吉本隆明 正常と異常

●正常と異常の狭間

・・・・・・漱石の食べものに関連する話ですけど、江藤淳さんが緩慢なる殺人ということでお書きになっています。漱石が精神異常に陥りそうになる、つまり発作が出そうになると、鏡子夫人が食べものに薬を入れちゃってそれを抑えようとしていたと、これが砒素だったら、あのカレー事件と同じで、完全に殺人になる。この江藤さんの解釈は、卓抜なものだったんですか。

そうですね、あの人、よく見ているし調べているから、どうも日常の行動から考えて、これはおかしいって思っていたようです。だいたい漱石は頭がおかしくなって発作を起こすと、顔が黒ずんでテラテラして来るという徴候があって、奥さんは長年のことでわかっているから、その兆候が出てくると、故意にそういう発作を少し沈静するような薬を食べ物に入れていたんじゃないかと。やっぱり緩慢なる殺人に類する、みたいなことを書きましたね。誰も遠慮してそこまで書けなかったことを、ある意味でとうとう本当のことをいっちゃったなという感じもしますね。

・・・・・・江藤さんの前にはそういう解釈をする文芸評論家っていなかったんですか。

ゼロですね。要するにあの奥さんは悪妻だっていう言い方は書いたり言ったりしているんです。だけど悪妻だっていう以上のことは、そこまで相当つっこんで言っちゃったっていいうのは、江藤さんがはじめてですね。江藤さんは、普段おとなしくて温厚な人なんだけど、ときどきそういう思いもかけないようなすげえことを言うし、すげえ悪口を平気で書くなというところがあって、そういうところが僕は好きだったんですけど。

確かに『漱石の思い出』という奥さんの談話をまとめたものを読むと、それはほんとうにどう考えても「やなやつだなあ」と思えるんだけど、それは逆に奥さんの方からいえば、あの旦那、嫌なやつでしょうがないってことがあると思うんです。漱石からすれば、なんて女房だってことで、『道草』なんか読むと、自分は正常な人間なのに、奥さんはヒステリーの発作が起きると川へ飛び込みそうなって慌てて止めたとか、帯で自分とつないで寝たとか、そんなふうに書いてある。奥さんの方からすれば、なんて旦那だっていう。お互いに自分のことはいわず相手の悪口ばっかり。これはちょっと悲劇以外のなにものないけど、ときどき喜劇のようにも思えたりするんですけど。

森鷗外の奥さんも、悪妻だっていう評価がおおっぴらにありますね。だけどこれはどっちが悪いのかわかりません。鴎外とか漱石というのは特別ちょっと並はずれて変わっているというか、才能でいうとちょっと天才的な人だったから、そういう人特有なのかもしれないけど、二人とも悪妻ということになっていて。旦那があまりに天才的だったから、そういうことは全部奥さんのせいになっちゃって、悪妻だ、悪妻だということで片付けられちゃうんでしょうけど。

・・・・・・でも、普通の庶民でも、日記とか記録に残したら、みんな悪妻になっちゃう。それ以外はいませんよ。もちろん男もひどいけど。

そうそう悪妻に悪旦那。

・・・・・・そういう一服盛ってやるという気分的なことは、もちろんそんなことは実際しないんだろうけど、気分ではなんかわかりますよね。夫婦関係の中で地獄の風が吹いているところは、みんな似たようなことをやっているかもしれませんよ。

そうです、たいていどこの夫婦も一生のうちに二、三回は、こいつを殺してやりたいとかって思ったことあるわけで。

・・・・・・私なんか年中ですけど、吉本さんも思ったことはありますか。

もちろんありますよ。いや、そりゃもう、そういうことはかならず心の中では思っている。思ったことがないっていう人がいるとしたら、僕には糖尿病のカロリー制限が守れる人がいるのと同じように信じられない。まあ、長続きしないで、すぐに何かの拍子にふつうになっちゃたり仲よさそうになっちゃったりっていうところは、夫婦喧嘩の特徴ですけど、でもそれは、思ったことはみんなかならずありますよ。実行しないだけで。

それを公然といった精神学者が一人いて、僕の知り合いで陽和病院の院長の森山公夫さんに、要するに正常と異常を、なにでもって区別するんですかって、僕聞いたことがあるんです。十年か二十年前の常識だと、当たり前の日常生活、普通の生活をできる範囲であればそれは正常だっていえる、そこまで治せれば正常に治したっていえるっていうふうになっていたんですけど、それは僕は疑問だなって思っていたから聞いたんです。彼はこう言っていました。

つまり正常な人間なんて誰もいないんですよと。ただ波があって、正常の場合も異常の場合も低い波では移動するんだったら、それは正常とみなされる。波の高くなり方、低くなり方がひどいとそれは異常なんだって、そういう説明をしてくれました。だから正常な人なんていうのはいないんですよって。

・・・・・・我々庶民もインテリも文学者も、同じなんですね。

そうです、生理的には変わりないです。それをどういうふうに処理するか、どういうふうに考えるかっていうことが、それぞれ違うわけでしょうね。僕は、そういう食い物とか具体的な物質的なものに対する距離感が、個人個人ちがうんだよって思います。あるものが欲しいっていうことはちっとも変わらないんだけど、いざそれを手に入れる、手に入れるためにお金がかかる、じゃあ、お金を工面して、というふうになってくると、ちょいと距離感があってなかなか実行まで行かないか、実行するかみたいな。そこのところが人によって違うんだろうなと思うんですね。

漱石はどう考えていたかはちっとも書いていない。小説をよく読んでも、それだけはどう考えて、どうしたかっていうのはあんまり書いていないから、そこはわかりませんけどね。それが気質に反映した場合にどうなるかっていうと、僕もそういう傾向があるけど、漱石もそうで、とくに食い物についてはそうなんでしょうけど、要するにまともな人というか、正常な感覚の人っていうのはみんな敵だって思えてくるんですよね。全然どうってことないときでも、自分だけ力瘤いれちゃって、世間とか一般社会というのは全部敵だと、無意識のうちに思っていて、いつでも肩肘張って緊張して、実際に身体はそうじゃなくても心はいつもそうなっちゃっていて、ほら、よくお相撲さんが土俵で四つに組んで、投げることのなにもできなくて動かない、止まっているように見えるけど、よく見ると背中や額から汗が流れている。つまり両者とも満身の力を込めていて、両者とも同じような力だから動かないでじっとしているようにみえるのと同じで、人と争いごとをしたりしないときだって、一生懸命になって自分を守ったり強情を張ったりしたえているもんなんだって考えて、実際にもそうしているわけなんです。

漱石もそうなんです。だけど最後に修善寺にわかに胃で吐血したときに、もうだめかっていうことで、家の人もお弟子さんたちも集まってきて、看病したり親切に扱ってくれたりする。そのときはじめて漱石は、世間というのはいつも自分と敵対しているもので、自分はいつも緊張していないとこれに対抗できないと思ってきたけれど、みんなが集まってきて親切にしてくれたり、家族も、こんなのは敵だと思っていた奥さんも存外よくやってくれた、こういうふうに考えてもみると、自分の考え方は間違っていたかもしれない、なんて書いてますけど。それはとてもよく僕はわかりますね。

・・・・・・病気との関係も、どこかにあるんでしょうか。

ええ、それは、糖尿病に共通なのかもしれないですね。頑固で、人の言うことを聞かなくてしょうがない。それでいて食い意地が張っている。僕の知っているお医者さんで、自分が胃病になって入院した人が、「吉本さん、糖尿病っていうのはあれ、気がおかしいですね。僕、糖尿病の患者さんと同じ部屋にいるんだけど、みんな振る舞い方がおかしい」っていうんですよ。だけどそれは、僕もどっかの瞬間に見られたら、確かにこれはおかしいって思われるでしょうね。盛んに冷蔵庫開けて食っちゃったりとか、病院でも家族になにか持って来させて医者に内緒で食っちゃうとか、知恵も人格も役に立たない。それぐらいおかしいんですよ。自分ではおかしくないつもりなんだけど、人から見たらおかしな振る舞いをしているんでしょね。

僕なんかもね、食べるので一番好きなのは、盗み食いなんですよ。内緒で食ったとか盗み食いしたとかね、誰にも言わないで食いに行っちゃったとかね、やりたいんです。そういうのが、いちばんいいんですよ。そうすると漱石なんかも、そういうのをおかしいと言われている面と、本当におかしい面と両方あったんじゃないですかね。だから僕なんかもあぶない。うちの者から見たら、こいつはおかしいって思われてると思いますね。

たとえばうんと食いたくてたまらなくなっちゃうと、冷蔵庫なんか開けて盛んにあさって食べているんです。その姿を人が見てたら、あいつ正気かって思われるだろうなって思います。なんだこのざまはって思われるんじゃないかと。僕らせいぜい用心はするんだけど、ある場面を部分的に見られたら、こりゃちょっとおかしいよって完全に言えるっていうのが、少なくとも食いものに、いちばん率直に表れているんじゃないですかね。


吉本隆明「食」を語る

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