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時給3千円を超えたら、やりたいことがやれる

佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
三国志の研究を学んでいます。

先日、家事の代行サービスを使ったんですよ。これが、ものすごく満足度が高くて。業者によるのでしょうが、1時間あたり3000円も出せば、わりと頼めるところもあるようです。
仲介業者(運営スタッフの人件費、広告とマッチング、予約システムの提供・決済)などの報酬を含んでもこの値段ということは、実際に家事をやってくださるスタッフは、時給はどうなっているんだ?と、同じサービスのスタッフ募集の求人広告を見たら、1500円~のようです。

生きている限り、家事は不可避です。しかし、「ぼくの家事は、ものすごく付加価値が高い。家事をするほど、どんどん希望に近づく。貢献度と手応え、幸福感がハンパない」ということはありません。
もちろん、掃除は大切だし、こだわれば、楽しくなる余地があり、可能性のフィールドが広がっているのでしょう。でも、ぼくの場合は、やらなくて良いなら、やりたくないんですね。

1時間・1人のひとに家事をやって頂いて、3千円~って、破格だと思うんですよ。スタッフからみれば、時給1500円で(さえ)働くことが、いまの労働環境から見たら、「あり」で選択肢に入るってことですしね。

家事の話がしたいのではなく。

専門のスキルを持ったひとに、自分にはできない(もしくは、かなり・やりたくない)ことを手伝ってもらうとき、3000円を払えば請けて頂けることが多い、という相場観、金額基準をもつと、世界の見え方が変わります。

たとえば家庭教師は、大学生から見れば、「時給が高いバイト」のイメージがありますけど、ネットで調べたら、まだ時給3000円で頼めそう。受験生の両親が、同じ指導をするために準備をしようと思ったら、めちゃくちゃ大変というか、実質的にほぼ不可能ですよね。
高学歴の両親なら指導ができるかと思いきや、最新の受験事情(教科書の内容、出題の傾向)は分かりません。両親が30年ほど前に一流大学に合格していたとしても、使い物にならない知識です。むしろ、高学歴な両親が「受験勉強」をしなおすより、いまのお仕事をしたほうが、よほど効率よくリターンがありそうです。

以上を裏返しにすると、自分の時給が3000円を超えた時点から、この社会は、ものすごく「便利」になるってことだと思います。自分の1時間を、だれかと交換しても、お釣りがくるので。
「1時間あたり、御礼を3000円お支払いします」と言うことで、お願いできることの種類が増えます。すべてのことが、3000円で叶うとは言っていませんよ。断られることも多いし、値段交渉は都度やるしかない。でも、選択肢が増える、というのは大きくは間違っていないはず。

超ざっくり計算で、時給3000円は、年収600万円です。
「世界的に見れば貧しい水準だ」という言説は、無限にあると思いますけど、いまこの時点で、日本国内で完結するサービスを受けるならば、だれかが泣かずとも、取引が成立するレートではないか。

自分の時給が3000円を超えているならば、どんどん、家事なり料理なり、家庭教師なり、語学の訓練なり、「外注」することは、よい選択だと思うんですよね。「お金だけ貯め込んでいても、仕方がない」とは言わないが、ちょっと惜しい気もします。死蔵の類い。
頼めることが増える。ということは、自分がやりたいことが増えるということです。空き時間に別のことができる、という以外にも、教育を受けることによって自分が出来ることを増やす、という可能性も広がります。

新自由主義、市場の調整機能バンザイ、みたいに解釈されたら、それはちょっとぼくの意見と違うんですけど、取引のチャンスが広がっているならば、市場と貨幣の便利さを使うのは、アリなんだと思っています。お金は使われるものじゃなく、使うもの、のはずなので。

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