今更ながら「Lemon」の歌詞を考えてみる
米津玄師のことを知ったのは割と最近で、というのも5年くらい前に僕の音楽は止まってしまったから。最近インスタグラムで
「Spotifyとか何が良いんだかサッパリ。って言う私はオバさんかな?」
と嘆いていたゾーイ・デシャネルじゃないが、僕も流行りに全くついていけなくて久しい。
家で何となくギターを弾きたい時に無料のコード譜サイト「U-FRET」を見るのだが、去年人気ランキングのトップ15をあいみょんと米津玄師が独占した時期が続き、そこで聴くに至った。
その程度の知識と熱量なのでこれから書くことは駄文&戯れ言でしかないのだが、去年(2018年)最大のヒットソングとなった彼の楽曲「Lemon」の歌詞についてちょっと考えてみることにした。
というのもこの歌詞が抽象的で「一体どういう物語なんだろう?」と考える豊穣な余白があり、それもこの曲のヒット要因なのかななんて思う所があったから。実際色んな人が「なぜレモンなのか」について解釈していたりして、その考察は無数にネット上にあがっている。
米津玄師本人は、曲の制作過程に祖父が死んだことが大きな影響を与えていると公言している。したがってこの曲は「死別」の物語だという解釈はかなり大前提になっているようだ。
ただそれでは面白くない。別に歌詞の解釈に正解は無いし、それぞれがそれぞれに感じたことを投影すればいいと思う。それに「なぜレモンなのか」の理由は「死別の物語」を前提にすると逆に説明が難しくなる。まぁこれから僕が展開する持論もこじつけでしかないのだが。
この「Lemon」の歌詞の面白さは前述したように余白の大きさにある。登場人物は語り手の「わたし」と「あなた」だけなのだが、実はどちらの性別も明らかではない。例えば2番の冒頭で
暗闇であなたの背をなぞった
その輪郭を鮮明に覚えている
とあるので「わたし」と「あなた」は恋愛関係にあるのだろう。ただしこのカップルは男女かもしれないし、同性愛パートナーかもしれない。
「わたし」も「あなた」も身体的な特徴の描写がなく抽象性が高いことで、普遍的な別離の歌として見ることができるのだ。
僕が一番感じたことは、「Lemon」は米津玄師がハチ名義で2015年に配信した「ドーナツホール」と全く同じテーマを扱っていることだ。
この2曲は「大切な相手を失った喪失感」を歌ったものであり、その比喩として用いられるのがレモンとドーナツなのだ。「ドーナツホール」歌詞の一節を引用する。
この胸に空いた穴が今
あなたを確かめるただ一つの証明
「あなたが不在であること」それが逆説的に、一緒にいた時以上にあなたの存在を自分の中で確実なものにしてしまうーこの理論は「Lemon」のCメロでも繰り返される。
自分が思うより恋をしていたあなたに
(省略)
とても忘れられないそれだけが確か
ただしこの2曲は微妙にニュアンスが違う。どちらも「あなた」を喪失したことに絶望しているが、向いているベクトルが違うのだ。
「ドーナツホール」は胸にぽっかりと空いた穴の闇を見つめている。しかし「Lemon」で胸に残るレモンを「わたし」はこう捉えているー光だと。
どちらも喪失に対する絶望を描くことに収斂していて、その先を描いているわけではない。だが「Lemon」の最後の一言はこうだ。
今でもあなたはわたしの光
闇の中にいる「わたし」にさす一筋の光、それをたどっていけば「わたし」は救われるのではないか。そんな余韻を残して「Lemon」は終わる。
レモン=光なのは「切り分けた果実の片方のように」から察するに、レモンを半分に切ったときの切り口が放射状に広がる光線に似ているからだろう。
<じゃあなぜ、レモンなのか?>
おそらく事実としては作詞した米津玄師の「なんとなく」以上でも以下でもないのではないだろうか。或いは本人しか知りえないレモンにまつわる個人的なエピソードがもとになっているか。しかし、ここではあえて深読みして1つの説をこじつけてみたい。
僕がレモンと聞いて真っ先に連想したのが、梶井基次郎の短編小説「檸檬」だ。学校の教科書にも載っている日本を代表する文学作品である。
自意識こじらせ系の「私」は鬱屈した気持ちで散歩をしている。ふらりと入った果物屋でレモンを買うと不思議と心が晴れる。「私」は本屋に積まれた本の上にこっそりとレモンを置く。レモンを爆弾だと妄想し、本屋が爆発するのを想像し晴れやかな気分で家路をいく「私」であった。
この小説は非常に分かりやすい。
井上陽水の代表曲「氷の世界」の3番の歌詞を彷彿とさせる。
人を傷つけたいな誰か傷つけたいな
だけどできない理由は
やっぱりただ自分が怖いだけなんだな
あるいはBlankey Jet Cityの「D.I.J.のピストル」
ダイナマイトを持ってきてくれよ
ガソリン入りのビンでもOK
息をひそめゆっくり火をつけて
何かとっても悪いことがしたい
という箇所に通じるものがあると思う。
思春期独特の鬱屈とした気分、世界に対する破壊衝動、だけど実際には行動に移せない臆病さ…「檸檬」は自我をテーマにした普遍的な小説であり、作中の檸檬は自我の象徴になっている。
いびつで、少しざらついた肌触りで、どこか不吉。しかし「私」はそんな檸檬を美しいと思う、それはいわば自己愛のようなものだ。
楽曲「Lemon」に話を戻そう。小説「檸檬」において自我の象徴だったレモンを「わたし」は切り分けている。単に切っているのでなく分けている、つまり「あなた」にもう半分のレモンをあげているということだ。自己愛を真っ二つにしてもいいほど、「あなた」を愛しているということかもしれない。
あるいは「わたし」は自我を分断し、その半分を「あなた」に渡している。つまり「あなた」の中には「わたし」の一部も存在している。だから「あなた」と「わたし」は同一人物でも成立する気がしてくる。「あなた」は過去の自分であり、「わたし」はいまの自分だ。過去の自分を葬ることで、「わたし」が生まれ変わる物語として見ることもできるのである。
ここで最後にもう1曲、僕が連想したのが2016年のNo.1ヒットソングである星野源の「恋」だ。この曲は1番2番と進むにつれて、あらゆる「恋」のカタチを肯定する構成の歌詞になっている。
2番のBメロの歌詞を引用する。
恋せずにいられないな 似た顔も虚構にも
愛が生まれるのは一人から
まず「似た顔」は同性愛が連想される。「虚構」は2次元やアイドルへの愛だろう。そしてこの歌は他者を愛することさえ強要しない。自分自身を愛することだって立派な恋なんだと背中を押す。
夫婦を超えていけ
二人を超えていけ
一人を超えていけ
ますます多様化・複雑化していく現代社会において、どんな人にだって「恋」は出来るものなのだとあらゆる人々に寄り添う。だからこそ、あそこまでヒットしたのだ。(単にドラマとダンスがブームになっただけと言ってしまうのは無粋である)
「Lemon」も実は「恋」と同じで、あらゆる人が聴いて「これは僕/私のことを歌っている歌だ」と思える豊穣な解釈の余地がある。音楽にいま何が求められているかーその答えがそこにあるのだ。
と、以上が僕のテキトー&妄想による「Lemon」の仮説だ。米津玄師がどれくらい梶井基次郎の「檸檬」を意識したかは全く分からない。恐らく全くの的外れだろうけど、こうやって時間を無駄にしてあれこれ考える時が一番楽しいことだけは事実なのだ。我思う、故に我ありである。
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