宗教の事件 28 西尾幹二「自由の恐怖」

●宗教に対する歴史の復権あるいはニーチェとブルクハルト

宗教は歴史とは相反関係にある、と前にも書いた。が、宗教はまた同時に、歴史時代のもっとも古い始原に立ち還る本性を持つ。幾千年の時間を飛び越え、その意味では通例の歴史意識を完全に無視して、自らの拠って立つ初期教団発生の時代へ自分を戻そうとする。洋の東西から教理を寄せ集めた人工的モザイク宗教のオウム真理教にしても、この点では同様である。
歴史的教養はたしかに信仰者の前は色褪せてみえ、無力かもしれない。けれども宗教もまたこのように歴史体験の一形態なのである。ここに歴史が蘇生する契機がある。信仰は知識でも教養でもないが、ともあれこの意味で過去の獲得を前提としている。現在の生へ向けての過去の奪還を前提としている。歴史的学問とはまったく違った通路から、歴史の魂へまっすぐに参入しようとする。宗教はこの点に限っていえば、文学に似ているといえるかもしれない。ホメロスは二千数百年を飛び越えて直かにゲーテに息吹をふきかけた。中世嫌いのゲーテは歴史諸段階を意に介さず、古典古代へ飛翔した。彼は身をもって古代的に生きてみせたのであって、ニーチェ流にいえば、ゲーテは歴史家や文献学の博識をもってするより、百マイルも古代人に接近したのである。

同様に人はいかにイエスのように生き、いかに仏陀のように生きてみせるか。これは後世のあらゆる宗教家の努力目標であり、そして同時に絶望的な不可能事でもある。宗教家は自らの歴史の原点に無限に近づこうとすることにより、かえって無限に遠ざけられる。近代ヨーロッパ文学の主要作品は、おおむね聖書の敬虔な反復であり、同時に涜神的反逆的パロディーである。ほぼ例外なく二つの矛盾した魂を抱えている。

新しい宗教の教祖の「真贋」を占うのに、その行動力だけでは判断できまい。その教理や、言葉だけでも判断はできない。彼らが過去の教団元祖の精神を自らのものとして獲得し、現在の生に甦らせることに成功したと、どこで、どう言えるか。

過去に対して一般に歴史家は、慎重であり、文学者は大胆である。しかし大胆でありながら、文学者は他方で過去に謙虚である。宗教家はこれに反し放胆である。文学者は言霊を失った現代で、故人のように生きてみせることの比較を絶した困難を知っているからである。

小林秀雄は歴史意識を問題にしたけれど、ついに歴史を自ら叙述しなかった。彼自身は古代学者ではなく、古代と格闘した本居宣長などを対象としたにすぎない。自らが日本の古代にぶつかり、それをわがものとして現代の生に奪還する実践的歴史家として生きたわけではない。それにも拘らず、彼は歴史は観照ではなく、行為だと言った。歴史は宣長と同じように古代への思慕がある。同時に現代人としての信仰への危機がある。その相克のなかに立ち尽くすほかない自分自身の限界に対し彼は謙虚だった。自分も個人と同じように生きてみせたいが、そういう問いが限度を超えると、何かを破壊し、不毛に終わることを、彼は若い頃から知っていた。

「努めて個人を僕等に引寄せて考えよとする、さういふ類ひの試みが、果たして僕等が個人と本当に親しむに至る道であらうか。必要なのはおそらく逆な手段だ。實朝といふ人が、まさしく七百年前に生きてゐた事を確かめる為に、僕等はどんなに澤山なものを捨ててかゝらねばならぬかを知る道を行くべきではないだらうか。」

これに反し、歴史を知的に理解するだけではなく、自分の行為のなかに体現する、というような捉え方をする人の場合、歴史に対し冷静ではあり得ず、どうしても宗教家の態度に似てくる。古代ギリシアに対面するニーチェの態度がその一例といっていい。若い時代の彼は古代ギリシアの賢人たちの少数者の共同体に思いを馳せたとき、単なる研究や学問で満足できなかった。「新しいギリシア風の大学(アカデミー)」あるいは「僕たちの修道院めいた哲学者学校」を実際に作ろうと夢み、財政計画にまで着手した。ギリシアを現代に喚び戻す企てである。自分が車座の真ん中に坐し、信頼できる友人を周りに配して、古代賢人の世界を具体的に甦らせようというのである。これもやはり一種のカルト教団といってよいであろう。

幸いなことに現実はニーチェの思い通りにならず、このきわめて非実際的な行動プランは間もなく挫折した。しかし彼はこのときの危険の淵に立っていたといえる。ワーグナーを盟主とするバイロイト運動へかけた彼の次の夢は、思うにその代償であった。同じころ信仰を結んだブルクハルトは、この若い友人の並々ならぬ才幹を認めてはいたが、歴史を「仮想せる神学」とみなし、歴史という現代の装飾文化のいっさいの衰亡に手を貸すべきだというニーチェの過激な思想には、ついていけないものを感じていた。当時出されたニーチェの『反時代的考察』第二編の「生に対する歴史の利益と弊害」のなかで、結局は歴史の「弊害」にばかり目が向けられ、そこが誇大に言い立てられるのが、彼には納得いかなかった。

ニーチェは歴史を必要としない、といったのではない。必要とはするが、それはしかし、過去の認識のためにでは決してない。生と未来と行為のために必要とするにすぎない。単なる認識のための歴史は、彼に言わせれば生きた歴史ではない。ニーチェにとって大切なのはギリシアであり、その点でゲーテに似ている。ただしニーチェの場合はソクラテス以前のギリシアであって、プラトン以後のヨーロッパの長い歴史は、事実上存在しないに等しかった。しかしブルクハルトは、ニーチェのように古代と現代とを隔てる巨大な時間量を一息に跳び越えるようなことは、なんとしてもなし得ない。彼は歴史家であって、哲学者ではない。

それでいてブルクハルトは、現代のヨーロッパの一般的な運命についての多くの歴史家たちの判断は、偏見と希望に満ち、ニーチェのペシミスティックな洞察に及ぶべくもないことに気がついていた、市民的勤勉さ、快適な生活のための保険という思想、キリスト教の跡目相続人としての民主主義の思想が、いかに宗教的な本能を破壊し、ヨーロッパ文化を平板化衰弱化へ向かわせるかの判断において、ニーチェに深く同調していた。取るに足りぬ瑣末な知識をあさり、積み重ね、そこにキリスト教の裏返しである「進歩」の観念をまぶすドイツ的歴史主義の初作に懐疑的である点で、ブルクハルトは断固として若い友の味方だった。実際、歴史を広義において「讃歌」と見ていたブルクハルトは、19世紀ドイツ史学の科学的客観主義の伝統よりも、ニーチェが『反時代的考察』で唱えた「記念碑的な歴史」にむしろ近かったといえるであろう。

現在が永遠に回帰する宇宙論的視座をもって、ヨーロッパ的=キリスト教的時間観念の外へ一気に自己を離脱させようとしていたニーチェの意図が、ギリシア史の老碩学にどこまで通じていたかははなはだ疑わしい。ニーチェが暴力的人間を賛美したとき、ブルクハルトは『イタリア・ルネサンスの文化』の著者であるにも拘らず、ただ当惑し、反対した。

二人が19世紀型歴史主義の抵抗者であったことまでは類似点である。しかし抵抗の姿勢は、その動機とともに互いに異なる。ブルクハルトは秀れた芸術案内である『チチェローネ』のなかで、手書きの細密画を考察から外しておいた。その理由はあまり頻繁にしげしげと見つめると絵の消滅が早まるかもしれない、というのである。「これほどの『歴史主義』と太刀打ちできるものはあるまい」とカール・レヴィットは言っている(『ブルクハルト』1936年)。

ブルクハルトとニーチェは歴史と生、観照と行為が互いにその矛盾をさらけ出して相剋する対立の典型例である。史上最も美しい、生産的な対立の模範と言ってよいだろう。そしてその際、大切なのは対立が相互に永続的な問いとして維持されていることである。一方が弱まり、他方が勝利を収めたとき、問いは成り立たなくなる。二極が引き合っている全体の緊張が消えたとき、歴史そのものが危うくなる。実際ドイツ史は二人が立ち去って間もなく、ヒトラーの登場を迎えることになる。

「本当に知るとは、行ふ事だ」という小林のあの言葉のなかの「行ふ」が実際的具体的な「行動」でなかったことは、今にして明らかである。これはどこまでも問いである。答えを書いている問いである。否、答えを期待していない問いである。ブルクハルトとニーチェの対立のような劇的な例は日本の文化史にはめったに見られない。小林はこのドラマの全体をよく直観し、知っていた。自らの一身において対立を内包させ、戦わせたといっていいかもしれない。

それに反しいまわれわれは全く新しい時代を迎えている。行為をそのまま行動化した三島由紀夫の事件は、何かの幕開けを象徴していた。歴史の拘束力が弱くなった。意識が対立のドラマから解放され自由になった。そしてその分だけ歴史は薄くなり、われわれにはすべてが許され、問いを立てぬ前に答えが出されて、傲慢な行動者が波浪に漂う浮標のごとく、責任感もなく、野蛮に、しかも集団的に離合集散する時代の開始が告げ知らされている。

ひょっとするとわれわれはまったく新しい、これまで知られていないスタイルのファシズムの時代を迎えつつあるのかもしれない。

(つづく)


西尾幹二 「自由の恐怖」(文藝春秋)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?