見出し画像

「オーダー車だから良く走る自転車とは限らないんだよ。」というお話(13)

廣瀬さんのパイプ(フォーク用ブレード、チューブ、ステー)に対する評価基準4項目を順次ご紹介しています。評価基準は以下の通り。

1 パイプの精度が高いこと
2 熱を入れてもパイプの硬度が変化しないこと
3 完成後、芯が狂い辛いこと
4 信頼する乗り手の評判が良いこと

1から3まではパイプの物理的特徴に関してでしたが、今回からご紹介する4項目目は人間の主観が物差しです。

物の良し悪し、好き嫌いを個人が判断する場合、そこには何かしらの基準が存在してしまいます。その基準はそれまでの経験、体験によって形成されるものが殆ど。つまり過去との比較、対照において判断は為されるわけです。食べ物、音楽、衣服、何でもそうでしょう。

自転車のパイプの場合は、それまでに乗った自転車の「乗り味」との比較において、良し悪し、好き嫌いは判断されます。
選手や雑誌がどう言ったかは参考にはなりますが、その方々と自分の体格、乗り方、楽しみ方が同じとは限りません。結局は自分が乗ってどう感じるか。それに尽きるのではないでしょうか。
もっとも、ちょこっと平坦な近所を走ったくらいでは「乗り味」を判断出来ないのが自転車の難しい所です。山道を何十キロと走った末に、初めて味わえる感覚もあるからです。
自転車のパイプを比較する為の「舌」を肥やすには、長い時間と、けっこうな投資が必要にならざるを得ません。

そこで、パイプの評価基準4項目目「信頼する乗り手の評判が良いこと」は、廣瀬さんご自身の自転車歴の紹介から始めたいと思います。

廣瀬さんがお客さんの「乗り味」の感想から何をどう学んで、それをどう製作に反映させていたかの前に、まずは廣瀬さんがどのような「乗り手」であり、どの様に自転車と向き合って来たかを知って頂く必要があるからと感じたからです。
廣瀬さんご自身が廣瀬さんの信頼する乗り手の一番手でしょうし、かつ、廣瀬さんの自転車体験は廣瀬さんが他の人の言葉を理解し、判断する際の物差しでもありますからね。


*******


パイプのこと 4 「評価基準について 3」

4 信頼する乗り手の評判が良いこと

2018年の夏頃だったでしょうか。この年の「ハンドメイドバイシクル展」が特集された雑誌を片手に、ヒロセで何台もオーダーされている常連さんが工房に遊びに来られました。
彼は雑誌を広げ、様々な展示車を指差しながら私に語り始めます。細かな表現は忘れましたが、内容は以下のようなことだったかと思います。

「ビルダーになるなら、まずは、いろんな自転車を、いろんな装備で、いろんな道を、とことん走らないとね。ビルダーが選手並に速く走れる必要なんて無いと思うけど、走りが与えてくれる多様な楽しさ、喜び、そして怖さを知らないといけない。良く走る楽しい自転車とそうでは無い自転車、両方を知って、どこがどう違うのかを頭で、理屈で理解出来てなきゃいけない。それが無い人が作る自転車は、デザインの奇抜さ、カッコ良さ、パーツの豪華さといった『見た目』に走りがちだよね。でもそれは芸術家が工芸品、美術品を作る時の動機だよ。目で見て愛でるという偏った楽しさしか提供出来ない。『見た目』優先の設計は安全性や耐久性にも疑問が残る。そう思わないかい?」

彼は病気の廣瀬さんを手伝っていた私がビルダーを目指しているのでは無いかと勘違いされ、アドバイスの意味を込め、いろいろ仰って下さっていたのだと思います。

側で作業中だった廣瀬さんは、手を休めることなく、黙って彼の意見に耳を傾けてらっしゃいました。

***

廣瀬さんは姫路の呉服屋の長男だった廣瀬秀雄氏の長男として1942年に生まれます。お父様の職業は天文学者。天文写真で小惑星・彗星の観測をし、軌道計算を行っていました。お父様にちなみ、ヒロセと命名された小惑星まであるんだそうです。1963年から1969年までは、東京天文台長を務められました(サイクルストア・ヒロセの創業は1970年)。

お父様の勤務先、東京天文台は三鷹にありました。もともとは麻布にあったそうですが、都心が明るくなりすぎ、1924年、三鷹に移ったのだそうです。
やがて三鷹も明るくなりすぎ、1962年、観測施設は秩父に移ります。
もっとも天文台長としての仕事のため、お父様の生活は三鷹が中心で、ご家族もそのまま三鷹の官舎で暮らしていました(秩父の施設は現在の「ときがわ町星と緑の創造センター」)。

画像1

画像2

(雑誌「子供の科学 1959年4月号」より)

***

三鷹の天文台は、かつて高射砲があった高台にあり、すぐ下が調布飛行場。周辺には湧水があり、夏にはホタルが沢山みられたそうです。

天文台にあった実用車が廣瀬さんにとって初めての自転車体験だったと思われます。7歳年下の弟さんと写った写真が残っています。

画像3

廣瀬少年は不器用が故に、慎重でした。自転車を始めるにあたり、まずは乗り降りの練習だけを繰り返しします。乗っては降りをひたすら繰り返し、怖さがなくなってから、ようやくブレーキを緩め前に進んでみる。曲がる練習は真っ直ぐ走れるようになってから。まずは左に曲がる練習だけ。満足に曲がれるようになってから初めて右に曲がる練習を開始する。

廣瀬さん、何を習得するのにも人の何倍もの時間がかかったそうです。しかし不器用だったからこそ「なぜ出来ないのか? どの動作が悪いのだろう?」と道理を考え、仮説をたて、そのひとつひとつを身体に反映させ、試すことが出来た。自らを客観的に、複眼的に見ることが出来た。そのようにして体得したスキルはなかなか忘れないものです。

廣瀬さん、15歳の時、自分専用の自転車を親からプレゼントされます。山口自転車のツアー号。高価だった変速機は買ってもらえず、ギアは固定で、前が48、後ろが16だったそうです。でも、そもそも専用自転車だって当時の中学生にはべらぼうに高価で贅沢な代物。クラスに自分だけの自転車を持っている子なんて廣瀬さん以外にはいなかったそうです。

画像4

小学校、中学校と、廣瀬少年には友達がいませんでした。一人だけ坊主では無い髪型の男の子。農家の子が多いクラスで一人だけ偉い学者の子。浮いた存在だったのです。あだ名は博士ならぬバカセ。
しかし仲間外れにされ、虐められても、家に引き篭ったりはしなかった。好奇心は人一倍旺盛。乗り物や構造物が好きで、飛行機を眺めたり、バスに乗っては運転手のシフトチェンジを観察したり、工事現場で作業を眺めたり。
天文台には巨大な望遠鏡や高級カメラがあり、そのメカニズムも興味の対象でした。そんな廣瀬少年にとって行動範囲を広げ、一人でも自由を感じられる自転車はおあつらえむきのプレゼントでした。

高校は都立の大森高校に進みます。天文台の官舎から最寄りの駅までは3.5kmもあり、歩くと40分ほどかかります。廣瀬青年は家から高校まで自転車通学することにしました。三鷹から高校まで、片道25kmもありました。

一日中、ひたすら計算をしているお父様の後ろ姿を見て育った影響でしょうか。廣瀬青年、ただ通うのではなく、毎日タイムを計りながら、乗っていたそうです。当時、信号は第二京浜の一箇所だけ。そこがチェックポイントだったそうです。
ツアー号に変速機を付けたのはこの頃だったでしょうか。あまりに楽しくて、気がつくと日は暮れ、知らない街まで走っていたそうです。

やがて、かなり遠回りとなる、鶴見から溝ノ口を経由してまで、坂道を試して学校から帰ったりするように。ディスクブレーキ、サスペンションは勿論、オフロード専用タイヤなんてものもありません。あらゆる路面、コースをツアー号1台で走っていました。

画像5

(1960年8月の写真)

2019年頃、塗装用のフレームをカドワキコーティングに運んだ帰り、高校時代の廣瀬さんの通学路をなぞって走ったことがあります。廣瀬さん、すっかり変わった風景を助手席から眺めながら「二子玉川の橋で大井町線と競争したっけ。」などと懐かしそうに語って下さいました。


***

高校ではサイクリング 同好会に参加するなど、少し社交的に。当時の寄稿文が残っています。

画像6

画像7

(雑誌「サイクル 1959年10月号」より)

弟さんとラジコンにはまったのはこの頃でしょうか。電気工作に興味を持ち、自転車用に自作のウィンカーを作ったりしたこともあるとか。ダイナモなどの電飾工作の下地はこのころ培われたのですね。

廣瀬家がタンデムを所有したのもこのころだと思われます。後ろの座席でラジコン飛行機を抱えた弟さんと布田まで走っては、多摩川の葦原で飛ばしていたそうです。

画像8

弟さんはとても器用な方で、何事も見様見真似で、あっという間に習得されてしまわれたそうです。兄貴とは正反対。
ラジコン操縦もすぐに兄貴より上手に。物事の道理、理屈を理解することに長けていた兄は、風向きや残りの燃料などを勘案し、どう操縦するべきか、もっぱらあれこれ指示する役割だったとか。兄が頭、弟が手となって1台のラジコン飛行機を飛ばしていたのですね。後にラリーで運転手とナビゲーターをするわけですが、この頃から良いコンビだった訳です。

***

廣瀬青年、17歳になると、吉祥寺の東京サイクリング センター(1955年創業)でアルバイトを始めます。ここで鳥山新一氏や、後に盟友となる2歳年上の有吉一泰氏と出会います。同い年の沼勉氏(光風自転車〜宮田工業〜ジャイアント等)もこのお店に出入りされていました。

高校三年生の時、自分用の自転車としては2台目となるアルプスのクラブマンエースを購入。選べるのは色や一部パーツだけだったようですが、一応、廣瀬さんにとって初めてのオーダーメイド車となったようです。

高校最後の春休みはこの自転車で、九州を800km以上一人きりで走破。手放しで砂利道を走っても平気なほど「人馬一体」を感じられる、とても良い自転車だったそうですが、5万キロ走ったところで壊れてしまったそうです。

画像9

画像10

大学に入り、吉祥寺の東京サイクリングセンターで働き、創業するまでの廣瀬さんは、ひらすら仲間たちと自転車を乗り倒す日々を送ります。
この期間の様々なエピソードは、また機会があれば詳しく記したいと思っていますが、今回は、廣瀬さんの自転車歴だけ簡単にご紹介します。

クラブマンエースを乗り潰した次は、東叡製のゴールデンゼファーでした。2台目のオーダー車です。変速機はシクロランドナーでした。
東京サイクリングセンターが大量に仕入れてしまい、どう設置して良いやら扱いに困っていた物を押し付けられたのだとか。でも、自分で仕組みを解析し、きちんと調整したらとても良い変速機ということがわかり、創業後の変速機製作へと繋がっていきます。

画像11

3台目はロードレーサーをオーダーしたそうです。「レーサーの走りが凄いって言うから、本に出てくるジオメトリでオーダーしたんだけど、僕には全く合わなかったよ。だからサイクリング にはもっぱら2台目のゼファーで行ってた。でも、みんなのレーサーにスピードで負けなかったよ。」

以降、一年に1台のペースで次から次へとオーダー車を注文されたそうです。自分で作るようになるまでに廣瀬さんがオーダーした自転車は合計で10台。中にはタンデムもありました。

この頃までは、どちらかと言うと自分自身の為の自転車探究だったのではないでしょうか。まずは自分が自転車を楽しみたい。その為により深く自転車を知りたい。人と一緒に走ったり、人の自転車を修理する時も、そういう視座から見ていた…。

画像12

こうして培った廣瀬さんの知識は、鳥山新一氏が廣瀬さんの考察や理論をそのまま講演や取材等で引用するほどのレベルにまで到達していました。

興味深いエピソードがあります。廣瀬さん、何台目かのランドナーを東叡でオーダーをされたのですが、その際、芯の出し方や、作り方に細かく注文を付けて作らせたのです。前のオーダーで駄目だったと思われる所を指摘し、改めさせたのですね。
まだ自分では一台も作ったことが無いのにも関わらず、老舗で働くビルダーに要求するだけの知識、説得力を獲得していたのです。

***

1970年に創業してからは、どうやったら自分以外の人の為に良い自転車が作れるかに探究の方向が変わったように思われます。有吉氏と走行会を始めた理由もここにあるのではないでしょうか。

走行会では、お客さんに過酷な道のりのタイムトライアルを走ってもらい、写真とフィルムにその様子を記録しました。
参加者の競争相手は過去の自分のタイム。自転車の変化(ジオメトリやパーツの変化)や自分の変化(筋肉量の変化や漕ぎ方の変化)で、どうタイムや疲労が変わるかという探究。

写真とフィルムの撮影を担当されていた有吉氏は整体術に対する造詣が深く、撮った映像を見ては、乗り手の「体癖」や、身体のバランスが崩れいること等を分析、指摘。廣瀬さんにも見方を教えていたそうです。有吉氏は大学で心理学を専攻。廣瀬さんにとって心強い味方だったことでしょう。

撮影毎にフィルムを買い現像することで、ようやく定着した画像が見られる時代。かなりの出費でしたが、参加者で分担したそうです。参加者もこの走行会の意味、価値を認めてらっしゃったのですね。

スクリーンショット 2021-05-11 11.17.13


フィルム、写真だけで無く、走行会に参加して下さったお客さんたちの言葉や表情も自転車探究に役立ったと言います。

お客さんには自分とは異なる感覚、認識の人がいる。自分とは異なる言葉で「乗り味」を表現する人がいる。自分とは違う趣味、嗜好の人がいる。様々な発見や「学び」がありました。

こうした発見や「学び」が可能だった背景には、廣瀬さんの、それまでの人生経験もあったように思われます。友達がいなかった頃の図書館通いと、授業をさぼって見まくった映画です。

孤独だった廣瀬少年、小中と、一般の図書館に行っては、片っ端から本を読みあさっていたそうです。「なぜ同級生は自分を仲間外れにするのだろう?」 時には大人向けの心理学の専門書にまで手を伸ばしていたとか。映画は高校、大学時代に見まくりました。
そうして培われたのが「他人の立場になって考えられる能力」。これがあったからこそ、お客さんの言葉や表情から様々なことを読み取り、自分とは異なる視座から「学ぶ」ことが出来たのですね。
「独りよがりな意見をお客さんに押し付けない」という、廣瀬さんが指摘するところの、ビルダーとしての、大切な資質の一つが獲得できた…。

***

高校時代にアルバイトをし、大学卒業後に働いていた東京サイクリングセンターは「日本でたった1社 サイクリング 専門店」を謳(うた)っていたました。取り扱う自転車はオリジナルブランドのゼファーを始め、高価なものが多かった。
昭和40年代初頭のゼファーのカタログには「フレームの設計は鳥山研究所 フレーム製造は東叡社で、現在日本で求められる最高の車です」という文面が見られます。
扱っていたパーツもカンパニョーロ、ユーレー、サンプレックス、TAといった高価な舶来品が目白押し。廣瀬さんは、それらの組み上げや整備、修理を通して当時の一級品に触れ、探究することが出来ました。

画像14

小平に自らのお店を開いた後も、フレームとフォークを作り始めるまでは、チネリ等、当時最先端のフォークとフレームを取り扱っていました。当然、それらも探究の対象でした。中には日本に輸入されたコルナゴ第1号もあったとか。この頃お客さんが乗り潰したフレームの一部が以前ご紹介したカットモデルの中にあります。

定期的に続けられた過酷な走行会は、機材の優劣を知る絶好の機会。ロードレーサー用のタイムトライアルとは別に、旅行車用のTTもわざわざ砂利道を混ぜたコースを設定して開催。フレームとフォーク、さらにはキャリア、泥除け、タイヤ等の性能テストの場として廣瀬さんの探究に活かされました。

***

創業してから8年目の1977年。満をじして、フォークとフレーム作りが開始される訳ですが、慎重な廣瀬さん、まずは身内向けの自転車作りから入ります。

画像15

ヒロセ1号車は息子さんの自転車でした。そして、廣瀬さん曰く、ちっとも良く走らなかったそうです。
製作方法の見直しを余儀なくされます。なんせライバルはチネリやコルナゴです。それらに負けないフォークとフレームにするため、歯を食いしばり、懸命に努力されたのでしょう。

1978年の4月、2号車が完成します。今度は奥様用。

画像16

7月には3号車が完成。既に1台目の欠点は修正されていたと言います。
2、3号車のフレームは2010年のハンドメイドバイシクル展で展示されました。

画像17

上の写真はヒロセ6号車。今も初代オーナーのUさんがパーツを換え換え、大切に乗られています。
Uさんは高校一年生の時、サイクリング 部に入部。先輩たちに促され、東京サイクリングセンターでゼファーを購入します。部活の帰りにセンターに寄っては、廣瀬さんと自転車談議をされていたそうです。
就職して間も無い1978年頃、廣瀬さんの方から「ビルダーをはじめるからオーダーしてくれないか?」と頼まれ注文したのがこの6号車。ビルダーとしては何の実績も無い廣瀬さん、自らオーダーをお願いするほど必死だったのですね。

お店はアクセスの悪い郊外にあり、競輪とは距離を置いていたため、そっち方面のコネもありません。しばらくの間は、キャリア製作や家族の援助で食いつなぐ状態。
自転車ビルダーとして経済的に成り立つ様になったのは、ずいぶん時がたってからだと言います。

スクリーンショット 2021-05-20 9.27.12

(字幕)廣瀬さんとの雑談10「昔のキャリア広告を眺めながら」https://youtu.be/7enRDik12O8

***

まずはロウ付け箇所が少ない、シンプルな自転車作りから着手し、徐々に直付け台座や泥除け加工など、工作が多い旅行車やタンデムの製作へ。着実にビルダーとしての守備範囲を広げ、やがてステム、バッグアダプター、変速機までをも作る唯一無二のビルダーに。

自転車の乗り方を覚えるのと同じように、一歩一歩着実に歩みを進めてきた50年でした。

画像18

画像19

***

廣瀬さんがどのように自転車に乗られて来たか。探究されて来たか。その一端をご理解頂けたのではないかと思います。

「ビルダーになるなら、まずは、いろんな自転車を、いろんな装備で、いろんな道を、とことん走らないとね。」「良く走る楽しい自転車とそうでは無い自転車、両方を知って、どこがどう違うのかを頭で、理屈で理解出来てなきゃ。」冒頭でご紹介したお客さんの言葉です。

廣瀬さん、このお客さんが帰られた後「ただ長い距離や沢山の台数乗れば良いってもんでも無いよね。」と笑いながら仰っていました。
どうすればもっと早く走れるか。どうしたらもっと楽に、疲れず走れるか。どうしたらもっと事故なく安全に走れるか。自分の探究目標を定め、それに向かってきちんと悩み、考えながら乗らなくては意味がないよね、と。
単純に「量は質に転化」するわけでは無いのだよ、と。

「疑問を持たない人には理解も成長も無い。」
折りに触れ、廣瀬さんが仰っていた言葉です。有吉さんとお二人で作られていた雑誌ニューサイクリング用のヒロセ広告にも、これがテーマのものが幾つか見られます。

画像20

もっとも乗り手側からすれば、それが人から見てどんなにダメな自転車であろうと、自分が楽しく乗れれば、それはそれで十分に幸せなことです。必ずしも疑問なんて持たなくたって良いし、理屈を知らなくたって構わない。
無茶苦茶な設計で、ちっとも良く走らない自転車だとしても、それに乗って悦に入れるならば、それもまた楽しい自転車ライフ。事故で自分や人を傷付けない限りは。

ただ、廣瀬さんは「今より良く走ること」に関して興味を持ち、悩んでいるお客さんが好きでした。そういう人と話し、共に考え、悩みを解決する…。
解決法はちょっとした乗り方のアドバイスのこともあれば、新たなパーツや自転車製作の場合も。
悩みが解決し、喜ぶお客さんの顔を見るのが嬉しかったのと同時に、自らの探究が深まるのが楽しかった。私個人はそんな風に理解しています。

廣瀬さんがお客さんの疑問にどう向き合い、自らの糧としていったか。それがパイプの選択にどのように関係していたか。次回に続きます。

*******


上記の公開後、ヒロセの常連さんで、私が廣瀬さんと出会うかなり前から廣瀬さんと昵懇の仲だったOさんから「ヒロセさん、お父さんとタンデムで走ることが多かったと言ってました。お父さんも自転車好きな方だった様です。」との書き込みをSNSに頂きました。

書き込みを拝見し、いくつか思い出したエピソードがあり、中にはパイプ選択に関係するものもあったので、「廣瀬さんのお父様と自転車の話」と題し、以下、追加で記したいと思います。

***

(追記)廣瀬さんのお父様と自転車の話

廣瀬さんがお父様と二人で漕いでいたタンデムは、上の方でご紹介した白黒写真のタンデムだと思われます。廣瀬さんが高校生の時、お父様が家族用にと購入した一台。
当時、タンデムは珍しく、お店の方も値付けをどうして良いやらわからず「自転車二台分と考えて9000円ね。」と、なんともアバウトな価格設定をされたとか。当時の大卒公務員の初任給が1万円程でした。

まだまだ車や信号の数が少なかった東京。中でもGHQが整備した道は綺麗で、わかりやすい番号案内が付けられており、タンデムでも、とても走りやすかったそうです。勿論まだまだ砂利道も多かったのですが、ホイールベースが長いタンデムは、ソロより直進安定性が高く、悪路の影響を受けにくい。理にかなった乗り物だったのですね。
お二人で三鷹から千葉の指宿まで走ったこともあったとか。海岸で海人さんを見てドギマギした経験を教えて下さいました。

廣瀬さんがお父様と一緒に走ったのはタンデムが初めてではありませんでした。中学の時はしょっちゅう実用車を「二人乗り」していたそうです。廣瀬少年、後ろの荷台に座ることもあったそうですが、登り坂に差し掛かると必ず前で漕がされたとか。お父様は自転車で走ること自体はお好きでしたが、肺が弱く、痩せており、筋力もありませんでした。
常にたんたんと、マイペースで走られていたそうで、お父様の自転車はチェーンもブレーキシューもやたら長持ちだったとか。

お父様は自転車での塚巡りが御趣味だったそうです。60歳を過ぎても東叡社製のスポーツ自転車であちこち出かけては、写真を撮り、現像し、スクラップブックに貼り付け、記録を作られていたそうです。

廣瀬さん、お父様が自転車をオーダーするのを手伝ったことがあったそうです。「家に引っ張り上げるのに重量の軽い自転車が欲しい。」と言われ、廣瀬さんがオーダー内容を決め、発注したのです。
選んだパイプは当時一番薄かった015。火を入れるとすぐ歪むので、可能な限り「バンド留め」にするようビルダーに指示したとか。でも、結局、すごく「乗り味」の悪い自転車に仕上がってしまったそうです。
お父様も、せっかくの息子のオーダーだったのに「こんな乗りにくい自転車は無い。」と仰って、殆ど乗ることは無かったそうです。
015というパイプはあまりに薄く、柔すぎて、体重が軽く、筋力の無い廣瀬さんのお父様用としても、実用に耐えうる素材では無かったのですね。

画像22

廣瀬さんがお父様の自転車を作ることは叶いませんでした。廣瀬さんが自転車を作るようになった頃、お父様は既に70歳手前。肺を患われており、72歳で他界されてしまいました。

秀雄氏は、一流の研究者らしく、世間体など気にしない、オープンな考えの持ち主で、息子さんには好きなことを自由にさせました。その結果、息子さんはお二人とも、好きな道で一流になられました。廣瀬さんの奥様、お子様からも慕われる、暖かく、大きな存在だったそうです。

***

廣瀬さんのお店には50年の歴史があります。私が直接存じ上げているのは最後の10年間だけ。ネットを通して廣瀬さんの様々な情報を頂けるのは実にありがたいことです。

画像23


YouTube動画も含めた私のヒロセへの取材とアウトプットに対し、ご評価を頂ければとても有り難いです。どうぞ、よろしくお願い致します。(廣瀬秀敬自転車資料館 制作者)