どうやったら人間関係、上手くいくのか?
最近、思ったことがある。
どうやったら人間関係、上手くいくのか?
これは簡単で、居心地のいい環境を提供して、相手の行為に感謝をし、存在を認めてやり、相手の自尊心を高めればいいのである。
多分これができればどんな人でも男女関係なくモテるでしょう。
じゃあ世の中の人なんでできないのか?
一言で言うと、めっちゃ疲れるから。
上記の行為は、「相手に快適さを提供する」「相手を受け止める」という愛の表現であると思うのだが、疲れてたり余裕が無いと、妙な不自然さと、時に望まない行動を受けとめることへの疲れが出て、イライラしてしまうのだ。
つまり「自分の中の愛(余裕)が枯渇している人間は、人を受け入れる、という愛の表現が出来ない。」
これは、突然旦那に切れる専業主婦など思い浮かべてもらうとわかりやすいと思う。
疲れ果てているのに、なんとか家族のためにと愛を提供していたる主婦は、愛を吐き出し尽くして限界に達すると「なんで私を認めてくれないのだ」とキレだす。
主婦は愛を求めているのに、それに反して怒りにより関係がさらに悪化、愛は遠のく。
金に困った人間は借金をし、利子を支払うことでさらに金を失う。
愛も同じだ。
愛に困った人間が、愛を無理にひねり出して他者に与えても、怒りという高い負債を負わされる。
それによって関係は悪化し、さらに愛を失う。
つまり、愛を表現するためには、自分の中に愛という資本が元からある必要がある。
内面に愛がない人間は、愛を提供できず、愛ある関係を築くことが出来ない。
じゃあ、今、愛がない人間は、どうしたら自分の中に愛を貯めることが出来るのだろうか?
これも簡単。
愛される人間になればいいのだ。
愛されている人間は惜しみなく他者へ愛を吐き出せる。
じゃあ、愛されるって何?
どういう行為が愛なの?実は、男女間での愛されるとはなんなのかを調べている中で、不思議に思うことがあった。
結婚して愛されるってどんなのかな、としらべると大体世間の意見はこんな調子なのだ。
「うちの旦那さんはご飯も作ってくれるし掃除もするし、何でもしてくれる 」
「私は旦那といて財布を開いたことがない、なんでも買ってくれる」
「旦那は私が大好きでなんでも言うことを聞いてくれる」
私はこれを見て「これ……愛か?」と首を傾げた。
もしこれが愛だとするなら
「ご飯が作れず、掃除もできず、金を稼ぐ能力もなく何も出来ない、幼稚で無能な人間」
のほうが、
「愛される人間、愛する甲斐のある人間」
という理屈がまかり通ってしまう。
たしかに親と子供のような、一方に明らかな欠落(未発達)のある場合は、そういう愛の表現の仕方もあると思う。
が、双方大人同士の場合は別だ。
もしこれが「愛」だとしたら、有能な人間は「何も出来ない馬鹿な振り」をしないと「愛を受け取れない」となってしまう。
しかし、世の中的にそれが「正しい男女間の愛」のようなのだ。
それは、女は馬鹿な振りをした方が愛される、それが男性を立てるということ、というテクニックや「自立しすぎると愛されなくなる」という話が当たり前のように言われていることからも言えるだろう。
そんな馬鹿な話あるか。
そんなこんなで、人を受け入れようにも自分の中に愛がないから、無理に愛を提供しても疲れちゃう。
かたや愛されるには馬鹿になる必要がある。
というジレンマに、愛ってなんなんだ…と、思っていたある日。
知人とご飯を食べに行く話をしており、私の家の近所で会うことになっていたので、私が店を考えるという約束をした。
が、仕事に追われて何もせぬまま2日前になり、「さすがに今日の夜にはリストを渡さないとやばい」と思っていたら、なんと相手がその日の朝に「忙しいかと思って…」とリストを送ってくれたのだ。
相手は、きっと連絡の様子から私が忙しいのだろうと気づき、私が何を食べたそうかかんがえてくれたのだろう。
「忙しい?お店選びやろうか?」とも聞かない。
粛々と観察し、自分に何ができるか考え、アウトプットしたと思われる。
この連絡を受けた時、私は気づいた。
愛の本質とは、「どのように相手を観察」し、「どれだけ真摯に相手に関心を持ったか?」なのではなかろうか、と。
愛とは行為ではないのだ。
姿勢なのだ。
人間は、何をしてもらった、とか、どれだけ優しくしてくれたか(その行為が自分の求めていたことか)といった「行為」で愛を測る。
でも、実際のところ、「観察関心」なしには、相手の求める「行為」は生まれない。
行為はただの結果でしかない。
そして前段の疑問に答えるなら。
相手の存在を認め感謝してあれこれ至れりつくせりやる必要なんてない。
とにかく相手を観察して「あぁ、こうしてあげたらいいかな」と、ふと心に湧いたことだけをやればいいのだ。
(ふと心に湧いた以上のことをやると相手にエゴだということがバレて反感食らうよね)
また、愛を求めるために馬鹿なふりなんてしなくていいのである。
たしかに、自分のことすら何も出来ない人がいたら、そういう人を観察した結果「この人には家事をした方がいいな」となることもあろう。
けれど、双方が高いレベルにあればあるほど、より高度な観察関心、愛の交換ができるはずだ。
日々大切に育てている観葉植物が青々と輝くのを見て、それだけで私は、この植物から滴るような愛を感じる。
私は植物を世話することによって、この植物から愛を感じている。
それはつまり、愛は、不思議なもので与えた側から愛がもう一方に移譲されるわけではなく、愛を与えた方には満たされた気持ちを与え、また与えられた方には、愛の輝きをもたらす。
与えることによって価値が増幅する性質があるのではなかろうか。
(経済の富の考え方と似ている。1万円しかない世界で職人に1万円を渡して椅子を作ってもらうと、この世界には1万円+1万円の椅子=2万円分の富が生まれる、というやつ。)
植物に対して日々せっせと、元気か?曲がってないか?観察しているからこそ、観葉植物は今日も、愛を受けて輝いている。
いつしか、こういう思いを、自分の周囲の人間にも感じてみたいと思うと同時に「まぁ世の中どう観察してもなんにもわかんない人もいるし、そういう時はとっとと離れるに限りますな」なんてことを思う今日この頃である。