寺小屋という教育

寺小屋の起源は室町中期にまでさかのぼる。しかし、いちじるしく普及したのは江戸時代も中期、藩校と同じようにやはり18世紀以降である。商業が盛んになり、交通が進み、生産や商取引に契約書、帳面類、書簡などの必要がいちじるしく生じた。幕府の側でも、さまざまなことがらを伝達するのに文字を用いて効果をあげようとした。そのため、最初は江戸、大坂といった大都市で設けられた寺小屋でも、幕末に入る天保年間(1830-1844)頃からは、農村や漁村の隅々にまで開かれるようになった。

寺小屋では先生役を引き受けた師匠は、今日の小型受験学習塾のよう似に同一人が経営者でもあった。必ずしも特定の知識階級というわけではない。師匠役を演じたのは数の中でも庶民が多い。町年寄や隠居と呼ばれた人々、庄屋や組頭のような農漁村の支配層が、自分の経費負担で寺小屋を開く場合も少なくなかった。次に多いのは武士であった。また、僧侶や神官も、それぞれの地方に応じ寺小屋を開いた。一番見逃すことのできない点は、寺小屋が庶民が自らの必要から生み出した、ほとんど自然発生体としての組織であって、幕府や藩の側の要請に基づくものではないことである。だから統制もなかったし、監督もなかった。そのかわりに補助もなかったのである。

というわけだから、規制のない自由な空気が全体としての前提をなしている。女の師匠の進出も大都市ではいちじるしいものがあった。江戸の寺小屋の師匠は、三人に一人が女性であった。神田、日本橋、浅草といったところには、女の先生の比率がきわめて高いことが興味深い現象として目立つ。

男女共学がふつうで、一校あたり平均40人ぐらいをめどとする。江戸時代も後期に入ると、一校あたりの子どもの数は少なくなる。その理由は寺小屋の数が激増したためである。それほどに文字習得への要望が庶民のあいだで強まった証拠であるともいえる。男女共学と今言ったが、その比率は全国平均では男児100に対して女児25である。しかし、江戸では100対89で、先ほど述べた神田、日本橋、浅草などのような庶民の群居するにぎやかな町、卸問屋や株式組合などが盛んに活躍している地域では、男女の生徒の比率はほぼ同数であった。商業活動は夫婦で行わなければならない社会の要請が、こうした傾向を生み出したのであろう。

教育内容は習字と、いわゆる〝読み書き算盤(そろばん)〟であった。中核となったのは習字であるが、字をじょうずに書くだけではなく、それを通じてものを読むということを教え、これを手習いと称した。また、師匠に対する礼儀作法や生活上の躾までが行われていた。教科書としては、「往来物」という名で呼ばれる文書が使われた。教訓、社会、語意、消息、地理、歴史、産業、理数などの各分野にわたって、いろいろな形の「往来物」がつくられた。往来とは、往復書簡を収録して、テキストのようなかたちに編んだものを意味する。これが初歩教科書一般を指す言葉となった。

江戸時代を通じてしだいに高まる一般庶民の教育への欲求があり、寺小屋という自発的な学校制度の自然発生によって、子どもたちが一日数時間、ともあれひとつの場所で先生から教育を受けるという習慣が、きわめて広範囲に社会内に普及していたという事実がなによりも貴重な遺産だった。

西尾幹二 「国民の歴史」

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