祖父が骨になった日、ひとりホテルで過ごした夜。
金のカメレオン、2021年、12年に一度、乱気の年。年末年始は追い出されて、ひとり仙台で過ごしていたし、この先、思いやられるな…と疲れモードで仕事初めの仕事さえ休んで、最悪の年明けを過ごしていたら、もっと最悪の事態が発生した。
1月9日、祖父母に「待ってたよ」と言われる夢で目覚めて、よし今日もがんばって何かを書こうと、創作に取り組み、明日は「あの世とこの世を結ぶ話を書くんだ」と眠りについたら…。
1月10日の朝、叔母から電話が入る。「おじいさんが危ないと施設から電話が入った」と。慌てて、仙台から帰ることにした。でもこのご時世、老人ホームには家族が行っても面会させてもらえない。たとえ危篤でも、万が一ということもあるから、検査結果が出るまでは会わせてはもらえなかった。陰性だったから、葬儀を上げることができた。
結局、叔母も含めて、誰も死に目に会うことはできなかった。たぶん危篤の知らせをもらった時点で、すでに亡くなっていたのだろうと。ある意味、病院などで苦しみながら闘病し続けて、亡くなったわけではなく、どちらかと言えば眠るように亡くなったから、安らかな最期で良かったとは思う。冬場は毎年、熱を出していたし、祖父が体調不良になるのは珍しいことはでないから、今回もすぐに良くなるだろうと思っていた。私だけでなく、家族は。でも、ぽっくり逝ってしまった。
最後に会ったのはいつだったっけと振り返った。去年1月、まだコロナ禍になる前、家族揃って面会に行った。でも私が祖父と一対一で話せたのは、たぶん二年くらい前の春で、「隠れて来たんだべ?」と言われ、頭はしっかりしていた祖父から、「お母さんや〇〇〇(私の妹)は大丈夫か?」と身を案じる言葉を掛けられた。妹の病気は知っているから、ずっと気に掛けてくれていた。特に自分の娘、私の母のことは。うちが大丈夫じゃなくても、私は「大丈夫だから安心して。」としか言えなかった。祖父に心配させるようなことは言えなかった。「またいつでも来いな」と念を押されたのに、私は結局、頻繁には会いに行けなかった。頻繁に顔を見せると、家に帰りたいと言われても困るから、あまり行くなと言われてもいたから、行きたくても行けなかった。
それから結局、本を作って祖父母に見せるという夢も叶えられなかった。祖母はまだ生きているけれど、祖父と比べて認知症が進んでいて、会話も何もできない。私が誰なのかも分からない。祖父なら、内容は分からなくても、本を作ったら、「〇〇〇が作ったのか、すごいな。」って私が作ったことを理解はしてくれたのに。結局間に合わなかった。あまりにも夢を追いかけ始めるのが遅すぎたのかもしれない。せめて20代の頃から本気で創作に取り組めていたら、間に合っていたかもしれないのに。
そんなことを駅で父を待っている、2、3時間の間、ずっと考えていた。よりによって今年の冬は雪が多くて、車を使わない場合も多く、父と合流して、安置されている会場へ向かうことになっていた。駅には暖房もなく、体が震えた。特に足が冷えた。祖父の身体はもっと冷たくなっているのだろうかと想像したりしていた。
午後6時、和尚さんがいらして、お経を唱えてもらう。祖父はまだ布団に寝かされている。眠っているようにしか見えなかった。死に目を見ていないせいか、まだ死んでしまったという実感は湧かなかった。親族が帰り、身内だけになり、明日からの段取りを済ませ、父と二人だけで、改めて祖父の顔をゆっくり見たら、初めて泣けた。死に目に間に合わなくてゴメン、何も孝行できなくてゴメン、それから妹がいるから母があまり来られなくてゴメンといろいろな思いが込み上げてきて、泣けた。
でも悲しみに明け暮れて泣いている場合ではなかった。母が娘としてできない分、私がいろいろがんばらなきゃと気合を入れた。まず、妹に祖父の死をどう伝えるかとか、いつ祖父と会わせるかとか、母と密談した。妹の場合、誰かが亡くなると、殺されたとか変な被害妄想を起こす場合があるので、慎重に伝えなければならないし、だからと言って、ずっと黙っていても祖父はどこに行ったといずれ騒ぎ出すから、一度は亡くなった姿を見せなければいけない。事実を見せないと、妄想がひどくなるから。
叔母も母も私も、祖父が亡くなった悲しみよりも、いかに妹を騒がせずに、滞りなく、一連の儀式を終了させることができるかという別の方に神経を使っていた。
翌日、納棺に儀式が始まる前、誰も来ない隙に、布団に寝ている状態の祖父を妹と母が見に来た。二人はそれが最初で最後。母は納棺後、死に化粧されてキレイになった祖父の顔を見ていないし、火葬まで三日ほど時間はあったのに、結局火葬直前の最後のお別れもできなかった。実の娘なのに。
事情を詳しく知らない親族からは、なぜ私が母の代わりに家で妹の面倒を見られないのか不思議に思われた。うちの事情を詳しく話したことがないから、そう思うのは当然のことだけど、少し悔しかった。私は妹にターゲットにされていて、敵対視されているから、面倒見るなんてできないし、一緒にいると返って騒がれるだけだから、無理なんですと説明したけれど。しかも妹の場合、誰でもいいというわけではなく、母に依存しているから、母がひとりでどこかに出かけると、妄想が起き、母が誰かにレ〇プされたとか、とんでもないことを言い出す。それが嫌だから、母は黙って妹の側にいる。
疲労困憊だった私は火葬直前の夜明け頃、母に泣きながら訴えてみた。別にどうなってもいいから、お母さん非常識な悪者みたいになってるから、火葬前におじいさんの顔見に行けば?と。私が妹を見ているからと。いつもみたいに警察に来てもらってもいいしと。最後のチャンスだから、キレイな死に顔見て来た方がいいよと訴えてみたけれど、母の意志は揺るがなかった。「他の人には分かってもらえなくても、おじいさんは〇〇〇(私の妹)のこと分かっているし、お母さんのことも分かっているから、行かなくていいんだよ。」、「死に化粧された顔なら大体想像できるから見られなくてもいい。」と。いつも「隠れて来たんだべ?」って言ってたでしょと。妹がこんなにひどくなる前は母もひとりで老人ホームへ面会へ行くことができた。その時、祖父は妹に黙って母がこっそり会いに来たことを分かっていた。頭だけはしっかりしていたから、祖父は分かってくれているからいいんだと。
だから私は火葬の日はいつもより朝早く会場へ行き、誰も来ないうちに祖父の顔を拝みながら、心の中でつぶやいた。「お母さんを連れて来られなくて、ごめんなさい。」と何度も謝った。母が見られない分、私は何度も祖父の顔を見た。叔母はよくそんなに棺の窓を開けられるねと驚いていたけれど、私は別に怖くなかった。だって死んでいても、自分の祖父には変わりないから。コロナ禍もあって、ここ1年は会えなかったし、もう二度と、顔を見られなくなるなら、頭の中に焼き付けておこうと思った。
叔母の家には晩年の祖父の写真がなくて、私が数年前に撮っていた写真を利用することができた。少し画質は荒かったけれど、拝みに来た人たちからは良い写真だってわりと好評で良かったと思う。父が読む挨拶文の原稿も書いたし、自分ができそうなことは全部やった。親族だけで取り行ったため、通夜~初七日の儀式の受付も任され、大金を預かりながら、火葬場へ行ったり、葬儀の受付するために骨上げもできないまま、会場に戻ったり、本当に慌ただしかった。
そして何がたいへんだったかと言えば、この一連の葬儀期間の間も、私は妹のターゲットとなっており、家から逃げながらやらなきゃならず、本当に過酷だった。
まずそもそも仙台にいた10日。駅からそのまま会場へ行き、実家へ帰れたのは夜遅く。眠いのに、夜中、私の部屋へ妹がやって来て、机に置いていたPCをひっくり返された。床に落ちたから、壊れたかと思った。まだ一年くらいの新品なのに。(後日、妹は自身の携帯とPCを完全に破壊した…。)とにかく、また逃げることになった。夜中二時頃から、まずは黒い服やバッグや靴など必要なものを部屋から取り出し、PCももちろん車に積み込み、早朝四時にはコンビニで祖父の写真を引き伸ばしたりしていた。会場には父が泊まっていたから、まぁ居場所ならある。私もそこへ向かった。
11日の夜だけはたしかぐっすり家で眠ることができた。あまりにも疲れていたから。ちゃんと眠らないと、良い挨拶文も書けない。12日には夜なべしてスピーチ原稿を書き上げた。
火葬の前日、思いがけず雪が積もってしまい、また少し予定が狂う。その夜も妹は大暴れで、部屋に物を投げ込まれたりした。私はまともに眠れないまま、早朝、父と一緒に会場へ赴いた。
14日、火葬、葬儀など一連の儀式が終了し、やっと少しはゆっくりできるかなと帰宅したものの、相変わらず妹がご立腹で、また追い出された。限界だった。眠気と腰が。元々椎間板ヘルニア持ちだから、正座とか座敷で過ごすとすぐに腰に来る。通夜までは座敷だったから、腰にきていた。しかも前日の雪で、路面状況も悪い。仙台に帰る気力はなかった。誰にも会いたくなかった。近くのビジネスホテルを考えたけれど、フロントで受付さえもしたくなかった。
だからラブホを選んだ。
何度も行ったことのある、ある意味行きつけのホテルに泊まることにした。『天気の子』の影響ではない。今やラブホで女子会とかもあるみたいだし、別に女ひとりで泊まっても、問題ないかと。とにかく誰にも会わずに済むし。ラブホに欠点があるとすれば、一度入室したら、チェックアウトまで出られないことくらいで。後は窓を開けられない(換気できない)ことくらいで。つまり、翌日の昼まで一歩も出なくて済むように、大量の荷物を抱えて、ひとりで広いベッドに転がり込んだ。意識したことなかったけど、スプリングが微妙なベッドで寝心地は悪かったけれど、疲れていたから、まぁまぁ眠れた。
無駄に大きいテレビ、ひとりにしては広すぎるベッド、大きすぎる浴槽…。テレビを付けると、『プレバト』スペシャルだった。でも全然何を見ているのか分からないくらい、何も頭に入らなかった。火葬場で大量に余ったお弁当をもらったから、テレビを見ながらそれを食べた。泣きながら。おじいさん、骨になってしまったなとか、結局お母さんと会わせることができなかったなとか、悲しみと悔しさと疲労で、どうしようもなかった。ラブホで女がひとりすすり泣いていたら、男に逃げられたのかとか、誤解されそうだけど、とにかくやっとひとりきりの空間で落ち着いて、思いっきり泣いた。
腰が痛いから、マッサージするみたいにジャグジー風呂に浸かった。入浴剤なんかも入れたりして。祖父が死んだのに、こんな夜に、何でひとりで優雅にラブホでお湯に浸かっているんだろうと虚しくもなった。でも生きるためには元気にならないといけない。大切な人が骨になっても、いなくなっても、その人を拝むために来てくれる人のために、翌日には元気になっていないといけない。だから私は悲しくてもお弁当を食べて栄養をとったし、疲れていてもちゃんとお風呂に入ったし、泣きながらもちゃんと眠った。故人を弔うために、ちゃんと生きようとしていた。一緒に死ぬことはできないから。
そう言えば、祖父と二人でファミレスに行ったことがあったなとか、買い物にも行ったなとか、温泉旅行とか、どこか落ち着けるホテルとか泊まらせてあげれば良かったかなとか、いろいろ込み上げてきて、場所はラブホなんだけど、祖父と一緒に泊まっている気分で、厳かな気持ちで過ごせた15時間だった。
少しはリフレッシュして、翌日の昼には祖父の家へ向かった。午後には来客にお茶を入れたり、接客して、夜には仙台へ帰った。
祖父が亡くなった日、電車の車窓から見えた雪景色がキレイだったこと、葬儀期間、寒かったこと、雪が積もったこと、火葬の日、夕陽がキレイだったこと、夜空の星が瞬いていたこと…忘れないと思う。
祖父が骨になった日、ラブホに泊まるなんて、そんな出来事、一生に一度しかないから、絶対忘れないと思う。あのお弁当の味も忘れない。火葬場で煙を見なかったことは少し後悔している。どうしても親族の接客の方に追われて。
葬儀関連のことをこなしつつ、妹の妄想から逃げ惑っていたことも忘れない。いつもなら仙台にいれば済む話だけれど、祖父の家や葬儀会場の都合上、どうしても実家付近にいる必要があり、ラブホを選んだ。
祖父が亡くなって悲しいと同時に、親族や近所から妹のことが理解されていないことがはっきり分かり、悔しかった。でも仕方ない。あまり具体的に話したこともなかったし。伏せていたし。病人本人はともかく、病人をかくまっている家族が理解されないことが悔しかった。まるで犯罪者をかくまっている家族みたい。いつも以上に肩身の狭い思いがした。特に母は娘なのに、祖父を見送れず、悪者になってしまったみたいで、不憫だ。このもやもやした気持ちを創作にぶつけようと思う。
大切な人がいなくなって、魂の抜け殻になって、書けなくなりそうだったし、疲れすぎて、もう長文なんて無理なんじゃないかと思った時期もあったけれど、こうしてまた少しずつ書くことは復活できた。何事もなかったかのように、いつも通り書ける人間でいたくないとも思っていた。10日間、喪に服して、少しずつ自分を取り戻そうとしている。書けなくなった気持ち、書けないんじゃないかと不安に思った気持ちを忘れたくない。
祖父の死から教えられ、与えられた、世間とうちとのギャップというか、壁を文章で突破したい。知らしめたいという気持ちがめらめら湧いている。消えた人から生まれた灯火。炎。それを糧に新たな気持ちで書き続ける。
追伸…2021年が始まって、まだ20日ほどなのに、すでに1年経過したくらい体力も精神力も何もかも酷使している…こんなんで1年もつのかと思ったりする。
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