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「オーダー車だから良く走る自転車とは限らないんだよ。」というお話(46)

これまで「ヒロセの自転車は、ランドナーAタイプ、Bタイプとか、ロードレーサー・スタンダード、スペシャルといった、いわゆるカタログ的なモデルが無く、全てオーダー毎にゼロから設計される。故に、一台一台の自転車にはオーナーさんの個性(体格、体癖、趣味など)が色濃く反映される。」といった内容を縷々記してきました。

ですから、もしヒロセ車が多彩だとするなら、それはお客さんの個性が多様だったから、ということになるのだと思います。

実際、廣瀬さんがそのオーナーさんと近しくなり、その人物の個性を深く理解した後に作られる二台目以降のオーダー車には、ランドナーやMTBといった既存のカテゴリーには当て嵌めにくい、オリジナリティーを有する自転車が数多くありました。

「前後異径車」 2009年撮影

私がヒロセ車に興味を抱いたのは、2010年の展示会で試乗させて頂いた「前後異径車」の「乗り味」からでしたが、頻繁に通い、やがてはオーダーするに至った理由の一つが、過去のヒロセ製車が網羅された写真アルバムをお店で拝見し、多彩なヒロセ車の存在を知ったことでした。

「なんだか他のお店では見たことのないような自転車が沢山あるぞ…。車種、ジャンルすらよくわからんやつが…。いったいこれらはどういう使用目的、どんな人向けに作られた自転車なんだろう?」と、好奇心を掻き立てられたのです。

今回から特に私が興味深く拝見させて頂いたヒロセ車を、そのオーナーさんとセットで具体的にご紹介して行きたいと思います。


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設計にまつわること 32 「オーナーさんという最重要パーツについて その9 オーナーさんの個性が具現化したヒロセ車 - A」


個別具体的な「オーナーさんとオーダー車の組み合わせ」をご紹介する前に、一歩引いて、「はたしてヒロセさんのお客さんたちに傾向みたいなものはあったか?」について考えてみたいと思います。

競輪に携わられている工房さんのお客さんの中には、その点を評価し、来店される方も多いと聞きます。
「競輪に採用されているくらいだから、きっと精度も高いのだろう。」と期待されて。
自らは競輪と距離を置いていた廣瀬さん、お客さんにありがちなこの視点を強く意識されており、競輪で採用されている規格よりさらに厳しい規格、精度を自らに課し、ロードや旅行用車のみならず、高齢者用車や子ども車を製作されていました。

また、近郊に特定の施設がある工房の客層は、そことの関連性が見られるそうです。
例えば、廣瀬さんが独立前に勤めていた吉祥寺のお店の近くには成蹊大学があり、自転車部の方々がご贔屓にされていたそうです。
学生さんは毎年入れ替わるので良いお客さんですよね。
もっとも現代の自転車部はロードバイクがメインで、そのフレームもカーボン製が席巻するなど、半世紀前とは随分と様相が変わっているのでしょうが…。

しかし、上の例とは異なり、ヒロセのお客さんたちには、これといった傾向というものが見当たりませんでした。見事にバラバラだったんです。



どんな相手にもフラットに、公平に接していた晩年の廣瀬さん

ヒロセのオーダーメイド車は、決して安い商品ではありません。
国の金利差で円が安い今(2023年9月)買う海外の高級カーボン車に比べれば、ヒロセ車は、決して高く感じられる値段設定ではありませんでしたが、ドン・キホーテやイオンで売られている5万円前後のスポーツ車的意匠の自転車と比較してしまうと、一般の方々からすれば十分高い買い物に映ったのでは無いでしょうか。「えっ? 自転車に二桁万円も使うの?」と。
ヒロセ製ではありませんが、忌野清志郎さんの国産オーダーメイド自転車が盗難された時は、160万円というそのお値段ばかりが話題になっていたように記憶しています。

ヒロセのお客さんにはお金持ちもいらっしゃれば、そうでない方もいらっしゃいました。
たっぷりとある余裕の中からの出費の方もいれば、他の楽しみを削ってでもヒロセ車作りに楽しみを見出す人もいらっしゃった…。
つまり自転車にかけられる金銭、「エンゲル係数」ならぬ「自転車係数」は人それぞれでした。
廣瀬さん、裕福か否かでお客さんを区別、差別、評価されませんでした

また、社会的地位、肩書きでもお客さんを区別、差別、評価されなかった…
名の通った高名な博士の息子さんで、自らの最終学歴が大学ということもあってか、地位や肩書きへの幻想も、恐れも、コンプレックスも、偏見もお持ちで無かったようにお見受けしました(廣瀬さんのお父様のお話は、第13回でご紹介していますので興味がおありの方はそちらをご覧下さい)。

基本、完成車でしか販売されなかったヒロセ車の値段は、パーツの値段と、工作の数で決まっていました。裏返せば、フレームとフォークの製作手間賃は基本的には、どんな車種でも似たり寄ったりだったように思います。

工作の数だけ工賃が上がるので、当然、ロードよりランドナーなんかの方が値段が高い…。泥除けや、キャリアなどの工作が存在するからですね。

ケーブル内蔵や、ダイナモといった工作を望む場合、それらについても工賃が上乗せされます。
オリジナルの製品。ステムや、変速機や、チェーン・ホイール・アダプターや、エンドを望むのであれば、それらに対する対価も必要。
改造が必要な特殊な規格や古いパーツを持ち込む場合、それらをきちんと機能させる為の工作料金も加算されました。

つまり、ヒロセでは、工作の数が多ければ多いほど。さらに、その工作が複雑で時間がかかる物であればそれだけ完成車の値段は上がっていく方式でした。
かと言って廣瀬さん、工作の数が多い、つまり値段の高いオーダーをするか否かで、お客さんを区別、差別、評価されることもありませんでした

私の最初のオーダーは、最も工作の少ない、つまり最も安いロードタイプでしたし、その時点では二台目以降を頼むなんて約束もありませんでしたが、普通に、丁寧に作って頂けました。
廣瀬さん、私のことを裕福では無さそうと思われたのか、このオーダーに使用するパーツのほとんどをヒロセ車の前に乗っていたロードからの移植で済ませて頂けたので、フレームとフォークの製作費とプラスアルファ。総額15万程度の出費で、私は一台目のヒロセ車を手にいれることが出来ました。

「どうやらあなたは、今乗っているカーボン製自転車と、僕の作るクロモリ車の『乗り味』の比較をしてみたいと思っているようだね。だったら、今乗っているカーボンのジオメトリでフレームとフォークを作るから、今使ってるパーツをそのまま移植して乗ってみたら? そうしたら違いが体感できるでしょ?」というのが、オーダー前、うじうじ逡巡していた私に対する廣瀬さんの口説き文句でした。

さらに、廣瀬さん、晩年においては、自転車経験でもお客さんを区別、差別、評価されませんでした

開店当初のような「まっとうなスポーツ車で、毎月数百キロ以上走り、鍛えていない客さんはお断り。」というお考えは無くなっていたのです。
もしずっとそういうお考えをお持ちのままだったら私なんぞは頼めていません。

前回言及したように、長いビルダー人生の過程で、廣瀬さん、スポーツ車だけで無く、どんな車種のオーダーも受け付けるように変わっていかれました。
いつしかママチャリを頼む近所の農家の奥さんに対しても、パリ〜ブレスト〜パリのブルベを走った人に対しても「同等のお客さん」として接するよう、変わってらっしゃった…。

当初は、国内で手に入る最高級のパーツやフレームを組み合わせ、自車経験が豊富で、体力に優れたお客さん相手にスポーツ車だけを提供されていたヒロセさん。
しかし、多様な人の多彩な自転車希望を実現する過程で、それまでのスポーツ車とは異なる車種の製作に対しても、新たな楽しさを見出されていったのでは無いでしょうか。

その人の出せる金額のリミットや、その人の自転車経験の無さや体力の無さというのは、作る側からすると、ある種の「制約」「限定」です。
持ち合わせが少ないから限られたパーツ選択しかできない。自転車操舵技術が未熟だから、その人の力量にあった安全マージンをとって設計しなくてはならない。
さまざまな「制約」や「限定」には、それらを勘案しての自転車の製作、提供が求められるが、それはそれでやりがいを感じられる仕事なのだ、と。

過酷なブルベを完走する為の車体や、ロードレースで勝つ為の自転車作りもチャレンジですが、足が不自由な方や、高齢で筋力の無い方々が安全に、楽しく乗れる自転車作りもまたチャレンジである…。そして、後者の製作経験が、前者の製作における新たな視座を発見させてくれるなど、好影響を与えてくれることだってある…。

「制約」や「限定」があった方がチャレンジのしがいがあるし、発想も広がる。
これはありとあらゆる「創作」において共通することなのかもしれないね、と私個人は思っています(もっとも私の場合、こんな前向きな気持ちになれるのは、チャレンジするエネルギーがある時だけですが…。エネルギーが無い時の「制約」は行動をしない言い訳に転化されておしまいだったりします)。

キャンバスの大きさを指定され、飾る場所の光量が限定された中での絵画提供。楽器の数が制約された中での編曲。電源、音量が限られた中でのイベント。調味料や火力が限定された中での料理提供。
しかし、その中で最大限の効果を発揮し、受け手の満足、評価を得られてこそ、優れた表現者、職人である…。
また、「制約」「限定」があるからこそ独創的な作品になったり、ひらめきが降りてくる場合もある…。

これは何も創作活動に限りませんよね。勉強やお仕事だって同じ。「制約」「限定」を前向きに捉えられるか否かで生産性や意欲や幸福感は変わってくるものでしょう(だからこそ、エネルギーが枯渇してしまわないよう、頑張り過ぎてしまわないよう、自分を客観的に引いて見る視座と、日々の健康維持が大切だというのが賢人たちの古来から変わらぬ教えなのだと、愚鈍な私にも、この歳になって、ようやく理解できるようになりました)。

さらに、さらに、廣瀬さん、オーダーした台数でお客さんを区別、差別、評価されるということもありませんでした

二台目を頼む人とは必然的に親密になっていることが多かったですが、五台も七台も頼む人も、二台だけ頼んだ人も、「世界に一台の、その人のためだけの自転車を作る共犯者」として、同じように接しておられたように思います。

また、一台だけ頼んだ人に対しても、まだ頼んではいないけど心からヒロセ車を欲しがっていると見受けられる人々に対しても、あるいは単にヒロセ車に興味を示して下さっただけの方々に対しても、二台以上作っている常連さんに対するのと何ら変わらず、誠実に接してらっしゃっいました。
自己満足の為なのか、廣瀬さんに自らの蘊蓄をひけらかしたり、自転車に纏わる知識を競おうとしたり、さまざまな言質を取ろうと不毛で稚拙な議論をふっかけて来るような輩は兎も角…。

実際、私は、展示会やお店において「初対面にも関わらず、廣瀬さんが親身になって会話をしてくれたことに感激した。」という証言を、SNSを通じ、いくつも得ていますし、誰に対してもフラットに、公平に接していた廣瀬さんだったからこそ、アルバイト代を握りしめて来店する高校生から、展示会に訪れた自民党の重鎮さんまで、廣瀬さんの前では等しく、瞳の中にキラキラした星を浮かべていたのだと思います。

下の二枚は「ハンドメイドバイシクル展」で(自転車活用推進議員連盟と日本サイクリング協会の会長を務められていた)自民党の谷垣禎一氏と談笑される廣瀬さんの写真です。

工房の自在万力の上の壁に飾ってあった写真
奥様の携帯カメラによる撮影

廣瀬さん、特定の宗教や民族や政治に肩入れすることはありあませんでしたが、先方から、先方の属する集団と反対の立場の集団とも廣瀬さんが平等に付き合っていることを理由に、関係を断れれたことはあったそうです。

誰に対しても等しく接するというのは、相手側に過剰な思い入れ等があってしまうと、上手く行かないこともあるものなのですね。



ヒロセのお客さんの職業

上記のように、廣瀬さんは、どんなお客さんに対しても、実にフラットに、公平に接してらっしゃった…。

だからでしょうか? 冒頭記したように、廣瀬さんのお客さんに特定の傾向は無く、バラバラ。
実にさまざまな職業、立場の方がいらっしゃいました。

もっとも、何人かでお店にたむろしていても、いわゆる名刺交換的挨拶を交わすような雰囲気は全く無かったので、お互いに正式な職業や肩書きを存じ上げない場合がほとんどでした。
廣瀬さんも他のお客さんの職業や肩書きについてほとんど言及されなかった…。

今、手元にあるヒロセ車たちの写真を眺めてみて、パッと顔が思い浮かぶ方々のお仕事を、交わした会話や、廣瀬さんの言葉尻等から推察してみると、

老舗百貨店をきちんと勤め上げられた方。大手ゼネコンの監督さん。成年後継人さん。大学の先生。「編集・デザイン・印刷・製本・製函と本をつくるための工程を原則ひとりでしています。」な方。鰻屋さん。植木職人さん。イラストレーターさん。さまざまな製品マニュアルの作家さん。お百姓さん。「町の音楽家・ギタリスト」さん。関西の銀行のお偉いさん。内装屋さん。他にも、電気技師、精神科医、エンジニア、高校教師、公務員、税理士 etc.

実にバラバラです。

むりやり特徴付けをするとすれば、一匹狼的な方が多かったと言えるかもしれません。一人きりで来店される方が多かった…。
中には友人の紹介というパターンもあったのでしょうが、比率としては少なかったように思います。

もっとも、一匹狼と書くと無頼な感じがしてしまいますかね…。そうでは無く、「内向的な、自己探求型の方」と言い換えた方が実態に近い気もいたします。
あくまで私観ですが「自転車に関する悩みを抱え、あちこち訪ね歩いたが、納得できる場所が見つからず、困った挙句、小平を訪れた個人」が多かったように思います。


「趣味」としての自転車

昔のヒロセのお客さんの中には、実業団のロードレーサーだったり、トライアスロンの選手等もいらっしゃったそうですが、私が知る2010年以降のヒロセさんのお客さんには、自転車レースを職業とされている方はいらっしゃいませんでした。
ヒロセは競輪に携わってはいなかったですし、プロのロードレーサーという方もいらっしゃらなかった。
このあたりは、ブランド展開する前のデ・ローザさんやコルナゴさんとは異なりますよね。

ですから「ヒロセのお客さんにとっての自転車とは?」を大括りにして言えば、「趣味」というのが一番ぴったりくるのではないでしょうか。

走りにこだわるのも、パーツにこだわるのも、「乗り味」にこだわるのも、デザインやオリジナリティーにこだわるのも等しく趣味といえば趣味なわけですからね。

リハビリ用に乗られていたり、通勤通学の足として使っている人もいらっしゃいましたが、まあ大体の場合においては、さまざまな趣味性に対する対応力の高さが評価されてのヒロセの選択、注文だったように私は思います。

「趣味」を辞書で引くと、以下のような説明が出てきます。

 専門としてではなく,楽しみにすること。余技。ホビー。
 物のもつ味わい・おもむき。情趣。
 物の美しさ・おもしろみを鑑賞しうる能力。好み。感覚。センス。

自転車は「どういう自転車を選ぶか」「どういった乗り方をするか」等にその人の個性が現れる道具でもあると思います。
つまり、自転車は、自己表現や、ファッション的な側面もある、と。

楽器やカメラや文房具や調理器具なんかにもそういう側面がありますよね。

ヒロセにおけるオーダーメイドの約束事は、「フレームとフォークはクロモリで作るものに限る」「安全に乗れるものに限る」「その人にとって良く走るものを目指す」といった程度で、あとはモノスゴク自由でした。

だから、オーナーさんが廣瀬さんを説得さえ出来れば、上の条件の範囲の中で、オリジナリティーのある自転車作り、つまりは自己表現ができました。

雑誌などの影響なのか、ヒロセは「ビンテージ風自転車」「クラシックな佇まいの自転車」に特化したお店と思われがちだったようです。その手のマニア向けの店である、と。
確かに、そういうテイストの自転車製作も得意とされていたことは間違い無いでしょうし、ビンテージ好きのお客さんに対してはお愛想で話を合わせたりすることもありましたが、廣瀬さんとしては、それ専門という意識は毛頭ありませんでした。

実際、廣瀬さんがご自身や、ご家族用に作る自転車のパーツには、その時代手に入る最も新しいパーツ、それも最高級品では無い物が使われていましたし。

2014年撮影の「廣瀬家の自転車」

廣瀬さん、そのお客さんがビンテージテイスト好きなら、フレームをホリゾンタルにしたり、ビンテージパーツを機能するよう手を入れて使うなど、その要望に寄り添い、電動変速機など新しもの好きな人なら、その人の希望に応える設計をされていた…。
他には無い設計、デザインのものが欲しいという人が来れば、上の約束事の範囲内で、それをなんとか実現しようともされていた…。

つまり、廣瀬さんは、まだ世界に存在しない、お客さんの理想の自転車を、お客さんと一緒になって創出することに喜びを見出されていたのだと私自身は考えています。

そのためには、オーダー主の趣味や、何をカッコイイと感じるかという「主観」「個性」を理解する必要がある。そして、それには、それなりの情報交換や時間が必要です。

同じ音楽聴いたり、絵を見ても、その反応、呼び起こされる感情や感覚は個々人の脳で異なる。自転車の趣味性も同じこと。全く同じ自転車でも人によって感じる「乗り味」や快感は異なる。
だからこそ、前回記したように、オーダーする側とされる側が長い時間、雑談等を通して互いの「自転車感」を交換し、相互理解をする必要があった…。
また、オーダー時に来てくる私服の選択や、乗ってくるクルマ。さらには、会話に出てくる好きな音楽や映画や本などにその人の「個性」、センスは現れるので、そこも見られていた…。

ヒロセのオーダーメイド車、特に二台目以降は、「良く走る自転車」であると同時に、「廣瀬さんがオーダー主の感性を具現化した作品」でもあった、と私自身は捉えています。

実際、お客さんと、そのオーダー車両方知っている私がヒロセ車を並べた「Photo Gallery 」ページを改めて眺めてみると、質実剛健な人のヒロセ車は実に逞しい装いですし、おしゃれな方のヒロセ車はとてもスタイリッシュな立ち姿。さらには生真面目な性格、哲学的な思考の人といったオーナーさんの内面までが表出してしまっているようにさえ見えてきます。


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オーナーさんの個性が具現化したヒロセ車たち


前回、ヒロセでのオーダーは一台目と二台目には差異があるというお話をさせて頂きました。

晩年のヒロセにおいて、一台目のオーダーは、さまざまな制約から、お客さんを最低限満足させる自転車作り。
でも二台目以降のオーダーは、お客さんと廣瀬さん自らが、100%満足できるための自転車作り。二人が同じ目線になり、共犯関係となり、作り上げる他では実現できない唯一無二の自転車。

一台しか頼まない方と、何台も頼まれる方で、応対に差別や区別はされていなかった廣瀬さん。
でも、ヒロセならではの特色や個性があらわれた自転車となると、やはり同じオーナーさんの二台目以降のオーダー車が多かったように思います。

オーナーさんは、二台目の注文過程で、言葉だけで無く、次の完成イメージを絵を描いて見せたり、走行会で最新の自分の走りを廣瀬さんに見せたり、作ってもらった一台目のヒロセ車に自分で手をいれてみたり等、さまざまな方法で二台目への自らの希望を表現されます。
廣瀬さんも、それらからオーナーさんの真意を読み取ろうとする…。

以下「オーナーさん自らが、自分という最重要パーツ」についてきちんと廣瀬さんに表現し、廣瀬さんにそれを理解してもらった人々が、どんな「お宝」を手に入れることができたのかを、限られた範囲ではありますが、個別具体的にご紹介していきます。

もっとも、下記はオーナーさん各々方に詳しくインタビューをして書いたものではありません。
また、廣瀬さんも、個人情報をべらべらと私に話すような人ではありませんでした(だからこそ信頼されていたわけですしね)。

ですから以下の内容は、あくまで私が、はたから見ていての考察、感想を記したものに過ぎません。
オーナーさんご自身の認識に関して等、間違っている点があるやもしれないことを、予めご了承ください(ご本人様から訂正希望があれば喜んで直させて頂きますので、どうぞご遠慮無く、お申し出下さいませ)。


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1 「K氏の場合」

K氏は「最も古くからの僕のお客さん」と、廣瀬さんから伺いました。

まだ、廣瀬さんが、吉祥寺のお店にいたころからのお客さんで、独立した当初は、お店が休みの日に、有吉氏らと連んで私的サイクリングを楽しまれていた、とても近しいお客さんだそうです。

資料を紐解くと、K氏は、一番コース設定が厳しかった、初期の走行会にも参加されていたようです。
下は、1977年に行われた「軽井沢から東京までのタイムトライアル」の資料。

還暦を過ぎても精力的に世界中のブルベに参加されていたK氏は、私が存じ上げるヒロセのお客さんの中で、もっともアスリート的な乗り手でした。

K氏は、レクリエーション的な集いとなっていた晩年の走行会にも参加されていました。2015年の走行会では、私もご一緒させて頂いたのですが、へたれの私にはまったく太刀打ちできないその健脚ぶりに驚かされたものです。

坂道で私の真後ろにつかれ、しばし追走されてきたのですが、しばらくした後、涼しい顔で「いや〜、プレッシャーをかけるつもりなんて無いんだよ。ちょうど良いペースメーカーっぽかったからさ。」と曰われて、颯爽と追い抜かれてらっしゃいました。私は脚が残っておらず置いてけぼり。

K氏の実年齢は存じ上げませんが、廣瀬さんより5歳若いと仮定して、2015年当時、すでに68歳。私より20歳近くも年上だったんですよね…。

K氏は廣瀬さんがお亡くなりになるまでお客さんであり続け、その客歴は裕に半世紀以上ということになります。

横浜の方に住まわれていたK氏ですが、月に一回程度の頻度で、サイクリングがてら小平のヒロセに来られていたように記憶しています。
毎回、天気の話といった軽い雑談を廣瀬さんと交わすだけで帰られるのですが、帰り際が最も大切なコミュニケーションの場となっていたようにお見受けしました。

廣瀬さん、K氏が帰り支度を始めると、仕事の手を休め、お見送りの為に工房の外に出て、K氏のオーダー車の疲れ具体をチェック。そして去っていくK氏の後ろ姿を鋭い目つきで見守りつつ「今日は体調が悪そうだったね。右の肩が左の肩に比べて低くなってる。」などとつぶやかれていたのです。

上の写真は廣瀬さんのパソコンに残っていた、K氏が「パリ〜ブレスト〜パリ」に参加された時の記録写真。
「当クラブ」とはヒロセの走行会「V.C.H.K」のことを指していると思われます。

K氏といえば「赤いスポルティーフ」というのが私の印象でした。
ある程度の荷物が括り付けられる700Cの車体。フロントバッグと電池式ライトが設置出来るフロントキャリアと、大きめのサドルバッグというのがお決まりの構成。

K氏のスポルティーフ

私は、K氏がオーダーする場面に立ち合わせて頂いたことがありますが、その空気感にビビりました。
と言うのも、あまりにあっさりとした、拍子抜けする注文風景だったのです。

定食屋に来た常連さんが、お店の人に「いつものやつね。」とだけ言って広げた新聞紙に目を落とす感じ。
「えっ? スポルティーフをオーダーするのにそれだけ?」と吃驚したのですね。

以前、クロモリ車は、ある程度乗っていると、パイプのバネ感が徐々に失われてくるというお話をさせて頂きました。
数千キロという説を聞いたことがありますが、どんな路面をどれくらいの体重の人がどれくらいの速度で乗るかにもよるので一概には言えないのでしょう。

K氏は「乗り味」に敏感な方。つまり「違いがわかる」乗り手だったようで、フレームがくたびれてくると、つまり「疲労限度」がくる都度、ヒロセで新車を発注されていたようです。そして、使い古しをご子息様や知人にお譲りになられていた(「疲労限度」についての詳しいお話は、第12回において、Kさんのエピソード共に記していますので、ご参照下さい)。

新車をオーダーするにあたり、変速機やライトといったパーツについては、K氏から廣瀬さんに「最近出たこれはどう?」などと、質問されることもありましたが、ことフレームのサイズ、ジオメトリ等に関しては、ほぼお任せでした。

ここで重要なのは、「お任せ」であり「前と同じ」では無いという点です。

シェフはその日の湿度や温度、頼んだ人の顔色を伺って料理の選択や味付けを変えることがあると言います。
客の言葉としては「いつものやつ」でも、出される料理の味付けが全く同じとは限らない。
「いつもと同じ」に感じられるよう、塩加減や量を塩梅するので、科学分析をしたら塩分の濃度は違っているかもしれない。しかし客は「同じ」と受け止め美味しく頂く。

これと同じことが、オーダー車で行われていたようなのです。

「前と同じ乗り味」を提供するには、乗り手の変化を勘案し、作らなくてはなりません。
若いK氏が練習を重ね、脚力が上がってきたら、それに対応して車体の剛性をあげてあげる。逆に、歳をとり、体力や動体視力が落ちてきたら、それに応対した設計をしてあげる。
毎回全く同じ剛性や設計のものを提供し続けていたら、K氏は同じ「乗り味」に感じられなかったり、満足を得られなかったかもしれません。

私が2017年頃に廣瀬さんが新たに作ったK氏の電動変速のスポルティーフと、その前に乗られていたスポルティーフとの違いで理解できたのは、歳と共に前傾がキツくなることを勘案し、ハンドルの位置を少し高くしてもステムの剛性が落ちないジオメトリに(つまり気づかないほどの前上がり)にしたくらいでしたが、各所のロウ付け量の塩梅など、様々なところで、K氏の前回のオーダー車とは差異が設けられていたのだと思います。


***


K氏の新車と旧車との違いは、身体の変化に対応した味付けの違いだけではありません。
廣瀬さん、毎回、その前の自転車より、より高い精度の自転車を作ろうと意識し、その為の努力をされていました。

「自分が進歩していないで、毎回まったく同じレベルのものしか提供できないでいたら、いずれお客さんから飽きられてしまうと思うんだよね。特に、ちゃんと乗っている人なら、そのお客さんの脚(舌)もだんだん肥えてくるからね。お客さんの成長に負けないよう、作り手も成長しないといけないと思うんだよ。」

一つ、具体例をご紹介します。ヒロセさんの自転車製作の肝となる正立型治具改良のお話です(K氏のオーダーの為だけになされた改造ではありませんが、常に「昨日より良い自転車を作らないといけない」と考えていた廣瀬さんを表すエピソードの一つです)。

正立型治具の大まかな説明はこのシリーズの8回、9回あたりをご覧下さい。また、治具の細かな構造などは、いずれ記せれば良いとは思っています。
ここではこの改造のきっかけとそのポイントだけ。

実は、改造のきっかけは、この私でした。
病気が発覚した廣瀬さんを手伝うことになった私は、ロウ付けや、切削の最終仕上げ以外のことに関してはそれなりに作業を担当させて頂いていました。
ご病気が進行し、身体を動かすのがキツくなっていた廣瀬さんは、私が作業している間、椅子に座って、私がヘマをしでかさないか、怪我をしないか、見守って下さっていました。

製作中のフレームを治具に設置したり、外したりする工程も私が行なっていたのですが、廣瀬さん、ある日、正立型治具にフレームのBB部分を固定する私の様子を見て、あることに気づきます。
固定する際はボルトで締め付けるのですが、その時、ほんの僅かですが、治具が歪むことに気が付かれたのです。

廣瀬さん、それまでずっと疑問に思っていることがありました。

どんなに応力を残さないよう、気をつけて「後ろ三角」を「仮付け」しても(鉄が冷める過程で特定方向に曲がらないようロウ付けしても)、エンド部分が何十分の1ミリ程度、特定方向にズレがち…。そして、その理由がわからない…。

バラバラの方向にズレるのあれば、治具の精度が甘かったり、ご自身のロウ付けの順番や技術が間違っていると考えられるのですが、毎回まったく同じ方向に、同じだけズレる…。

「本付け」前に「仮付け」したエンド位置を補正する廣瀬さん

もちろん、この「『仮付け』時の僅かなズレ」は、「『本付け』前の芯出し工程」で、応力が残らない方法で修正され、毎度、きちんと芯が出た、精度の高いフレームが出来上がっていたので、問題が無いと言えば無いのですが、ずっと喉に刺さった棘のように気になっていたことだったのです。

以下、それまでの正立型治具の問題点と、改良の工程を、記録写真を通し、ご紹介します。

改造前の様子 1

正立型治具のBBをつかむ部分は、てっぺんと前後の面がない、「コの字」のような形をしています。
それまでは、側面に切られた溝にBBの軸を落とし、ボルトを締めることで固定する様式でした。
しかし、このボルトを締める時、この「コの字」が僅かに歪むのですね。

この、治具の「コの字」の部分は、廣瀬さんがヤゲン台(Vブロック)の真ん中を切り取って整形したものです。
厚みのある材質なのでとても丈夫そうに見えますが、真ん中の部分が無いと、思いの外、特定方向からの応力に弱く、ボルトを締める力程度でも歪んでしまっていたのですね。逆にいうとボルトを締め込む力というはそれだけ大きなもの、とも言えます。

ちなみに、ヤゲン台(Vブロック)というのは、「円形工作物のケガキ用、測定治具用、同筒型の製品の精密検査の保持台として使用する」道具だそうで、もともとは下の写真のような形状をしています。

ヤゲン台(Vブロック)

廣瀬さん、この真ん中部分を切り取って、「コの字」形に整形して正立型治具の一部として使用したのですが、切り取った中部分も有効活用されていました。

少し手を加え、フレームのブリッジ部分にネジ穴をロウ付けする際の治具として使われていたのです。

既存の道具や工具を改造し、他の用途に使うと言う工夫は、ヒロセの工房のあちらこちらで見られました。

私の作業を見守ることで、「コの字」の歪みに気付いた廣瀬さん。それまでの固定方式には欠点があったと認識され、固定の方法を変えることにしました。

改造前の様子 2

側面方向からボルトを締め込むのでは無く、BBの軸を真上から押し、軸を「コの字」の溝の底に押し付けることで固定する方法に変えたのです。

改造の設計図
改造後
BB部分が二つあるのはタンデム対応の治具だから

この改造の効果はありました。
以後、エンドが特定方向にズレる癖は出無くなったのです。

治具を改造してから最初のフレームの芯出しの後、廣瀬さん、感慨深げな表情で、治具の「コの字」部分を眺めながら「こんなに厚みのある素材だから変形しないだろうという思い込みがあったんだね。思い込み、決めつけは良く無いね。」と仰っていました。

ちなみに、この改造を行った後も、BB部分を「コの字」の溝に落とし、最初に固定するのはサイドのボルト締めで行います。
というのも、治具の「芯」にBBの「中心」が来るようにしなければなりませんからね。

「コの字」が歪まない強さで締め、位置合わせをし、その後、新しく設置したボルトを締め込みきっちり固定する…。
これは「治具の癖」と言えます。この癖を知らない人がこの治具を使うと、サイドのボルトを締め込み過ぎる可能性があります。
治具の構造、その意味をきちんと理解していないと、治具を使いこなすことは出来ない…。

同じ治具を使ったからといって、廣瀬さんと同じように「良く走る自転車」が作れるとは限らないという理由の一つです。


***


K氏のお話に戻ります。

私はK氏に自転車の楽しみ方を一つ教わっています。

K氏が時折小平に寄られていたのには、廣瀬さんと会う以外に、もう一つ理由がありました。小平の近くに、お好きなコースがあったのです。
それは、村山貯水池の周りにある、舗装されていない道でした。

「ひどい凸凹道で、砂利や泥や水たまりが交互に出てきたりするんだけど、そこを運転技術でねじ伏せて走るのがたまらなく楽しいんだよ。」少年のように晴々とした、嬉しそうな顔で曰うK氏のこんな内容の言葉に刺激を受け、それまで私が「食わず嫌い」ならぬ「走らず嫌い」だった砂利道やダートをヒロセロードで走ったところ、これがなんとも楽しかったのです。

芯がしっかり出ているヒロセ車で、舗装路の長い下りをスキーのスラロームのような感覚で降りていくのも楽しいものですが、気の抜けない非舗装路を走破するのも、また別の快感があるものなのだ、ということをK氏の言葉と、その表情から教えて頂いたのですね。

「走らず嫌い」という言葉は正確では無いかもしれません。
スポーツ自転車を乗り初めの頃、縦剛性のやたら高いカーボンフォークとアルミ製フレームのロードで砂利道に突っ込んだところ、ポコポコ跳ねるは、ハンドルはとられるはで散々な思いをした記憶があったのですね。それでロードで非舗装路走るのを毛嫌いするように。
でも、ヒロセのクロモリロードで荒れた路面を走ってみると楽しい。
おそらく、私自身のスキルもそれなりに上がっていたからこその「楽しさ」発見だったとは思いますが、車体の振動吸収性能の差もあるのだと思います。

考えてみれば、昔は舗装されていない道ばかりでした。クロモリの自転車は、その環境で揉まれていた…。アルミやカーボンが主流になった昨今は、舗装道路が前提の自転車設計なのかもしれませんね。

K氏のオーダー車の話に戻りましょう。

上の方に載せた赤いスポルティーフはカンパのレバーでした。
下に載せたのはK氏にしては珍しいロード。こちらのレバーはシマノのようです。

ペダルの修理で持ち込まれた時の撮影(2018年3月)

K氏、パーツの組み合わせとか、コーディネートとかにおけるブランドの統一とかには無頓着で、純粋に、個々の部品の使い勝手の良さ等を追求され、選ばれていたように思われます。

変速機本体の性能はある年代のシマノの方が好きだけど、レバーを握った感触や操作感はある年代のカンパの方が好き、といった感じで。

ブランドが混在したコンポの組み合わせでも「廣瀬さんという優れた専従メカニック」により適切なチューニングがなされるので、問題無かったのですね。

シチュエーションによって変えられていたのか、はたまた、常日頃からブルベに備えてあれこれテストされていたのか、良く見ると各車クランクやペダルなんかもバラバラです。

2018年2月 電動変速機用に設計されたK氏のスポルティーフ 写真ではわかりづらいですがライトの台座が沢山設けられています

K氏はヒロセ以外の自転車。アルミやカーボン性の自転車も乗ってらっしゃいました。私が出入りするようになってから数年、お店の天井には、パーツを修理中か何かのK氏のカーボンロード(LOOK社製)がずっと吊り下げられたままになっていました。
「ヒロセ車があるのに何故?」と私が尋ねると「アルミにはアルミの。カーボンにはカーボンの良さがあるからね。」と、教えて下さったものです。

廣瀬さん、そんなK氏を横目に、アルミやカーボンといった新素材に負けない為には、どのような自転車を作っていったら良いか…。心の奥底で考え抜かれていたことでしょう。

K氏は、自転車にまつわることに関しては、お世辞やおべっかを言わない人でした。チネリやコルナゴといったメーカーが日本に入ってくると同時にそれらを購入しては試し、ヒロセ車も初期の初期から乗り倒されて来た方です。
自転車については自分の経験、感覚に自信をもたれ、また、厳しい評価も忌憚なく口にされる方でした。

K氏は若い廣瀬さんの後ろについて走ったこともある数少ないお客さんであり、走り手としての廣瀬さんを大変尊敬されていたそうです(若い頃の廣瀬さんの走りっぷりについても第13回にてご紹介しています)。
ビルダーとしてだけ見ていた他のお客さんとは異なる目線をお持ちだったのですね。
そして、吉祥寺のお店を追い出された経緯や、独立してからの苦労をずっと見守られてきたお客さんでした。

お二人の歴史を知らず、はたから見ているだけだと、単なる「古くからのお馴染みさん」といったゆるい空気があるだけのように思ってしまいがちですが、こと自転車に関しては、私の目にはけっこうな緊張感を持ったコンビにうつっていました。

K氏が、しつこく、何回も何回も同じ車種のオーダーを重ね続けられたのは、単なる惰性や馴れ合いでは無く、廣瀬さんの成長を信じ、あるいは促し、さらには、定期的にお金を落とすことで、ヒロセのお店を存続させたいという気持ちの表れでもあったのでは無かろうか? 
そして、ここぞというブルベにはヒロセ車で挑んでいたK氏の姿勢を鑑みるに、心からヒロセ車の安全性、耐久性、「乗り味」等を高く評価されていたのだね、とも感じるのでした。

2015年の展示会でヒロセ車を覗き込む若者を見守る廣瀬さん(手前左)とK氏(手前右)


最も長い時間、廣瀬さんのお客さんだった「K氏の場合」をご紹介させて頂きました。
お次は最も沢山の数、車種を注文したと思われる「M氏の場合」です。



2 「M氏の場合」

乗り潰す毎にオーダーを繰り返されていたK氏は半世紀に及ぶヒロセの歴史の中で、かなりの台数をオーダーされたと思われますが、これからご紹介するM氏のオーダー数もトップクラスだったのでは無いでしょうか。

K氏がもっぱらスポルティーフばかりをオーダーされ続けたのとは対照的に、M氏はミニベロ、MTB、レーサー、ランドナー、スポルティーフ、買い物車などなど、ありとあらゆる車種をオーダーされたお客さんでした。

大学に勤める研究者だったM氏。自転車という乗り物に対する探究心も実に旺盛。
ありとあらゆる車種を自ら試してみたい。さらには、巷にはまだ存在しない設計の自転車をヒロセで作って試してみたい。そんな欲望に忠実であられたのだと思います。

K氏がレストランで「いつものやつ」と頼む食通の常連さんであるとすると、M氏は、「この前、新たな調理法を知ったんだけど、それ、試しに作ってみてくれる?」といった類の食通。

毎回同じ料理を注文するK氏。脳内には、美味しかった(良く走った)前回の記憶がある。それを上回らないといけない。故に簡単な注文ではありませんでしたが、M氏の要求もまた難しいものです。
「老舗のうなぎ」と同じ満足感の「フレンチのコース」や「ハンバーガー」を出して欲しいと言われているような感じ。
でも、廣瀬さんというシェフは、こういうチャレンジが大好きでした。

研究者だったM氏は、自転車に対する広い好奇心を有するだけでなく、「乗り味」などの言語化が可能なオーナーさんでした。さらに健脚でもあられた。
「お客さんを使い、自転車を探究したいヒロセさん」との相性はぴったりだったのでは無いでしょうか。
それが故の長年にわたる幾多のオーダーだったと私は捉えています。

以下、M氏のオーダー車のうち、私が興味深かった何台かご紹介します。
これで全てでは無く、所有するヒロセ車のごく一部であるのが、なんとも恐ろしいところです。
とは言え、M氏は、自らがいかにヒロセで散財して来たかをご遺族に恩着せがましく言い募り、うんざりさせるようなことはありませんでしたし、所有台数を他のお客さんたちに自慢するようなこともありませんでした。
ひたすら純粋に、ヒロセでの自転車ライフを楽しんでいるのが伝わって来るお人柄でした。

筆者的に、以下のヒロセ車の紹介を通して読者の皆様に想像して頂きたいのは、各車のオーダー時の様子です。

廣瀬さんは、合理性や意味が無い工作、自転車は、作ろうとはされませんでした。オーダーする側が、どれだけ懇願しても、お金を積んでも、納得出来ない作業はされなかった…。
裏返せば、実際に作られた自転車は全て、納得して上で作られたといいうことになります。
実存するヒロセ車は全て、オーナーさんが廣瀬さんを口説くことに成功した結果のものということになる…。

廣瀬さんからお客さんに、「次はこういう自転車を作ろう!」なんてことは言いません。
オーダーの端緒は常に「こんな自転車があったらいいな。欲しいな。」というオーナーさんの空想であり願望です。
オーナーさんは、なぜそれが欲しいかをプレゼンする。希望の工作があるなら、それはどういう狙いかを廣瀬さんに伝え、作ってもらえるよう口説くわけです。

M氏がどんな理屈や論理立てで廣瀬さんを説得し、以下の自転車を手に入れられたか? それを想像しながら見ていただければ、と存じます。
中には普通の工房では断られてしまうような仕様のものもありそうですよ。

なお、ご紹介する順番に意味はありません。オーダーされた年月順でもありません。


***


A 泥除け付きダブルコグ車

最初にご紹介するM氏のオーダー車は、ダブルコグ車です。ダブルコグなのに泥除けやチェーンガードなんかが存在するというところに目が行きがちですが、リアエンドの切れ込みが地面と並行では無く、角度がついている点が味噌。そこが、この車体の重要な工夫箇所なんです。

この工作アイデアついての詳しい説明を廣瀬さんご自身がされている動画がありますので、ぜひご覧頂ければと存じます。

(字幕)廣瀬さんとの雑談05「泥除け付きダブルコグ」/Chat with HIROSE 06"About Single-speed bicycles with Mudguard"

https://.be/B7jypq1iyps

B 坂上り専用車

2013年 撮影

二台目にご紹介するのは、長い長いリアステーが特徴の一台です。
こちらについても、長いステーの意味と効果を、廣瀬さんご自身が動画で語っておられますので、そちらをご覧下さい。

(字幕)廣瀬さんとの雑談09「山下り専用車と坂登り専用車」/Chat with HIROSE 09 "Two bicycles ordered to enjoy the mountains."

https://youtu.be/97oewOwKiko

C ボトルケージが4つあるミニベロ

2011年 撮影

こちらのミニベロにはボトルケージが四つもあります。左シートステーにはポンプ用の台座まで。
さらにライト台座兼用のフロントキャリアとリアキャリア。荷物がたっぷり積める設計です。

また、長いホイールベースや、チェーンステー下に設置された効きの良いブレーキ等、「良く走る」為の工夫もしっかり施されています。

2011年 撮影

私は、初めて参加したヒロセの走行会で、このミノベロに乗るM氏の後ろを、作って頂いたばかりの700Cのヒロセロードでついて行こうと思い、走り出したのですが、最初の長い坂道で、あっという間に置いて行かれてしまいました。その後ろ姿が今だに脳裏に焼き付いている…。そうした個人的体験もあり、ご紹介させて頂きました。

2011年 撮影

D 現代的解釈のランドナー

2009年 撮影

「現代的解釈のランドナー」というのは、私の定義ではありません。廣瀬さんから伝えられた呼び名をそのまま記しています。ですから「現代的解釈」という言葉の選択理由までは解りません。

26X1.5のホイールサイズ。デュラエースのクランクにXTRのリアコンポとVブレーキ。さらには、沢山の非ダイナモライトたちとトップチューブの小型ポンプ用台座などの組み合わせが現代的なのか、はたまたフレームとキャリアとヒロセ製手組みホイールによる剛性感、「乗り味」が現代的なのか…。

2009年 撮影

ある時、ヒロセ車でブルベに参加されたM氏は、その直後、興味深い体験を廣瀬さんに報告されています。

疲労困憊で、もうこれ以上走れないと思った時、自転車が「大丈夫。まだいけるよ。」と背中を押して来たと言うのです。
私の記憶違いで無ければ、このオーダー車がそのエピソードの一台だったと思われます。

これと似たような感想をおっしゃるオーナーさんは複数いらしゃったそうです。
ブルベだけでなく、きつい山登り、はてしない距離の旅行中、ヒロセ車に背中を押された、語りかけられた、と証言する方を私自身、M氏意外にお二人存じ上げています。

ちなみに、M氏、700Cのブルベ車もオーダーされており、下がその一台です。

2010年 撮影

E kawasakiグリーンのレーサー

2012年 撮影

ケーブル類がオール内蔵だったり、シマノとカンパが混在しているとか、興味深い点が多々ある一台ですが、このオーダー車を取り上げたのは、これに対する廣瀬さんの評論が私の頭の中に残っているからです。

廣瀬さんこの一台に対し「調整中にちょこっと乗ってみたんだけど、恐ろしく良く走るんだよ。我ながら吃驚するくらいにね。」とおっしゃっていました。

廣瀬さんが作るものは、どれも一定の基準を満たしているとは思いますが、それでも、作り手に計算、予期しきれない領域というものはあるのだね、とオーダーの深さ、難しさが垣間見える言葉であり、記憶に残っているのです。
よくよく考えれば、パイプやパーツだって年代やロット毎に違いはあるかもしれませんものね。古いものなら尚更。

もう一台、「恐ろしく良く走った」と廣瀬さんが教えてくださった一台があります。それは、まだ自らがフレームとフォークを作るようになる前に組んだK氏のロード。確かフレームとフォークはチネリ製だったと記憶しています。
組んだ時、魔法のように良く走ったけど、その魔法は一回バラして組み直したら消えてしまった、とも仰っていました。
乗り手が「乗り味」に対して、恐ろしく鋭い舌をお持ちだったからこその感想かもしれませんが、なんとも興味深い証言だね、と記憶に残っています。

F 9段変速のプルプルリア変速機のランドナー

2020年1月 撮影

ヒロセで作られた最も多段なオリジナル変速機が設置された一台です。
前が三段変速。後ろが九段。どちらもプルプル方式で、おそらく世界で最も多段なプルプル変速機の組み合わせだと思われます。

2020年1月 撮影

この一台が印象に残っているのは、単に多段というだけでなく、私がヒロセさんでお手伝いさせて頂いた最後の一台だったからです。

一番苦労したのが、リア変速機上部のプーリーケージの内側のガイド
プレートの形状でした。
下は、リア変速機を裏から撮影したカット。ガイドプレートの形状の特殊さが良くわかります。後ろ半分の径が前半分より大きいのですね。

2020年1月 撮影

スムーズな変速には、チェーンを外側に押す、このガイドプレート部分の径が大きい方が都合が良い…。

2019年12月 撮影

しかし、この一台、リアスプロケットの歯数が多く、前のギアの段差も大きい為、前後の組み合わせによっては、ガイドプレートがリアスプロケットと干渉してしまいます。

そこで、干渉せず、なおかつ変速性能が最も良くなるよう、ガイドプレートの形状を工夫しているのです。

2019年12月 撮影

スタンドに自転車を設置し、クランクを回し、変速させては、ガイドプレートのどこを削り、どこを径が大きいまま残すかを探りました。
廣瀬さんが自転車を操作し、私はプガイドレートがスプロケと接触した位置をマジックインキで塗っては、いちいちプレートを外し、少しずつ削ったのでした。ジャストで削るとチェーンが暴れた時に触ったり、音がしていけません。どれだけマージンを作るか、苦心しました。

ガイドプレートは、ネジで外せる構造。ですから、スプロケを変えたり、前のギアの歯数を変えた時も、それに適したプレートを作り、差しかえることが可能です。また、万が一摩耗してしまっても交換が可能。

このタイプの元祖となった古い変速機のプーリーケージの中には、ネジどめでは無く、折り曲げることにより立体整形したものがあり(下の写真参照)、これでは摩耗した箇所だけを作り変えたり、交換することは難しい…。ネジどめは安易に見えて、実用的なアイデアなんですね。
この辺りの工夫、廣瀬さんは、かなり早い段階でなされていました。

このガイドプレート工作が施された変速機はこの一台だけです。
このオーダー車のギア選択。つまり前三段の歯数差と、後ろのスプロケットの歯数ゆえ、必要とされた工作でした。

2019年12月 撮影

私は、ヒロセ車が完成する都度、「その一台の製作過程を記録した写真」で構成した動画を作って公開していたのですが、この一台の動画はありません。
私がお手伝いを辞めた2020年の3月時点では、まだ完成していなかったからです。

一番上の「横打ち写真」は2020年1月の撮影。まだバッグに合わせて作られるはずのリアキャリアの姿がありませんし、バッグとキャリアを繋ぐアダプターもありません。

結局、廣瀬さんから「完成したから撮影に来て。」という連絡は無く、私はこの一台の動画は作れませんでした。
同じように動画を作れずに終わった車体が他にも数台ありました。


***


以上、ごく一部ですが、M氏のオーダー車をご紹介させて頂きました。

K氏同様、M氏も他の工房、メーカー製自転車も多数お持ちでした。その上で、ヒロセでの自転車探求を楽しまれていた…。
走行会には必ず参加され、その都度、自分の走りを廣瀬さんにチェックしてもらっては、アドバイスを求められてらっしゃいました。

さて、ここで「M氏の場合」の冒頭の問いに戻ります。

学者さんらしく、自転車にまつわる様々な情報を受け取るたび、試してみたい、身をもって体験してみたい、と知的好奇心を刺激され、さらに「こんな自転車があったらどうだろう?」と様々な構想を夢想されていたM氏。
はたして「どんな理屈や論理立てで廣瀬さんを口説かれたのか?」。どのようにして、まだ世界に存在しない、自分の頭に浮かんだだけの自転車のアイデアを具現化するまで至ったか?

M氏、自分好みのパーツが使えないかお伺いを立てるようなことはあったようですが、決してジオメトリ図を提示するようなことはされませんでした。

ここからはあくまでも私の想像ですが、M氏は、門外漢の設計には一切口を出さず「雨の日でもダブルコグ車でトレーニングしたいな。」「あの厳しい坂をガンガン登りたいな。」「ミニベロでも遠出をしたいな。」といった願望、シチュエーションを伝えることで、廣瀬さんを刺激し、その目的に相応しい自転車の構想、設計を、上手く引き出されていたのではないでしょうか?
立場をわきまえ、設計については廣瀬さんに全面的にお任せだったからこそ築け、続いた関係性だったように私は感じます。
また、時には「こんな難しい工作、できやしないですよね?」と廣瀬さんの職人魂を挑発されるような台詞を言われることもあったかもしれません。

いずれにせよ、M氏は、廣瀬さんとの「まだ世界に無い、唯一無二の自転車」製作を、他所では得られないプライスレスな、豊かな体験として、心から楽しまれておられたようでした。

個人の空想(アイデア、思いつき)を、お客さんの言いなりに形にするだけなら、それなりの技術がある職人さんなら可能なのかもしれません。
各サイズを指定したり、パーツを揃えて持ち込んだりすれば、夕方のテレビの「街ぶら」に登場する「街の発明家」的な人にだって出来ないことは無いかもしれない。

でも、自らクロモリ製自転車を乗り倒し、一流のクロモリフレームとパーツを組み立て、整備した経験を持ち、乗るオーナーさんの脚力や「体癖」、自転車経験や感性を分析、理解する知見を有し、適切な剛性設計や安全設計が出来、それを作る自転車に落とし込むことが可能な切削加工、ロウ付け技術を持ったビルダーさんは、世界中見渡しても、それほど多くは無いのでは無いでしょうか?

さらに、どれだけオーナーさんがお金を積んで希望しても、その構造や設計では安全性や性能に問題がある場合は受け付けないという信念と知見と哲学を有した人も。
M氏は、廣瀬さんの、誠実で真摯な職人気質を信頼されていた。
「この人に作ってもらえれば、必ず、自分の空想が、良く走る、きちんと意味のある自転車として具現化するだろう。」と。

空想と言う単語を採用するとM氏に怒られてしまいそうですが、私としては褒め言葉のつもりです。
「文明の発展にはアンナコトイイナ、デキタライイナ的な空想や妄想が欠かせ無い。」というのは、このシリーズの第24回でも記した私の認識です。

お二人の作り上げたオーダー車たちは「応力や剛性や安全に対する物理的な、経験則的な知見の無い人の素直な空想、欲望が、卓越した技術者の知見、スキルと連動することで、優れた道具に昇華する」優れたサンプルだったのでは無いか…。私個人は、かように、お二人の関係性、作品を、興味深く、拝見しておりました。

2015年5月の走行会でのK氏(左)とM氏(右)


次回に続きます。

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廣瀬秀敬自転車資料館
YouTube動画も含めた私のヒロセへの取材とアウトプットに対し、ご評価を頂ければとても有り難いです。どうぞ、よろしくお願い致します。(廣瀬秀敬自転車資料館 制作者)