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【あそびごころ探究#3】三つ子の魂百までと日常の視点

こんにちは、ひろのです。

コーチングの学びを通じて、人生っていうものにこれまでより細かい粒度で向き合いはじめておよそ1年。あそびごころなるものが人生のマインドセットとしてとっても大切なのでは?!と至りマイペースに探究をはじめました。

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今回は、対話による探究第3弾として、話を聞きだしたらわくわくしちゃういろんなお顔をお持ちの地図子さんまなみさんと対話させていただきました!

始まりのキーワードは、「資本主義」。

わたしとまなみさんのもやもやの重なりから始まりました。


対話ログ


対話を通して気づいたこと。

それは、あらゆるランダム要素が欠かせないのではないかということ。

束の間の非日常はきっと、すぐそばにある。

だけど、すべてから解放されることってなかなか難しい気がしている。非日常という設定をあらかじめ設けているなかで楽しんでいるような。一見ラベリングがないようでいて、内なるラベルがあるような。関わるひとや体験も予定調和でなかったとしても、なんだか想定内のような。

まなみさんの中の地図子さん発見のお話は、そのどれでもなかった。

ざっくりとで恐縮だが、ご紹介させていただくとこんな感じ。

本を出すことの学びからスタートしたと思えば、多摩川が好きなことを発見し、ブログを書いてみれば散歩に誘われ、イベントに出かけてみれば講演の機会が舞い込む。お誕生日プレゼントに水質検査キットをもらった友達に誘われて、井戸ポンプなるものにドはまりする。その様子を道端で見たはじめましての方からは、近所のよその家の中の井戸ポンプを紹介される。そんな連鎖の先でZINEが生まれ、個展が現れた。

そうして、日常がより一層色とりどりになっていく。

水質検査キットで検査するご様子。ZINEより

なんだかこれが好きなのかも、と抱えて歩きはじめてみると、思わぬ縁がつながって、コントロール外の流れがうまれる可能性がありそうだ。それって再現性はなくて、合理的でなくて、これまで体感してきた社会のながれとはなんだか違う。

さらにもともともっていたラベルともちがう自分が現れる。何かが特別大きく変わるのではなくて、自分の見る世界の解像度があがる。

そのとき目の前に広がるのが、自分でみつけた日常なんだろうな。

「なんだかこれが好きなのかも」のきっかけは共通して幼少期の様子や受け取った言葉にありそうだった。まなみさんの場合は「本が好きな子ね」、わたしの場合は「見て描くのが上手ね」。

その言葉が届くきっかけは、ついついやっていた行動なんじゃないかと思う。わたし自身、満を持して最近「在るものを描くこと」に着地したけれど、これを書きながら2歳ごろに描いたやかんの絵を思い出している(いつぞや母の日記から出てきた。とってもらっていたことも驚き。)

三つ子の魂百まで、あなどるなかれ、なのかも。

3歳ときのあなたは何をしていたか、ぜひ聞いてみたい。


おわりに

これを書きながらふと思ったこと。

VUCAと呼ばれる時代。大変な時代よ、というようなネガティブな表現の導入をよく見る。でももしかしたら大きなシステムの意志としては、そうなることをどこかで願っていたのかもしれない。

物質や情報の豊かさという大きな山を越えた先の今を、怒涛の昭和・平成の働きマンが渡してくれたバトンを、自分ごととしてどう意味づけするかが大切そうだな、なんて思う。この手元にあるバトンはどう変わりゆくのか。

それはまだ ”世界の中の自分” になる前の自分とともに。




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