「グローバル・ヒストリー」のノリが苦手

佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
三国志の研究を学んでいます。
水島司『世界史リブレット127_グローバル・ヒストリー入門』を読んでいます。教科書を出している山川出版社より。

ひらたくいえば、これからの歴史研究は、「グローバル・ヒストリー」をやりましょう/やるべきだという本。

筆者がどういう考えなのか(どこまで強制したいと思っているのか)は分かりませんが、さすが教科書の出版社だけあって、「これからの歴史研究は、グローバル・ヒストリーであるべし」というプレッシャーを感じます。最新の歴史研究の潮流は、こうですからね。こう考えなければいけませんよ。このように考えるのが正しいですよと。さもなくば時代遅れで、リジェクトされますよと。その内容は、この記事の後半で引きます。

まだ本を読み始めたばかりで、著者がどのようなスタンスなのか分からないけれど、ぼくは、グローバル・ヒストリーも「一時代の産物」であり「時代の子」に過ぎない、という視点を失ってはいけないと思います。つまり、20世紀までの歴史学はダメで、グローバル・ヒストリーがイケてる学問なんだ、そこに可能性があるのだ、学問の道筋があるのだ、という態度には、けっこう懐疑的なんです。
なぜか。たいそうな理由はなくて、なんとなく「ノリ」切れない。中学校のクラスで、みんなで合唱コンクールの優勝を目指して、憑依されたみたいに一斉に呼吸し、歌声をそろえましょう、といわれても、気持ち悪さしか残らなかった。あんな感じ。
グローバル・ヒストリーがあまり「やりたいもの」に思えない。「読んでおもしろいもの」に感じない(ような気がする)。まったく受け付けないわけではないが、それほど時代にマッチしているような気がしないし、興味がある角度でもないな……と思ってしまいます。
グローバル・ヒストリーは、「学問潮流」とかそういう大それたものじゃなくて、これを支配しているのは、ノリなんですよ。ぼくの主観では。

あなたが19世紀や20世紀の歴史学(ないしは学問の視覚)を引きずっているだけだ、きみは前時代の遺物だね、という言われ方をするのかも知れませんが、そのように、新旧交代、新たなるものが旧きものを上書きしていくというノリを強制するなら、それって、あなたがたが批判している19世紀や20世紀のふるい歴史学と同じじゃないか。好きではないんですよね。
どうやら、2010年代、2020年代は、みんな、グローバル・ヒストリーという流行に乗りがち。そういう時代なんだな、しょうがないもんだな現代は。くらいにしか、思っておりません。そんな距離感で、グローバル・ヒストリーの概説書を読んでみようと思ってます。

グローバル・ヒストリーとは。従来の「世界史」と異なり、5つの特徴があるそうです。
第一に、あつかう時間が長い。考古学の範囲であった有史以前人類誕生はもとより、宇宙誕生までもが対象に含まれる。生物誕生、人類の進化も。数世紀にわたる巨視的な歴史動向に関心がある。
第二に、テーマや空間が広い。空間は、ユーラシア大陸やインド洋世界のように、陸域・海域全体の動きを問題とする。
第三に、ヨーロッパ世界の相対化、近代以降の歴史を相対化する。ヨーロッパ世界のシンプルな裏返しとしての「東アジアの奇跡」とも異なる。
第四に、地域比較に終わらず、諸地域間の相互連関、影響を重視する。
第五に、テーマや対象が広い。従来は、政治や戦争、経済活動、宗教、文化がおもなテーマであった。しかし疫病、環境、人口、生活水準など、われわれの日常に近いものを扱う。

いま、これを入力してても、「うわあ」「苦手だわ」という気持ちが強まるばかりです。キーボードを入力している、手が悲鳴をあげていました。こういうのがイケてる、というノリに、いまいち乗っかれません。

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