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平凡コンプレックスの私が、20年かけて見つけた幸せの掴み方


「平凡な私から抜け出したい」
「情熱的で波乱万丈な人生を送ってみたい」
これは、私が小学生のころからずっと願っていたことだ。

学力はいつも平均点、特段可愛い容姿を持つわけでなく、なにか特技があるわけでもない。ちなみに、運動神経は悪い方だ。

“私って取り柄がない”
“なんて平凡でつまらない人間なんだろう”
そんなふうに悩む少女時代を過ごした。

今の時代は「平凡コンプレックス」を持つ少年少女はもっと多いだろう。SNSの流行によって、他人の華やかな人生が手元から覗けるようになってしまったから。

どうか、この記事を読んだあなたが、これまでの人生のあらゆる決断や経験に無駄なことはなかったと自分自身を少しでも肯定できるようになりますように。

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「平凡」な私を抜け出したい

photo by ある ˊᵕˋ(写真AC)

私は愛知県の田舎に生まれた。愛知県生れというと、必ずと言っていいほど“名古屋出身なの?”と聞かれるが、そこは名古屋ではない。特に特徴のない、ただ山と川と田んぼ、コンビニがある程度の本当に何もないところだ。

家族は、父と母と妹が2人。両親はともに公務員で、いわゆる一般的な中流家庭だったと認識している。小学生のころは母の勧めでピアノを習い、父の勧めで剣道を習い始めた。

中学生になると母が本を読めというので毎日少しづつ読み(本当は読んでないときもあったけど、読み進めているフリをしたこともあった)、父はテストの点が悪いと怒るのでテスト前は1週間前から勉強するような子どもだった。

自分が不自由だと思ったことはなかったし、生活に息苦しさを感じたこともなかった一方で、「親が決めたことを自分はしている」、いわゆる「親が敷いたレールの上を自分は歩いている」そんな感覚が常にあって、どこか恥ずかしく感じてたのを強烈に覚えている。

年ごろの少女にはありがちかもしれないが、雑誌のなかの個性的で派手な服を着た読者モデルやチャット掲示板で出会った都会で暮らす同世代の子が羨ましくて、輝いて見えてしょうがなかった。

テレビのなかで活躍する同世代のスポーツ選手やアーティストに嫉妬心さえ抱いてたのは、今となっては考えられない。

初めての反抗と母の洗脳

photo by 丸岡ジョー(写真AC)


反抗期も相まって「そのレール」から降りようと抵抗を試みたことも、もちろんある。
高校受験のとき、地元から離れた高校に通いたいと考え、電車を2回乗り継いで通う隣町の高校を志望した。

しかし、最終的に進学したのは母の勧めた地元の高校だった。理由は簡単。隣町の高校は距離が遠く早起きして通い続けるのは無理だと冷静に判断したのだ。

”冷静に判断した”と言えば、かっこよく聞こえるが、単に意志が弱いだけである。完全なる夜型人間の私のなかで、「早起きしないと行けない遠くの志望校」は「寝坊できる母が進めた地元の高校」にいとも簡単に負けてしまった。情けないはなしである。

高校2年のとき、人並みに進路に迷った。影響されやすい私は映画を見てファッションデザイナーになりたいと専門学校を見学したり、小説を読んで科学者を目指そうと生命応用化学科のある大学を調べるなど自分なりに行動してみたこともある。

しかし、その考えはいつも長く続かず、途方に暮れる日々。そして、そんな自分に毎回呆れるのが常だ。

一方、安定志向の強い母は、自身の経験から看護師になることを私に勧め、私が小学生のころから何かするたびに”わあ、看護師に向いてるー!”と笑顔で私のことを煽てていた。今思えば、あれは立派な洗脳ではなかろうか。

また、父には”目的がなければ、大学には行かせられない”と常々言われていたので”まあ、高校卒業までに夢が見つからなかったら看護師になっておくか”と思うようになり、とりあえず理系に進むことになる(母の洗脳は、このときすでに成功している!)

その結果、私は看護師になった。当時、お金や時間をかけてまで叶えたいと思う夢も、何かに打ち込む情熱も、熱狂できる趣味さえ見つけられなかったのだ。

今振り返れば、間違った選択をしたとは思わない。確かに、手に職をつけた私はライフスタイルに合わせていとも簡単に転職を繰り返し、子どもを産んだ今、育休を取得し、昼寝をする息子の横で自宅でこの文章を書いている。

これが母が娘に与えたかった「安定、安心」というひとつの愛情の形なのだろう。

本当の自分を追い求め、世界へ

photo by makoto.h(写真AC)

“こんなの私のやりたいことじゃない。もっと輝けるはず!”と看護師になってからも、私はあがき続ける。「本当の自分」を追い求めて。

看護師になってきっちり3年で仕事を辞め、一念発起でフィリピンとイギリスに留学に挑戦。その後はバックパッカーとして4か月ほど世界を放浪した。

(“世界一周してました”というと聞こえはいいが、本当に何をするわけでもなく、ぶらぶら世界で彷徨っていたので、ノマドでも、旅でもなく、恥ずかしいが“放浪”という言葉が私にはしっくりくる)

そして本当に恥ずかしいのだが、放浪18か国目のタイのバンコクで、メンタルがやられてしまう。具体的に説明すると、タラートロットファイ・ラチャダーという夜市に行くため、バンコクメトロMRTに乗っていたら急に息が苦しくなったのである。

息を一生懸命吸っているのに吸った空気の20%くらいしか肺に入ってこない、そんな感覚が続いた。MRTの車両には人がたくさん乗っていて、クーラーが効いているにも関わらず、皮膚がじっとりと湿るほど蒸し暑い。

そのため、暑さが原因で息苦しいのかと思ったが、駅に着き、外にでても苦しいまま。夜市を楽しめるわけもなく、一瞬でホステルに引き返すことにするも、電車は怖くて乗れず、タクシーを拾った。

タクシーすらも窓を全開にしないと息が苦しくて乗っていられない、もはやパニックを起こしそうな状態に。

ふと前を向くと、タクシー運転手とミラー越しに目が合う。怪訝そうな顔をしていたのは、せっかくエアコンで冷やした車内に窓を全開にして生ぬるい風を入れていたからだろう。

ホステルに帰ってからも息苦しさは続き、寝れない、食事が喉を通らないなど症状は悪化していく一方だった。

翌々日には、食事がまともに食べられず、もう旅を続けるのは無理だと気づいた。気づいたというより、身体と心がおかしくなっていることを自分で認めたと言った方が正しい。

正直にいうと、体調の変化にはタイに入国する数か月前から気がついていたのだ。でも「自分は好きなことをしてるんだ」そんな思いに暗示をかけられ、ずっと気がつかないフリをしていた。というより、とにかく認めたくなかったのだろう。憧れた「波乱万丈」な生活をしている自分が心の病気になっただなんて。

すでに予約していたタイのチェンマイとベトナムのホーチミン行きのフライトチケットはやむなくキャンセルし、帰国することに決めた。

タイのバンコクから日本までのフライト時間はおおよそ6時間。息が詰まって死ぬのではないかと心配したが、日本に帰れるという安堵感からか不思議と苦しくなかった。

病名は適応障害

photo by oldtakasu(写真AC)

帰国後、人生で初めて心療内科を受診することになる。まだ、自分の現状を受け止め切れていない私は、受診することに少し抵抗感が残っていた。

ただ、電車やバスに息苦しくて乗れないという致命的な症状が続いていたので、生活を維持するためには「受診」の選択肢しかない。

しばらく通院を続け、最終的についた病名は適応障害。カウンセリングを受けながら適応障害になった理由を先生と考える。たどり着いた答えはまさかの「衣食住のストレス」“え、そんなこと?”と声にでそうになるほど、本当に拍子抜けな答えである。

ただ、この数か月の生活を振り返ってみると、毎日新しい出会いがあり刺激的な一方で、近しい友達や家族に会わないばかりか、連絡すらまともに取っていなかった。

(内閣府の調査でも友達や家族と頻繁に会って話していればいるほど健康な人が多いといわれているらしい)

また、頻回な移動や時差ボケを無視したタイトな観光スケジュールによる疲労が蓄積された上に、不眠が続きで体を休められていなかったし、食事は自炊せず、ほとんど外食。

朝ごはんにいたっては、近くのスーパーで購入したビスケットだけを食べることもあり、最悪の場合はジュースを飲んで済ませる始末。“そりゃ、体調崩して当たり前だろ、アホか”という声が周囲から聞こえてきそうである。

もちろん世界一周することが悪いことではまったくもってない。たくさんの人と出会い、自分の目で現地を見て感動するなどして刺激を受けたし、視野が広くなったと思う。

さまざまな暮らしや働き方があるのを知ることができ、柔軟な選択や考えを持てるようになったのは間違いなく旅に出たおかげである。

きっと私は、適応障害になる将来が見えていたとしても、迷うことなく旅に出ていたと思うし、適応障害になった今でも旅に出たことを後悔していない。ただ、私の旅の仕方が間違っていたし、「放浪」は私に合っていなかったのだろう。

戻って来てしまった「平凡」な生活

photo by 美弦(写真AC)

そして、私は戻ってきてしまった。抜け出したと思った平凡な生活に戻ってきたのだ。

それどころか、平凡な生活をこなすことも困難で、とにかく静かに、さざ波すら立てないよう慎重に暮らす毎日。実家に戻り、自分がしんどくならない量の仕事をする。夜更かしはしないように気を付けたし、休みの日の朝は寝たいだけ寝て身体と心をおおいに休ませる。

それでも電車やバスに乗ると息苦しいとか、不安になるという症状は続き、私を大変困らせていた。就活のために長距離移動が必要なときがあったが、長距離バスには乗れないので、いつでも下車できる鈍行列車を乗り継ぐか、車で移動が必須だ。

薬に頼れば新幹線くらいなら乗れるかもしれないと思ったが、挑戦する気力は持ち合わせておらず、想像してみると不安に苛まれる。そんな辛い日々がいくらか続いた。

(調子が戻らない日々を数えることはやるせない気持ちでいっぱいになるので日を数えることもしなかったので、正確な期間はわからない)

それでも私の心は、徐々に、時間はかかったが回復することができた。回復したのには、きっかけがある。

それは、できない自分を、普通である自分をやっと認められたことだ。体調を崩したことをきっかけに自分と他人を比較するのをやめ、自分の理想(熱狂しながら波乱万丈な人生を生きる自分)を手放したら、急に楽になったのである。

半年後には、常に頓服のお薬が鞄に入ってはいるが、快速特急にも新幹線にも乗れるまでに回復した。最終的には新しい土地で1人暮らしを開始し、毎日フルタイムの仕事にも行けるようになったのだ(なんと!)

私の掴み取った「幸せ」な生活

photo by YUTO@PHOTOGRAPHER(写真AC)


それから5年。今、私は夫と息子の3人で暮らしている。26歳で結婚し、29歳で子どもを産み、その後、夫の実家があるベッドタウンに引っ越し、小さな家を買った。3人でお昼寝をして、起きたらみんなでおやつを食べることがささやかな楽しみだ。

きっと高校生の私が見たら鼻で笑うような、典型的で平凡な生活だろう。でも、1歳になる息子はどうしようもないほど可愛らしく、他愛のないことで笑い合える日常が愛おしくてしょうがない。間違いなくこの生活が宝物だと、胸を張って言える。

ふと、20年近くも平凡コンプレックスを持っていた私が、なぜこんな平凡な生活を愛せるようになったのか考えてみた。
私は気づいたのである。もう、自分が親の敷いたレールの上を歩いていないことを。自分で決めた道を、自分で切り開いた道を歩いてきたということを。

自分でどうにか変わろうとしてあがき続け、その過程でたくさんのことを自分自身で決断し、行動に移し、その結果たどり着いた生活が今である。今、目の前にある「幸せ」はほかの誰でもない、自分の力で手に入れたものなのだ。

また、自分の決断によって、体調を崩してしまったこともあったが、それをきっかけにできない自分やコンプレックスを受け入れられたことも、今の私を肯定する1つの要素になっていると思っている。
ある大学の調査では自己決定度が主観的幸福に強い影響を与えていると主張している。私は身をもってそれを証明したのだ。

波乱万丈な生活を送ったり、人の憧れることをすれば幸せになれるわけではない。そして、自分の決断や経験に無駄なことなんて、ひとつもなかった。

たとえ、それがネガティブなことであっても、私には必要なことだったと思っている。実際に、体調を崩さなければ、私は世界放浪を続け、今の夫とは結婚せず、息子に出会うこともなかっただろう。(息子に出会えないなんて、考えただけで、泣けてくる!)


自分自身で考え、決断することで、納得感も生まれるし、より努力したり、行動できるのではないだろうか。その過程が、幸せを掴む近道なのだと自分の人生を通して学んだ。

この「平凡」な生活は、小学生のころから悩み始め、約20年かけて掴み取った私だけの「幸せ」な生活だ。もう、息苦しさはない。


参考文献:幸福感と自己決定―日本における実証研究/西村和雄


この記事は事実を元に書いていますが、個人が特定されいないよう一部フィクションの設定も交えています。

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