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おかあさんの空

8月6日は母の命日で、広島の平和記念日、つまり原爆が投下された日だ。
当時母はまだ10代前半で遠く離れた関東に住んでいたため、確かな情報もなかった。だが「広島に大きな爆弾が落とされたらしい」「煙突一本しか残らなかったらしい」「長崎でも何かが…」というような噂がさざなみのように伝わってきたそうだ。すでにその頃にはラジオも新聞も信憑性がなく、母はただ荒涼とした砂漠に一本立つ煙突を想像して戦慄した。

戦争が始まった頃は、シンガポール陥落!と意味もわからず提灯行列に参加したり、やたらと威勢が良かったようだ。それが「玉砕」という言葉が聞かれるようになり、いくら飾り立てたとて、それが恐ろしい意味であることは当時の母にも理解できた。沖縄に米軍が上陸し、後から知ると地獄としか言えない状況だったのに内地の人間はほとんど何も知らなかった。ただ食料や物資は少なくなり、学校ではなく軍事工場に通うようになった。

そんなある日、母がリヤカーに弟二人をのせて歩いていると背後からつんざくような爆音が響き、急降下してきた米軍機からの機銃掃射を受けた。あわてて側溝に転がり込み無事ではあったが「パイロットが笑っていた気がする」と母は何回も言っていた。顔が見えるほどの低空飛行だったのか、それとも恐怖に刷り込まれたイメージだったのか。

その事件の後、母は何百機もの戦闘機が上空を通過するのを目撃する。当時母は大船に住んでいたが、3機の飛行機が三角形の隊列を組み、さらに多くの三角形が続々と横浜方面へ向かうという想像するのも恐ろしい光景を見た。が、母はぼんやりとその光景を眺めるばかりだったという。恐怖は感じていたが、もう逃げる場所も隠れる場所もない。空は飛行機で真っ黒だ。建造中の大船観音を戦闘機の影が延々となぞり、爆音は横浜へと向かう。地上にいる民間人はそれが現実とも受け入れられないままただ立ち尽くす。

1945年5月29日。横浜大空襲へと向かう大編隊を母は見ていたのだ。当時は何も知らず「怖い」と思うばかりだったが、その気持ちさえ失ったら「虚無」に喰われて生きる気力を無くしていただろう。

戦争は痛みだけを残して終わり、学校が始まった。真っ先にしたことは先生の指示に従い教科書の戦時教育を墨で消して行くことだった。民主主義へと切り替えるにはそぐわぬ事ばかりで、教科書は真っ黒になった。母は黒塗りの教科書を乾かしながら一体この数年は何だったのだろう…と思った。まだ戦争から帰らぬ叔父さんたち、満洲にいったきりの従兄弟。南方から帰ってきた近所のおじさんはガリガリに痩せて目だけが獣のように光り、その人とはわからなかった。戦場で何を見たのか。

母は時折り思いついたように「戦争の話」をしてくれた。何十年も前のこととはいえ、この国で、この街で、自分の母が経験したこととなると現実味が深く、自分でもさまざまな文献を読み漁ったりして戦争の哀しさ、愚かさを
胸に刻んだ。父は東京大空襲を経験しているが、ほとんど語ることはなかった。それもまた戦争の悲惨さを伝えている気がする。

未来のためにできることはたくさんある。その中でも私は母が戦争体験を語り継いでくれたことをありがたく思う。絶対に戦争をしてはいけない、ということを私も語り続けたい。未来を守るものは「平和」。それが一番なのだから。

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