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【第1話】嫌いだった陸上の面白さを知り始めた高校3年生

どうも。川瀬宙夢です。
今日から「医学生箱根ランナー爆誕」シリーズやっていきます。
自分が箱根駅伝を走るまでの陸上人生を振り返っていく感じです。このシリーズを書こうと思った経緯については前回の記事に書いてあるので読んでみてください!

さて、今日はこのマガジンで伝えたいことと、高校3年生の忘れられない試合までを書きます。

・このマガジンで伝いたいこと

僕が箱根駅伝を走るまでの経歴として

・高校5000mベスト(高2) 15‘31
・浪人を経験している
・国立大からの出場
・医学生
・5年生(病院実習生)

と、医学生である点ばかり注目されますが割とそれ以外の面でも箱根駅伝に辿り着けた点では面白い要素が多いのではないかと思います。むしろ個人的には医学生で大変だったのは病院実習が始まった4年の秋からで、それまでは他の選手たちと条件は変わらなかったと思います。むしろぶっちゃけてしまえば、医学生であるから5年生になって箱根駅伝に辿り着けたと言っても過言ではない気がします。4年生までは後悔していることも多いのでそこらへんは反面教師にしていただければと思います。そしてこんな人生もあるんだと思って読んでみてくれれば嬉しいです。

・忘れられない試合

さて以前高校3年生のころを振り返った記事を書いたと思いますが、忘れられないレースがあるので被ってしまう点はあるのですがご了承ください。

さて小学校の持久走で1.2番を取ることが多かった僕は、適性があるのかもと思い中学校で陸上部に入部し、長距離を始めます。しかしそんな期待とは裏腹に中学の頃はサッカー部の子に体力テストの1500mで負け、陸上の試合では県大会の予選である西三河大会でぼっこぼこにされていました。そんな自分も中学3年時になんとか県大会に出場しました。初めて走る瑞穂陸上競技場は大きく圧倒されたのを覚えています。そして当時1500mの自己ベストが4’26の自分は目の前で3000mを9分で走る人たちを目の当たりにし、世界の広さを痛感しました。

そして刈谷高校に入学。顧問の先生の押しで流れで陸上部に入部しました。今だから言えますが最初はすごい嫌でした(ハンドボール部に入りたかった笑)。ただ先輩や同級生に恵まれ中学とは違い、自分より速い人がチーム内にいて、練習が一人じゃない、長距離メンバーだけで駅伝を走るなど初めて陸上部っぽいことを経験しました。(県立高校レベルですが笑)

そして3年生で迎えた高校総体、僕は西三河予選で1500mと3000mSCの2種目優勝しました。そして迎えた県大会1日目、1500m。予選を自信のあったラストスパートで勝ち切り、決勝に駒を進めます。
そして始まった1500m決勝、、、スローペースで始まったが、800mの通過でキツい、、、1000mの通過。周りがラストスパートに向けて位置取りを始める。必死に集団の真ん中をキープし続ける。そしてラスト1周、みんなが思いっきりスパートをかけるが自分はかけられない。やばい、、ラスト300m、、、さすがにスパートをかけねば、、、あれ、、スパートがかかる、、自分でも意味が分からないくらいスピードに乗れている、、
そしてラスト150m、前から8番目、あと2人抜けば、、、更に最後のギアが切り替わる、、
一人、そしてもう一人かわす、、6番だ。
そして隣からふっと影が、、、並ばれる、、
いや、もう一人、抜けそう、、、、あっ、、、

並ばれた選手が前から垂れてきた選手に並んでしまい、自分の進路がなくなってしまった。ラスト10mでの出来事。1レーンを走っていた僕にはどうすることもできなかった。並んで走る二人の真後ろでゴール。0.07秒差だった。


翌日の3000mSC予選を無事勝ち、決勝を2位の9’13で走った僕はその後東海大会を3位9’14で走りインターハイに進みます。インターハイではアクシデントがありレーンの内側に入り、かつ負傷した僕は走り切るだけで精一杯のレースをし高校陸上を引退しました。

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さてここまで書き、察していただけるでしょうが僕の高校時代の忘れられないレースは愛知県高校総体1500m決勝です。僕は走る前に(3000mSCに絞ったほうが東海大会を狙えるのでは)なんて考えてしまっていました。
もちろんどんなレースもその日の実力の結果だとは思っています。しかし自信が持てなかった、そして逃げの考えに走ってしまっていた自分は一瞬の勝負の分かれ目を逃しており、負けるべくして負けたレースで、走る前から負けが決まっていたんだなと思います。

インターハイ3000mSCでの凡走、これはこれでとても悔しい想いをしましたがあのレースはできる準備はできていたと思います。強いて言えば、県総体で2位になるまで見えていなかった舞台であり、高校陸上そのものの準備不足で3カ月でできる準備はしたと思います。

中学時代県大会の予選でぼこぼこにされた自分が、満足がいかないとは言え高校では県7位になれたことが自信につながり、3000mSCで自信をもって戦えたことに繋がったのは事実です。

ただ分かるのは自分は圧倒的に精神的な準備ができていませんでいた。高校生なんだからがむしゃらに行けよと今では思うのですが、当時何が足りなかったのでしょうか。今振り返ると、負けん気は強いが練習は嫌い。練習もするが勉強もしたい。むしろ勉強のがしたい感情の方が普段は強かったかもしれません。(さすがに試合前は試合にやる気満々だった)
ようするに自信がつけられるほど陸上に掛けてなかったように感じます。そしてそれを心のどこかで分かっていたような気がします。

だからこそ色んな面で自分に伸びしろを感じましたし、陸上にどっぷりつかってみたいと思い、大学でも陸上を続けたいと思うようになったんだと思います。これは走ることが好きになったというより、ようやく競い合うことの面白さを覚え、陸上を心の底からやりたい思い始めました。以前ツイッターで見たハイキューの1シーンを引用させていただきます。

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レースを動かせるだけの力がなければそのレースを100%楽しめはしないんだというのを僕はインターハイ路線で3000mSCで勝ち進み、1500mでは0.07秒の僅差で負けて理解しました。どちらの種目でも今まで感じたことない楽しさ・高揚感・悔しさ・未熟を実感したのを今でも覚えています。

高校時代の自分は1500mで負けるまでそもそも自信がなく、ずっと勝負の土俵に立てていなかったこと、そんな人間に一瞬の駆け引きは見えるわけがなく勝負を楽しむには程遠かったんだと思います。

この悔しさと陸上を始めて6年目にしてようやく分かった陸上の面白さが大きな理由となって、大学で競技を続けることを強く決意しました。

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あまり箱根駅伝に関わる話ではないですが僕にとってはここが筑波大学への始まりであるため書かせていただきました。
あれこれ書きましたが、高校時代は速く走るには何が必要かをあまり考えずに練習し、ただ走ってるだけの陸上人生だったんだなと思います。(笑) また当時あまり何も考えずに走ってしまったが故に高校2年から3年に上がる春休みで、なぜ急に強くなれたのかが未だに分かりません。ラストイヤーで純粋に走る量と補強を増やしたのがうまくハマってくれた気がしますし、身長に対して必要な筋肉がようやく揃ったのがそのタイミングだったような気もします。

さて、医学部を目指す僕はその後は走ることなく受験勉強に専念しますが、あっけなく浪人が決まり、浪人中は走ることなく勉強に励みます。

さて、今日はこの辺まで、、、まだまだ続くのでお楽しみに!!


*余談
実はこのマガジンは1記事30分で仕上げれば800字くらいで記事をたくさん記事を書けるかなと思っていたのに、最初の記事で1時間半かけ、3000字あります(笑)
次回からは少し減らし気味で回数続けることを目標に頑張ります。





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