与えて、男たちからの宣告を受けさせているんです。「三浦君がおまえのことをどう思ってるか、お父さん、兄さんから訊いてもらったんだよ、だけど駄目だったよ」って、こうして岩下志麻は心秘かに愛する男性との結婚を断たれ、代案として男たちから提示された、会ったこともない男性との結婚話を受けて、歩き去っていくんです。とある家庭の日常ドラマが、いわば法廷的な「視線劇」のなかで演じられているわけです。

「場」が立ち上がるための人物の配置は、視線によって決定づけられています。視線の配置が、ひとつのドラマの有り様を形作っている。視線の演出のすばらしい一例がここにあるわけですね。

小津監督の映画から僕たちが学ぶことは、映画においてひとつの「場」というものが見事に設定されたならば、そこで俳優たちに求められる最も重要な役割とは、表現することではなくて、存在することなのだ、ということです。あの場面で、岩下志麻も笠智衆も佐田啓二も見事に存在している。そして、見事に設計された「場」に、俳優たちが見事なまでに存在したなら、語るべきエモーションは、観客の心の内に自然と立ち上がります。あえて表情を消すことで、登場人物たちの感情が手に取るようにわかる。自分のことのように観客自身の胸のうちに立ち上がってくるんですね。


塩田明彦 「映画術」

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