寡頭制アプリが終了して思うこと

佐藤です。なんかタイトルが重たいですけど、いつもの「インターネットとの付き合い方」にまつわる記事です。

本当かうそか分からないが(これはつねに付きまとう前置きですね)ツイッター社で大量の解雇があったそうです。経営者が変わる前と、変わった後の社内の写真と称する画像をインターネットで見ました。これまた、本当の写真なのか、まったく関係ないけれど「ネタ」として面白いだけの、この期間の変化を雄弁に説明している(ように見える)まったく来歴の異なる画像なのか、それも分かりません。なんてこった。でもまあ、それは別にいいんですよ。本当でもウソでも、「これまで、ツイッターの仕様を決めてきたひとがその座を明け渡した」ぐらいは、恐らく本当らしいのではないか。いや知らんけど。
現状を一言で表すと、「ツイッター終了」らしいです。

少数の賢者(いけてる天才)が、どのような情報をユーザーに見せるのかを操作することによって、ユーザーのアプリの使用体験をもっとも良いものにする。使用体験とはつまり、アプリへのアクセスの頻度と滞在時間を増やし、サイフのひもの耐久力をけずる。どこにお金を使うとよいか(使うべきか)を先回りして、提案する。ここまでくると、もはや、「愚民を善導する指導者」なんですよね。
ツイッターの仕様は、寡頭政治が行きすぎて、ユーザーを馬鹿にしているレベルが高まったところに、今回の騒動が起きました。騒動を起こした投資家・経営者がどのような考えでこれをやったのか知りませんけど(少なくとも「お金を儲けるため」というのは分かりますが)、ぼくの関わりがある点に限っていえば、寡頭政治が腐敗し、その揺り戻しがあった、と見えます。あくまで観測者の個人的な感想です。

ぼくらが見せられている情報は、どこまで事前にセレクトされ、フィルターをかけられているのか。

この問いは、近年ならばインターネットにおいて顕著です。「デマ」「フェイクニュース」を論じることが流行ってます。
6年前はフェイスブックが、政治的信条をあやつって投票行動の変更を促す「広告」を打ったとして、批判されていました。ぼくはアメリカ大統領選挙の有権者ではないので、対岸の火事どころか、海の向こうのできごとなんですが。
デマの拡散、フェイクニュースの流布に加担したとして、以後は、そのような情報が流れないように!という指導?命令?が入ったらしく。しかし、アカウントの持ち主としての投稿に対して、あるいは広告主による入稿に対して、ファクトチェックをして、間違いがないようにしろ、不当な偏りを持たせるな、というのはムリな話です。

もともと、ユーザーのネットの閲覧履歴に基づいて、もっとも購買行動に繋がるような広告を効果的に打てるよ!科学の力ってすげえ!というのが、ネットの触れ込みだったんですよね。
じゃあ、その広告の真実性と倫理性、購買をしたあとに、損をした気持ちになったり不幸になったり、支払い能力を超えた負債を抱えさせた責任はどうするの??ってのは、後回しになっていたわけで。それが政治にスライドしたからといって、突然さわぐほうがイビツに見えます。

寡頭政治じゃないですよ。システムやアルゴリズムが、それこそ、まさに機械的に決めているのですよ、AIが決めているんですよ、という反論はありましょうが(というか、ぼくも一瞬だけ混乱したのですが)、システムを組み、アルゴリズムを決定しているのは、少数のスマートな設計者なので、やっぱり、寡頭政治と言ってよいかと。

話を転がしますけど(むしろこちらが本題だ、とも言える)、ぼくらが読んでいる漢文というのは、一部の知識人が運用していたもので、人口の上位1%ぐらいしか取り扱えなかった、というのを授業で聞きました。
漢文に限らず、識字率が高いという江戸時代末期だって、庶民はかな文字でエンタメを読んでいることを西洋人に記録され、驚かれたのであって(本当に驚かれたのかな?そういう文脈で喧伝されるけれど、当たってるのか?)、やはり学問は、上位の一部のものだったんですよね。
それを読むことに、どんな意味があるのか??どうせ、原形を留めないほどの「編集」が加えられてしまっているものを。

富の集中はダメだ、ということがやかましく言われ、経営者・投資家への風当たりが強まっており(本当にそうなのか?)、
「少数なスマートなエリートが社会をデザインする」というのは、いまは流行らない思想になりました。案の定、フェイスブックやツイッターで、「民衆反乱」がくり返し起き、逃走(アクティブ・ユーザーの減少)が相次いでいるわけですが、それじゃあ、逆方向にいけばいいんでしょうか。それも違和感があります。

学問のテーマを設定するとき、マクロよりミクロへ、エスタブリッシュメント(へんな言葉だな)から庶民の感覚へ、抽象から具体へ、全体から個別へ、雄弁な上級国民からもの言えぬ(言語運用能力を持ち合わせていない)派遣労働者へと、形而上から形而下へ、視点を下方に発散させる(膝をついて、ごみ拾いをする)とクールだ、みたいになっている風潮があると思うんです。でも、そんなの思考の放棄というか、対象の練り込みの中断に過ぎないのではないか。とりとめがなくてすみません。終わりです。

ちなみに、いま読んでいる本はこれです。本の内容を受けてこの記事を書いたわけではないですけど、読んでいて、よし書くか、となりました。

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