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『ハレ婚。』から「永遠」を考えた日

HYDEさんの影響で読んでいたマンガ『ハレ婚。』をやっと今日、読み終えた。もうとっくに最終巻出ているのは分かっていても、書くことに追われて、マンガもここ数年、(大好きな漫画家作品は定期的に読むものの)たまにしか読めておらず、17~19巻を一気に読んだ。

この最終3巻は特にクライマックスが近付いているのが、じわじわ分かって、目が離せなくて、おもしろかったと思う。今日は別にマンガ感想文を書こうとしているわけではないけれど、気になった部分を自分なりに考えてみようと思う。

まずこのマンガをまったく知らない方に説明すると、ハレ婚とはハーレム婚=一夫多妻制のお話。夫となる伊達龍之介は(私の主観では)見た目イケメンだし、ピアノ弾けるし、かっこいいけど、性格歪み過ぎていて、さすが多妻を求めるだけの男というか、一筋縄ではいかない、でもみんなを平等に愛して、意地悪なところもあるけどやさしくて、たまにものすごい正論も言うし、悔しいけどやっぱり魅力的な男。みんな好きになるよねって男。

一番ヒロイン的な小春は性格が態度に表れやすくて、分かりやすくて、一番まともな女の子って感じで個人的にはあまり情が湧かない。

個人的に理想的なのが、第一夫人になったゆず。男も周りも分かってるし、変に嫉妬したりしないし、母性溢れるマリア様みたいだし、こんな大人の女性になれたらと思う。おおらかで心が広いと思う。(てか小春とまどかがあまりにも性格子どもなので、三人の中では一番大人に見えるというだけ。)

一番自分に近いのが依存体質、ややメンヘラにも見えるし、ツンデレでもあるまどか。冷静そうなのに、実は一番龍之介を独占したいと思っているところが、ツボ。簡単にはよりを戻そうとしないし、一度壁を作ったら、頑なにその壁を守ろうとして、簡単には他者を受け付けないし、まぁ面倒なタイプの女だと思う。でも相手を信じてしまったら、まっすぐに突き進んで周りが見えなくなる暴走気質でもあって…やっぱりツンデレ。

という四人が中心の物語。

「僕が本当に欲しいもの…子どもに期待してるものって何だろうと…未来だ。」
「僕と君の愛が今になり、歴史を紡ぎ、続いていく。」
「それこそが僕と君の永遠だ。」

という17巻で龍之介が小春に言い放ったキメ台詞。これを読んだ時、何かを書きたくなった。

そして最終話を読んだら、その台詞の通りの未来が待っていて、ハッピーエンドなのに、腑に落ちなかった。

それはたぶん私が独身で子どももいないからだと思うけれど。作者は執筆している間に子どもを産んで育児もしている女性なので、このエンディングは女性ならではの視点だなと感じた。

そう、どうして多くの人たちが子どもを欲しがるのか。特に高齢者世代は子どもは宝、産んで当たり前みたいな発想をするんだろうとずっと疑問だった。私自身、そんな世代に育てられて、結婚もできていなくて、子どもを産めそうな年齢も残りわずかとなって、どうしてこう劣等感を感じたり、やっぱり結婚しなければならないのだろうかとか独身の自分で自信を持って生活できないのか、龍之介の言葉で理由がやっと分かった気がする。

やっぱり私はこんな自分でも「永遠」を期待しているんだと。子どもがいないと自分の遺伝子は残せない。先祖のお墓も守れない。自分が死んでも、子どもさえ生きてくれていれば、そのまた次の世代が生きていてくれれば、自分も生き続けている気がして幸せと錯覚しているのだと思う。

だからどうしても結婚して子どもを育てている人たちとは壁を感じて、「敵わないな」って思ってしまう。自分の遺伝子を残せている時点で、生物としてはやはり優勢だから。生き物の本能として、子孫を残せない、残さないというのは生まれて来た意味がないと感じてしまうんだと思う。(本当はそんなことはないと頭で分かっていても、本能で引け目を感じるということ。)

もしも結婚できたとして、子どもがいたとして、自分はとても良き妻、良き母にはなれないタイプなので、両方できなくて良かった、不幸な家庭を築かなくて済むと安心することもあるけれど、その本能が邪魔して、独身だと本当の幸せを感じられない。

だからこんな自分でも幸せを感じてみたくて、子どもじゃない「永遠に残せるもの」を探して、「文章」を見つけた。もしも一冊でも本を残せたら、それが長い間、図書館に残るかもしれないし、データとして記録されていれば、永久的に自分が生きた証を残せると考えた。だから婚活も買い物も、定期的にマンガを読む時間さえ諦めて、こうして書き続けてきた。

でも「ハレ婚。」のラストを知ってしまったら、やっぱり心が折れそうになった。なんだ結局子どもかよって。何でも子どもが鎹(かすがい)になって、つなぎ合わせてしまうんだなと。子どもができなかったら、ケンカ別れのままとか、結婚さえしていなかったかもしれないってそれってどうなのかなと。子どもって大人に利用されてるだけじゃんって時々感じる。(自分がそういう家庭で育ったせいか、鎹の役目を持つ子が不憫で仕方ない。)好き同士なら、子どもなんていなくたって二人だけでケンカして二人だけで仲直りして、何も残さず二人だけで死んでいけばいいのにって思ったりする。

好きな人と結ばれた挙句に、二人の「永遠」の証として子どもをもてた人たちは自分たちがどんなに奇跡的で恵まれているのか分かってるのかなと、独身の私は思う。そもそも好きな人と結婚できるだけでも幸運なことなのに、子どもまで順調に育ったら、それ以上の幸せはないでしょうと羨ましくなる。

でも私はそんな自分には見合わない、身の丈に合わない幸せに憧れて指をくわえて眺めているのはやめた。

憧れのやなせたかし先生だって、なかにし礼先生だって、戦争を経験している世代で活躍している方々の多くは、自分の身に起こった不幸な体験を糧に作家や作詞家になったりしているのだから、じゃあ私も、おそらく一般的な人たちより変な意味で不幸を背負って育った自分だからこそ、書けるものがあるだろうって妙な自信を持ち始めた。

結婚して子ども育てて、それで「永遠」掴み取ったような憧れの平均的な人たちには負けない「永遠の幸せ」を掴んでやろうと今必死だ。

それにしてもどうして人は「永遠」に憧れるのか。なぞ。永遠のテーマ。永遠だからって何がそんなにうれしいんだろう。幸せなんだろう。

本当は結婚しなくても、子孫残せなくても、作家になれなくても、生きている間に後世に何も残せなくても、「あぁ自分の人生、最高だった。」って思いながら死ねたらそれが一番幸せなんじゃないかなと思うんだけど、どうして死んだ後に何か残すことにこだわってしまうんだろう。

野生の生き物に関しての童話を書いたばかりだから、下調べした時、野生の動物の死骸は何か伝染病とか、事故とかでもない限り、人間の目に触れることはあまりないと知った。たしかにそうだ。たくさんの生き物がいるはずなのに、事故死くらいでしか、死骸を見たことがない。自然死している動物をほとんど見たことがない。猫だって死ぬときは姿を隠すって教えられて育ったし。だから野良猫が死んでいるのを見たことがない。

つまりこういうことらしい。自然界では捕食者がキレイに素早く死骸を片付けているから、人間があまり多くの死骸を目に留めることはないのだと。つまりほとんどの生き物は埋葬さえされずに、食べられて消えてしまう。子孫は残しているかもしれないけれど、子孫を残せなかった生き物は食べられてしまったら、何も残らない。

でも食べられたら、その食べた生き物の中で、細胞レベルで生き続けることもできるかなとも思う。臓器移植手術を受けた人が、性格変わって、その臓器提供者の性格に似たケースもあるらしいし。もしかしたら生き続けるのかもしれない。そうしたらそれもまた「永遠」ってことになるのかな。

つまり別に子孫を残せなくても、作家になれなくても、他の生き物に食べられるだけの生涯でも「生まれてきた時点で、すでに永遠を手に入れている」のかもしれない。この世に生まれただけで、最後は食べられたとしても、きちんと埋葬されたとしても、どちらにせよ小さな小さな細胞がずっとこの世界で生き続けているかもしれないから。そういう意味でこの世界に生まれた生き物はすでに「永遠」。だから何も悲観することはないのだけれど、ああいう子どもを持つことが人生最大のハッピーみたいな描かれ方すると、いろいろ考えてしまう。僻むことが得意な過去の自分に戻ってしまう。

こういう考え方をすると、最上級の幸せは結婚し、子どもを残し、本や音楽やそういう後世に残せるもので地位を築けること、そして食べられることなく、きちんと弔われることかもしれない。

二番手の幸せは結婚と子どもができた人間、または後世に残せる文化的なもので認められる仕事ができた人間。

一番下かもしれないけれど、独身で子どももおらず、地位も名誉も何も残せず、ただ孤独に死んでいく人もまた、生まれてきただけで奇跡だから、幸せだったと思いたい。(今の自分はここ。)

数年前、水野敬也著『あなたの物語』を読んだ時に思ったけど、こんな自分でも最初は過酷な死闘レースの果てに生まれてきたんだと気付かされて、やっぱりそれって奇跡だし、すでに永遠だって思えた。

だけど(だから)やっぱり子どもを残せた人って尊いって思う。尊敬する。今日こんなことを書きたくなるメンタルなのはきっと生理のせいだと思う。周期バラバラでふいにやってくる落ち込む時期。残り僅かとなった子孫を残せるかもしれない貴重なものをただ捨ててしまっていることによって起きる現象が憂鬱なお年頃。

#ハレ婚 #子ども #永遠 #幸せ #マンガ




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