見出し画像

【神話】「太陽はきみを犠牲にしない」



階段をのぼるとき、3つの動物のなかから1つを選べといわれた。



*

道のりは長いから寂しくないように、という計らいらしかった。

「どれにする?」と老人が足元のゲージを指差した。ゲージは3つあった。

「このなかのどれかだ。うさぎ、コアラ、犬。1番人気はうさぎ。次が犬。コアラは日本人には馴染みが薄いせいか、ほとんど選ばれない。かわいそうなやつだ。はるばるオーストラリアから来たっていうのに」

僕はひと呼吸おいてから「コアラでお願いします」とこたえた。

老人ははじめて顔を上げた。おでこから唇にかけて酷い傷。先の大戦で負傷したのだろう。刀の傷だ。

僕の目をじっと見てから、ニコリともせずに、2番めのゲージを開けた。

灰色のふさふさした毛並みのコアラが──でも体毛は触れると想像と違って硬くて驚くのだが──僕の足元までひょこひょこ歩いてきて、そのまま背中に飛び乗った。

まだ赤ちゃんみたいで、小さくて軽い。すぐに寝息をたてた。揺すっても起きなかった。

「エサはいらない」と老人がいった。「どうせ、あんたも食べ物なんて、持ってないだろうから」

僕は、ありがとう、といって階段をのぼりはじめた。



寂しいどころか、すぐにいろんな人が話しかけてくれた。こんにちは、コアラなんて珍しいね。私達も上を目指してのぼってるんです。どんなところかワクワクするね。

「上には、なにがあるんですか?」と僕は品のよさそうな女性に聞いてみた。

紺色のワンピースを着て、肩にうさぎを乗せている。僕よりもずっと年上にみえた。階段の途中にはベンチがあって、休憩場所になっていた。女性は腰掛けて、花柄のハンカチで額の汗をぬぐいっていた。

「嘘と本当、どっちがいい?」と逆に聞かれた。

「本当がいいです。嘘には疲れちゃいました」と僕は正直にこたえた。

「では、本当の話。階段をのぼった先に、女の子がいるそうよ。ただの女の子じゃなくて、いろんな傷が治せるらしいの。身体の傷、心の傷、過去の傷、未来の傷も」

「神様か、なにかですか?」

「神様なんて存在すると思ってるの?」とまた逆に質問されたので、僕は黙った。神様がいないとしたら、この長い階段は、誰がつくったのだろうか。

女性は、先に行くね、と立ち上がる。かすかに甘い花の香り。2段のぼってから、ふりかえらずにつぶやいた。

「背中のコアラには気をつけて。裏切るかもしれないよ」



階段はどこまでも続いていた。東京タワーの高さも、スカイツリーの高さも超えた。雲が手に届きそうだ。

その頃になって、上から引き返してくる人も増えた。みんな疲れ切った表情だった。なかには泣いていたり、怒ったりしている人もいた。

「不公平だよ」と血気盛んな二十歳ぐらいの男がいった。「ヘリコプターで上がるやつがいるんだ。おれたちは、こんな苦労して1段1段のぼってるのに、ヘリコプターだよ? イヤになるよな。もうバカらしくて、おりることに決めたよ」

おい、みんなもおりようぜ、と男は周囲に向かって同意を促す。賛同して何人かは一緒におりていった。ひたすら階段だけが続いている。うんざりする気持ちも理解できた。

「あなたはおりないの?」と男の仲間らしい女がいった。

女も二十歳ぐらいで、髪の毛は七色だった。ピンク色のタンクトップから胸がはみ出している。顔を近づけてきて、僕の目をじっと覗きこむ。僕はドキドキする。地上だったら恋がはじまったかもしれない。

「もうちょっとだけ、のぼってみるよ。せっかくここまで来たし」

僕は不自然な笑顔をつくった。女の子の前では、昔から格好をつけてしまう。

「ふうん」と彼女は鼻でこたえた。

冷たい風がふいて、彼女の髪をすくいあげる。さあっと乱れて、虹のようにひろがり、彼女の顔をつつんだ。

去り際に彼女はいった。「あなたの背中のコアラ、そのうち重くなるよ。取り返しがつかないくらいに」



気温がどんどん下がる。たぶん富士山の高さだ。階段はまだ先が見えなかった。誰ともすれ違わないし、のぼってくる人もいなかった。はじめて、寂しい、と感じるようになった。

踊り場のベンチに座って、背中のコアラを揺すってみた。(そろそろ起きなよ)と呼びかける。

返事はなかった。風の音が強くて、寝息も聞こえなかった。

僕はしゃがんで、ベンチにコアラを押し付け、無理やり下ろそうとした。でもコアラは両手両足を僕の胴体にしっかりと絡めて、離れる気配は微塵もなかった。おもちゃ売り場の子供みたいに。

あきらめかけたとき、上から男たちの悲鳴がきこえた。

「すぐにおりろ! 階段が崩れる!」

文字どおり転がるようにして、数人の男たちがあっという間に下に消えていった。

しばらくベンチに腰掛けたまま、おそるおそる様子をうかがう。階段は静かにずっと上まで続いている。進むべきか、戻るべきか。

(いきなよ)と声がした。

僕以外には誰もいない。まぎれもなく、背中のコアラだった。(おりたって、いっしょだよ? いきなよ。僕がついてるから)



階段を1段1段のぼっていく。(ねえ)と僕は背中に話しかけた。(てっぺんにたどり着いて、女の子にあったら、どんな傷を治せばいいと思う?)

(痔でいいんじゃない)とコアラがそっけなくこたえた。

(こんなにつらい思いをして、痔か。まあ確かに、かゆくてたまらないんだよね。でも、ほかにいいアイディアはないかな)

(じゃあ、こういうのはどう?)

(なに?)

(神様が誕生した傷)



瞬間、足元の階段が崩れた。あっという間だった。僕らは空間に放り出される。でも身体は落下しなかった。ここはほとんど宇宙だった。視界は黒のグラデーション。遠くに地球が青い。

コアラがゆっくりと背中から離れていく。でもそれはコアラではなかった。コアラをプレゼントしてくれた、顔に傷のある老人だった。

『なにこれ!?』と僕は大声をだす。老人まで届いたかどうかはわからない。

「戦え! 神と!」老人は背中から剣を抜いて、僕に向かって投げた。

『意味がわからない!』

僕は条件反射的に、剣の柄をキャッチしていた。とても軽くて、刃の部分が七色に光っている。

太陽を背にして女の子があらわれた。おそらく、彼女がすべての傷を癒せる子。距離で10メートル。剣先を彼女に向けて、静止する。

女の子には顔がなかった。

いや、今まで出会った、あらゆる人の顔をしていた。幼稚園の先生、学校の友だち、職場の先輩、コンビニの店員、告白した子、ふられた子、つきあった子、声をかけた子、傷つけた子、傷つけられた子、すれ違ったネイビーのワンピースの女性、二十歳の男、二十歳の美少女、逃げる男、そして、顔に傷のある老人。

(楽しいほうがいいんじゃない?)と頭に声が響く。

彼女の顔が消える。巨大な太陽があらわれて視界をつぶす。すべてが白くなる。手探りで声だけを探す。

(頭で考えても、わからないでしょ? 感情だけで、楽しそうだな、と思うほうを選べばいい。意味なんて考えようとするから、愚かな存在になる)

だれかの両手が僕の身体をつつむ。強く抱きしめてくる。脇腹になにかが突き刺さる。鋭い痛み。長く、深く、激しい痛みだった。

(ずっといっしょにいてください)

戦え! という悲鳴が後ろから響く。僕は彼女を振り払おうとする。でも身体を動かす意思はもう残っていなかった。

戦え、という声も、次第にくぐもっていき、ついには聞こえなくなる。最初からなにもなかったように。最初からなにも存在しなかったように。

手から七色の剣が離れた。






さて、階段をのぼるなら、3つの動物から1つを選べ、と僕はいった。

目の透きとおった、優しそうな少年が立っている。

「3つの動物は、猫、リス、コアラだ」と僕はゲージを指差した。少年はコアラを選んだ。15年ぶりだ。

「上には、なにがあるんですか?」と少年がいった。

「嘘と本当、どっちがいい?」

「嘘がいいです。本当の話なんて、つらいだけだから」

「では、今から話す内容は、ぜんぶ嘘だよ」といって僕は話しはじめる。最初から。きみが目にした、この物語を。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?