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鶴と恩返し

昔々ある村に、一人暮らしの農民で、四郎太という若者が住んでいました。

寒い冬の日、四郎太は大きく美しい鶴が罠にかかって苦しんでいるのを見つけました。心優しい四郎太は鶴が可哀想になり、罠から助け出し、傷ついた足を治療してあげることにしました。四郎太は、農作業のかたわら治療師をしていた亡き父から薬草の知識を受け継いでいたので、怪我の治療には自信があったのです。
鶴は四郎太の気持ちがわかったのか、治療の間、大人しく四郎太に身体を預けていました。そして治療が終わると優雅に翼を広げて空に舞い上がりました。鶴は四郎太の頭上で別れを惜しむように大きく旋回し、一声高く鳴いてから北の山の方へ飛んで行きました。

翌日の夜、見たこともないほど美しい女の人が四郎太の家を訪ねて来ました。見ると足に包帯を巻いていました。
「私は田鶴と申します。もしご迷惑でなければ、一晩泊めていただけませんでしょうか」
女の人は気品あふれる声で四郎太に一晩の宿を頼みました。四郎太は驚き戸惑いましたが「足を怪我している上に雪で道を見失って困っている」と聞くと何とかして助けてあげたくなり「見ての通り狭く貧しい家ですが、それでもよろしければ」と泊めてあげることにしました。

雪はその後二日ほど降り続いたため、外には出られませんでした。田鶴は四郎太の家の、男の一人暮らしで滞っていた家事を手伝い、家をすっかり明るくピカピカに磨き上げてしまいました。そして空いた時間に四郎太といろんな話をして楽しく過ごしました。ただし田鶴は、自分の身の上に関してだけは上手く話を逸らして何も語りませんでした。
それでも二人はとても気が合ったので、時間とともにどんどん心の距離を縮めていきました。

三日目に雪は止みました。
四郎太は楽しい時間が終わってしまうことを悲しく思いましたが、それは高望みというものです。ところが田鶴が「何のお礼もしないまま去るわけにはいきません。せめて織物を織らせてください」と言うので「もう少しだけ一緒に過ごせる」と四郎太は喜びました。その頃には二人は離れがたい思いを抱くほどになっていました。

四郎太の家には亡き母が残した小さな機織り機がありました。
田鶴は奥の部屋に行くと「四郎太さん、私が織物を織っている間、絶対に部屋を覗かないでください。もし見られたら、私はその場で姿を消さなければなりません」と言いました。
四郎太は訳がわかりませんでしたが、田鶴の言葉には冗談とは思えない真剣さがあったので「言うとおりにする」と言い、部屋を覗かないことを約束しました。

翌日の朝、一晩中響いていた機織りの音が止みました。四郎太は田鶴のことが気になり、結局一睡もできませんでした。
やがてふすまが開き、最上級の絹織物でも敵わないほど艶々と輝く織物を持った田鶴が現れました。四郎太は織物の見事さに圧倒され声を失いました。
「これをあなたに差し上げます。売ってお金に換えてください」と田鶴は織物を四郎太に手渡しました。
「こんなに素晴らしい織物は見たことも聞いたこともない。もったいない。これは受け取れない」と四郎太は田鶴の申し出を慌てて断りました。
「いいえ。これは私の命そのもの。心からのお礼の品です。ぜひあなたに受け取っていただきたいのです。お望みであればもう一枚織って差し上げても構いません」
田鶴は気丈に振舞っていましたが、身体の芯から消耗しているのが四郎太にもわかりました。口が裂けても「もう一枚」などとは言えません。
「ではこの織物は、ありがたくいただきます。でももうこんなに大変な仕事はしないでください。あなたの身体が心配だから」
「私の身を案じてくださるのですか」四郎太の優しい気持ちがこもった言葉に田鶴の目から涙が溢れました。

それからふたりは四郎太が用意していた質素ながら温かい朝ご飯を一緒に食べました。ご飯の後、田鶴は横になって休みました。
そして昼過ぎに、田鶴は何度も何度も別れを惜しみながら四郎太の家を去って行きました。

四郎太は一人暮らしの日々に戻りました。
長年そうして生きてきたので、今さら何の問題も無いはずでした。
しかし四郎太の心に「喪失感」というやっかいな魔物が住みついてしまいました。こんなことは両親を失った時以来かもしれません。いや、あの時はまだ幼くて右も左もわからず大きな不安感があっただけでしたが、今回はもっと胸が締め付けられるような苦しさがあります。四郎太は何としても田鶴にもう一度会いたいと思いました。ですが探す手がかりがありません。
「そうだ、あの織物」
四郎太は思いつきました。田鶴が残した織物はあまりにも見事で「誰にでも織ることができる」というレベルではありません。織物を専門に扱う商人ならば品を見ただけでその織り手がわかるかもしれません。
四郎太は田鶴の織物を大切に風呂敷に包むと、村から半日ほど離れた、殿様の城下である大きな町に出かけて行きました。

町には何軒も呉服屋がありましたが、四郎太はその中でも最も立派で最も大きな桔梗屋という呉服屋を訪ねました。殿様に献上する服も扱う超高級店です。四郎太がこんなお店を訪ねるのは、もちろん生まれて初めてです。
「ごめんください」
薄汚い恰好をした四郎太が入って来たのを見て帳場に座っていたやせっぽちの番頭は露骨に嫌な顔をしました。
「何か御用でしょうか。当店は最高級の服しか扱っておりません。失礼ながら、お客様には不向きな店ではないかと思うのですが」と、番頭は帳場から出てくると、とても無礼な言い方で四郎太を追い払おうとしました。四郎太も自分が分不相応であることはよくわかっています。
「あのう、この織物を見てほしいだけなんです。とても素晴らしいものです。こちらのお店なら誰が織ったものか、わかる方がいるのではないかと思ったのですが」
「あなたね。人が優しく言っているうちに帰ってくれませんか。じゃなきゃ力自慢の者を呼びますよ」
「商いの邪魔はしませんので、何とかお願いします」
番頭は簡単に引き下がりそうにない四郎太の態度にイライラし始めました。

その時、店の奥から恰幅の良い店の主人らしい男が、堂々とした足取りで出てきました。歳の頃は四十代半ば。血色が良く、いかにも精気にあふれています。どうやら四郎太と番頭とのやりとりを聞いていたようです。
「どうした、何か問題でもあるのか?」
「この男が、持参した織物を見てほしいと言うんですが、どう見てもお金も持っていないし、ただの冷やかしだと思います」番頭は、主人らしき男に威厳ある声で問い詰められて怯えながら答えました。
「わしはこの店の主人で桔梗屋平治という。うちは見ての通りの呉服屋だが、いったい何の用だ」
四郎太は桔梗屋に睨まれ顔が赤くなるのを感じました。しかしここが正念場だと思い、気持ちを奮い立たせました。
「桔梗屋さん、確かに俺は貧しい村の者ですが、この織物をどうしても見ていただきたいのです。これはただの織物ではありません。ぜひともあなたの目で確かめていただけませんか」桔梗屋の目が鋭くなりました。四郎太のことをどう扱うべきか決めかねているようです。
「それほど言うのなら見せてみろ」やがて桔梗屋は不機嫌そうな声で答えました。
四郎太は大事に風呂敷に包んでいた織物を台の上に置いて広げました。その瞬間、店内が輝きに包まれました。織物はまるで生命を宿しているかのような気高さがあり、侵しがたい美しさを放っていました。
「これはまさか」
桔梗屋は目を見開くと、四郎太の胸倉をつかんで叫ぶように言いました。
「おい小僧、この織物をどこで手に入れた」
四郎太は桔梗屋の態度が変わったことに恐怖よりむしろ希望を感じました。静かに桔梗屋の手をほどくと「俺もそれを知りたいのです」と落ち着いて答えました。
「それを織った人は名前を田鶴と言いました。しかしどこに住んでいるのかまったくわからないのです。この織物を見せれば、何か手がかりが見つかるかと思ってここに来ました」
「田鶴だと…。小僧、間違いないな」
「間違いありません」
「そうか。それで小僧、お前はその田鶴を探しているのか」
四郎太がうなずくと、桔梗屋はしばらく考えた後、店の奥から一冊の古い書物を持ってきました。それは様々な織物とその技法、そしてその作り手について詳細に記録された書物でした。
「この中に」
四郎太は桔梗屋がページをめくる様子を無言で見つめました。やがて桔梗屋はあるページで手を止めました。
「見ろ、ここに書かれている。この織物は『天女の織り』と呼ばれるものだ」
「天女の織り」
「そうだ。めったに世間に出ないとても貴重なものだ。そもそも何の糸で織られているのかもわからない。この世界で長く商売をしてきて、ありとあらゆる織物を扱ってきたわしですら、若い頃に偶然一度見たことがあるだけの幻の織物だ」
専門的な知識が無い四郎太でも「並の織物ではない」ことはわかっていましたが、さすがにそれほど貴重なものだとは思っていませんでした。
「しかもこの『天女の織り』は、人には決して織ることができないとされている。どこまで本当かはわからんが、これを織ることができるのは精霊の森の奥に住む天女だけだそうだ。鶴に化身した天女が自らの羽毛を抜いて霊力を込めて織り込むことでこの織物が完成するのだという」
「しかし、桔梗屋さん、これはたしかに田鶴さんが織ったものです」
「だからその田鶴が天女だったということになるな」
「田鶴さんが天女?」
四郎太はその言葉に驚きましたが、心の中では何かが繋がったような気がしました。田鶴さんは人ではなかったのか。あの美しさ、あの気品、どこか謎を秘めた態度。天女だと言われた方が納得できる気がする。天女は時に動物に化身するとも聞く。そう言えば田鶴さんは足を怪我していたようだった。ひょっとすると、自分が前日に助けたあの大きくて美しい鶴は田鶴さんが化身した姿だったのか。だから自分などのところにお礼をしに訪ねて来たのか。なるほどそうか。だが天女であろうが人でだろうが、そんなことはどうでもいい。
「どうにかして田鶴さんにもう一度会いたいのです。桔梗屋さん、何か方法は無いのでしょうか」
「方法か」
桔梗屋はにやりと笑いました。
「無いこともないが、それをお前に教えてわしに何の得があるというのだ」
「それは…」
たしかにそうです。さすがに「無償で情報をよこせ」というのは虫が良すぎます。
「ではこの『天女の織り』を差し上げましょう。田鶴さんにもう一度会えるのであれば惜しくはない」
桔梗屋の顔がパッと輝きました。
「そうか、そうか。お前、よほど田鶴に惚れているのだな」
桔梗屋の声は興奮のせいで上ずっていました。
「わかった教えてやろう。いやそれだけじゃない。田鶴を探す手伝いもしてやろう」
「本当ですか、ありがとうございます」
それから桔梗屋が教えてくれた手がかりは大したものではありませんでした。
「北の山を目指して行くといい。北の山に繋がる森が精霊の森だ。その奥に世にも美しい泉があって、そこに天女が住むという」
「本当ですか」
「絶対に間違いない」
桔梗屋はそこは妙に自信あり気でした。
「ですが俺は森には詳しくありません。どうすればその泉にたどり着けるのでしょうか」
「安心しろ、わしも行く。あの辺には詳しいのだ。まかせておけ」

思わぬ展開に四郎太はすっかり気分が高揚していました。
地に足がつかないまま桔梗屋を出て、家に帰ろうと都の通りを無防備な様子で歩いていると、ひとりの男がすすっと近づいて来て上目遣いで「ちょっとお伺いしますが」と話しかけてきました。見るとどこか怪し気で油断のならない感じの男です。四郎太は急に現実に引き戻された気分になりました。
「こう言っちゃ失礼ですが、あなたは桔梗屋のような高級呉服店に縁のある方には見えません。いったい何の用だったんです」
四郎太は「いきなり失礼なことを聞く男だな」と思いましたが、あまり関わり合いにはなりたくなくて「親の形見の反物を売りに行ったのです」と適当な嘘をつきました。
「よほどの価値がある品に見えましたが、まさか盗品などではありませんよね」と男は重ねて聞いてきました。眼光もかなり鋭くなっています。
四郎太は店の中でのやりとりが知られてしまっていることにとても驚きました。
「私は生まれてこのかた、人様の物に手をかけたことなど一度もありません。言いがかりはよしてください!」
四郎太は思わず大声を出してしまいました。道行く人たちが遠巻きに好奇の目を向けています。男はそれを見て舌打ちをすると「いいでしょう」と言って四郎太から離れて行きました。
「何だったんだ、いったい」
四郎太は狐につままれたような気分でしばらく往来の真ん中に立っていました。

翌朝、店の前で桔梗屋の一行と合流し、四郎太は精霊の森を目指しました。
あちこちにまだ雪が残る寒い日でした。
昼頃、背後に山を控える森の入り口着いた一行は、最初は木々の間を縫って延々と続く獣道をひたすら歩き続けました。

桔梗屋の一行は五人ほどでした。桔梗屋以外はとても呉服屋には見えない、腕に自信がありそうな逞しく荒っぽい男たちでした。
その男たちを束ねているのは吉次という男でした。口数が少ない男で、歳は四郎太の十歳ぐらい上だと思います。四郎太が「森にこんな道があるなんて知りませんでした」と話しかけても「そうだな」と素っ気なく答えるのみでした。

歩きづらい道を悪戦苦闘しながら一行が一時間ほど進み続けた頃、先を歩いていた吉次が「うっ」と短く唸ると、右手を押さえ、その場にうずくまりました。
「どうしたんですか、吉次さん」
「オオドクガの卵だ。くそ、うっかり触ってしまった」
そう言っているうちに吉次の右手がみるみる腫れ上がっていきました。指の太さが倍になったようです。身体全体も細かく震えていました。
「吉次、お前が足手まといになってどうする」
桔梗屋が不機嫌そうに言いました。
「見せてください」
四郎太は丸太のようになった吉次の手を取ると、自分の荷物の中から消炎効果のある薬を取り出して丁寧に塗ってあげました。
「これで少しは楽になると思います。オオドクガの毒は強いですが、消えるのも早いので明日にはすっかり治ってますよ」
「すまない。迷惑をかけるな」
きれいに包帯が巻かれた右腕を見ながら吉次が言いました。
「いいえ、気にしないでください」
四郎太は吉次に肩を貸してあげました。桔梗屋はため息をつきながら他の男たちに「誰か吉次の荷物を持ってやれ」と命じただけでした。
ふらふらしながらお互いを支えるようにして四郎太と吉次は歩き出しました。幸いなことにすぐに獣道は終わり、一行は広けた場所に出ました。難所を抜けたことでみんながホッとしている様子でした。
落ち葉が敷き詰められた地面にはまだ雪が残っています。見上げると周囲はとても背の高い木々に囲まれています。まさに深い森の中という感じです。これまでの獣道に比べると、木と木の間隔が空いたので歩きやすくはなりましたが、薄暗い上に木々の間から何かが出てきそうで四郎太は落ち着きませんでした。
「泉はまだまだ遠いのですか」
こんな場所には生まれて初めて来ました。昨日までの生活を考えると夢の中にいるような気がします。
「明日にはたどり着けるだろう」と桔梗屋が言いました。
四郎太は森には不慣れでしたので、何事も桔梗屋の言葉を信用するしかありません。
「吉次さんは桔梗屋さんで働いて長いのですか?」
四郎太は不安を紛らわせるために、吉次にあれこれと話しかけました。
「好きで働いているわけじゃない」予想以上に激しい口調で吉次の答えが返ってきました。桔梗屋が恐ろしい目で睨みつけてきたので、四郎太と吉次はそれ以上話を続けることができませんでした。
一行は黙って歩き続けましたが、それほど進まないうちに辺りがどんどん暗くなってきました。体力的にも限界が近くなっています。
気づけは目の前に、この森の中でもひときわ大きく高い木がありました。森の主のような風格があります。桔梗屋はその木の根元に腰を下ろして言いました。
「今日はここで休む」
完全に暗くなってしまう前に一行は野営の準備をしました。簡単なテントのようなものを張り、携帯してきた夕食を摂りました。
「今日はすまなかったな」
四郎太の隣に座った吉次が小さな声で話しかけてきました。
「いえいえ、あれは吉次さんのせいではありませんよ。それに元々は俺のわがままな思いから始まったことです」
「たとえそうだとしてもだ。お前には借りができた」
「そんな。考えすぎですよ」
しかしそれ以上、吉次は話をしませんでした。
夕食後は明日に備え、早めに寝ることになりました。四郎太はとても疲れていたので横になると、あっという間に眠りに落ちました。

翌朝、目が覚めた時、四郎太はいったい自分がどこにいて何をしているのかわからずパニックを起こしそうになりました。なぜなら森の中の大きな木に縄で縛り付けられ、身動きがとれなくなっていたからです。
持って来た荷物も無く、一緒に来た桔梗屋たちの姿も見えません。
「桔梗屋さん、吉次さん。どこにいるんですか!おーい、誰か。誰かいないか。誰か」
四郎太は大声を出しました。しばらく四郎太は助けを呼び続けましたが、誰も姿を見せません。
「自分は桔梗屋に騙されたのだろうか?でも何のために?」
喉が痛くなるほど叫び続けた後、四郎太は急におとなしくなりました。誰も助けてくれないことがわかって四郎太はとても怖くなりました。身体はすっかり冷え切っています。このままじっとしていたら衰弱して死んでしまうでしょう。何とかこの縄を解いて逃げ出さなきゃいけません。ですが縄はとても丈夫で鋭い刃物でも使わないと解けそうにありませんでした。

「寒い…」
四郎太は身体の震えを止めることができませんでした。不思議と怒りは感じませんが、寂しい思いはありました。
「俺はこのまま死ぬのだろうか。せめてもう一度だけでも田鶴さんに会いたかったな」
四郎太は空を見上げました。青空ではありません。木々に囲まれた真っ白な空。
「あれは?」
しばらく四郎太が空を見ているとその空の端の方に、ひとつ小さな黒点が現れました。「何だろう」と思っているうちに、それは徐々に大きくなっていきました。どうやらこちらに近づいて来ているようでした。
四郎太は何の期待もせず、ただじっとその黒点を見ていました。すると空から一声鋭い鶴の鳴き声が響いてきました。そうです、その黒点は鶴でした。それもかなり大きな鶴のようでした。
「もしやあれは」その時、初めて四郎太の気持ちに希望の光が刺しました。
まもなくその鶴は大きな羽音をさせながら、優雅に四郎太の前に降り立ちました。間違いありません、かつて罠にかかって苦しんでいたところを四郎太が助けてあげた、あの鶴です。
四郎太が目を見開くようにしてその鶴を見ていると、鶴は静かに首を振りました。四郎太が首をかしげていると、鶴は何度も首を振ります。
最初のうち四郎太は鶴のしぐさにどんな意味があるのかわかりませんでした。ですが突然四郎太は悟りました。鶴は人が見ていると、天女の姿に化身できないのではないだろうか。四郎太は力いっぱい目を閉じました。絶対に何も見ていないという四郎太なりの意思表示です。ほんの短い間がありました。やがて、すべすべしたやわらかい手が四郎太の頬を包みました。そして声が聞こえました。
「目を開けてください、四郎太さん」それは懐かしい田鶴の声でした。

田鶴は小刀で縄を切って四郎太を助け出しました。四郎太は自由を取り戻すと、ふらつく足で田鶴に近づき、その手を取って言いました。
「田鶴さん、ありがとう。俺はどうしてもあなたにもう一度会いたくて、ここまで来ました。でもなぜかこんなことに…」
「誰がこんなことをしたのか、私は知っています。この森の中で起こることは何であれ、すべて私に報告が来るのです」
「そうか田鶴さん、あなたは…」
「四郎太さん、もうおわかりでしょうが、私は人ではありません。ですから本当はもうあなたにはお会いしないつもりでした」
「やはりそうか」と四郎太は思いました。しかしそれも覚悟の上です。
「わかっています。それでもひと目会いたくて。本当にそれだけだったんです。田鶴さんにご迷惑をかけるつもりもありません」
「決して迷惑などでは…。私もお会いできて本当に嬉しいのです」
その時、ガサガサと音を立てながら、背後の木の陰から桔梗屋の一行が姿を現しました。
「あなたたちですね、四郎太さんをひどい目に遭わせたのは」
田鶴の表情に怒りの色が差しました。恐ろしいほど整っている田鶴の顔に浮かんだ怒りの表情は、見る者を凍り付かせるほどの威厳を持っていました。しかし桔梗屋はひるんだ様子を見せませんでした。
「そう怖い顔をするものじゃない、田鶴。わしが誰だかわからないのか」
「あなたなど知りません。ですが、決して許すつもりもありません」
「それはそうと田鶴、母はどうした。精霊女王は健在か?」
「なぜそれを…あなたは母を知っているのですか」
田鶴の表情に怒りに代わり戸惑いが現れました。
「母は5年前に亡くなりました。今は、私がその後を継いで精霊女王の座にあります」
「なるほどそうか、あいつは死に、お前が今の精霊女王か」
その言葉を聞いて田鶴は悪寒が走ったように体を震わせました。
「では、もしやあなたは」
「そう。田鶴よ、わしがお前の父だ」
田鶴は大きく目を見開くと、急に身体から力が抜けたように、その場に膝をついてしまいました。
「田鶴さん、大丈夫ですか」
四郎太が地面に倒れこみそうになった田鶴を両手で支えました。しかし四郎太自身にも力があまり残っておらず、気を張らないと共に崩れ落ちそうでした。
「お前たち、二人を縛り上げろ。続きは店に戻ってからだ」
桔梗屋は連れて来た男たちに命じました。衰弱気味で身体に力が入らない四郎太と精神的なショックで放心状態の田鶴は屈強な男たちによって苦も無く拘束されてしまいました。
森の外れまで運ばれた二人は、そこで待っていた馬車に乗せられ、そのまま桔梗屋に連れて行かれました。

話は二十年ほど遡ります。
当時、桔梗屋平治はまだ桔梗屋を継ぐ前で若旦那と呼ばれていました。
裕福な呉服商の跡取り息子だった平治は、ある時、偶然手に入った世にも美しい織物「天女の織り」を見て、これを何とかして独占したいと思い、あれこれと調査を重ねました。
そして「天女の織り」は、昔、ある男が精霊の森で手に入れたものであることをつきとめました。
「天女の織り」の作り手を探して精霊の森に入り込んた平治は森で毒蛇に襲われ瀕死の重傷を負いました。それを助けてくれたのが当時の精霊女王、田鶴の母でした。
元来が遊び人で女の扱いに長けていた平治は、無垢でうぶな女王を口説き落とし、女王の伴侶の座に昇り、田鶴という娘を得ました。
そして婚姻や出産のお祝いに「天女の織り」を贈られ有頂天になっていました。
ですが精霊の森での質素な暮らしに飽きて、現世の富を追求したくなった平治は女王を騙して「天女の織り」をたくさん生産させようとしました。
しかし「天女の織り」を織るには織り手が贈る相手に対して強い愛情を抱いている必要がありました。
女王は平治の本性を知って彼への愛情が冷めていたため、「天女の織り」を織ることができなくなっていました。平治は「女王がだめなら娘に織らせれば良い」と思い、幼い田鶴を誘拐して精霊の森を抜け出そうとしますが、失敗します。
そして田鶴や携えていた「天女の織り」を取り上げられた後、精霊の森から追放されました。
以降、平治は精霊女王と接触することはできなくなりました。

人間の世界に戻った平治は、やがて家業を継ぎ桔梗屋の主人となりました。
悪賢い男だったので、様々に悪どい手も使いながら事業を拡張し、ついに桔梗屋は都一の大店になりました。

そんな時「天女の織り」を持った四郎太が店を訪ねて来たのです。
桔梗屋は、この男を娘・田鶴が愛して「天女の織り」を贈ったのだと悟りました。
そこで桔梗屋は四郎太を利用して田鶴と再会し長年の悲願である「天女の織り」を手に入れようと画策したのでした。

精霊の森を出た一行は、夕方ごろ桔梗屋に戻りました。
田鶴はそのまま監視が厳しく窓の無い部屋に軟禁されました。もちろん、その部屋には機織り機が据え付けられていました。
「田鶴よ、お前が『天女の織り』を織るまで、この男には食事を与えないことにする。いつまでも強情を張っていると、取り返しのつかないことになるかもしれんな」と桔梗屋は冷たく言いました。
「田鶴さん、絶対にだめだ。俺は簡単にくたばったりはしない。俺のためを思うなら、絶対に桔梗屋の言うことを聞いちゃいけない」
田鶴の前に連れて来られた四郎太は必死で訴えましたが、男たちにひどく殴られて意識を失ってしまいました。
「なんてことを」
田鶴は泣いて四郎太をそれ以上傷つけないよう懇願しました。
「では『天女の織り』を織るのだな」
「はい。わかりました」
田鶴は小さく頷きました。

翌日、田鶴は「天女の織り」を桔梗屋に差し出しました。
身体を痛めながら無理を重ねて急いで織り上げたせいで、顔面は蒼白で足取りもおぼつかないほどでしたが、精いっぱいの力で気品を保っていました。
「おお、これは見事な」
桔梗屋は心から感心しました。
「約束です。四郎太さんを解放してください」
田鶴は震える声で言いました。それを聞いた桔梗屋は憎々しい笑みを浮かべました。
「よかろう。ただし、もう一枚織ってくれたら、そうしよう」
「もう一枚…」
体力の消耗が激しかった田鶴は、桔梗屋の無慈悲な言葉に心を乱し、その場で気を失ってしまいました。
「仕方ない。今夜は大事な仕事もある。田鶴はしばらく休ませるとするか」
桔梗屋はため息まじりに言いました。
倒れた田鶴を部屋まで運んだのは吉次でした。吉次は何か思いつめた表情をしていました。
「桔梗屋め。もう我慢ならねえ」
寝台に横たわる田鶴の苦し気な表情を見ながら吉次はつぶやきました。

その日、日が落ちる頃、藩の財政方を務める加賀竜之進という五十がらみの身分の高そうな武士が桔梗屋をお忍びで訪ねました。加賀は豪華な部屋に通され、桔梗屋から贅を尽くした歓待を受けました。
「桔梗屋。例の取引の件だがな、殿もだいぶ柔らかくはなっておられるのだが、いまひとつ煮え切らない態度なのじゃ。規則を曲げるのがいやなのじゃろうな。何か殿の気持ちをもう一押しできるものがあれば良いのだがのう」
「まったくお殿様は頭が固くていらしゃいますからな。ご自分がご清潔であるのは勝手としても、われわれの商売のやり方にまで口を出されては困りますよ。『水清ければ魚棲まず』と申す言葉もありましょうに」
「そうよな。あまり窮屈な世の中になってはかなわんな」
「まことに、まことに」
役人と桔梗屋は楽しそうに笑いながら酒を酌み交わしました。
「ところで加賀様、このようなものをご存じですかな」
桔梗屋は艶々とした黒漆の高級そうな箱を加賀の前に差し出しました。
「お、いったい何が入っておるのかな」
加賀は嫌らしい笑みを浮かべつつ箱を開けてみました。すると部屋中がパッと明るくなるほどの輝きを放つ純白の織物が現れました。
「おお、何じゃこれは」
加賀は予想外のことに心底驚きました。
「これは『天女の織り』と申す世にも貴重な織物でございますよ。見事なものでございましょう?」
「いや、見事も見事。この世のものとは思えんほどじゃ」
「そうでございましょう。まさにこの織物は、この世のものではないのでございますよ」と言って桔梗屋は「天女の織り」について説明しました。
「何と天女が織ったものとな」
「さようでございます。この織物を贈られた者は天女の加護により、一家安泰、子孫繁栄は約束されると申します」
「なるほどのう」
「どうでございましょう。この『天女の織り』をお殿様にご献上なさっては。必ずや覚えめでたく、例の件もご許可いただけると思いますが」
「近々姫様のお輿入れもある。きっと上手くいくであろうが…」
加賀はそこでおもちゃを取り上げられた子供のような表情になりました。桔梗屋は「欲深いことよ」と呆れながらも「加賀様。世にも貴重な『天女の織り』ですが、手前は幸運なことにこの度、二反、入手してございます。そこで、お殿様のものとは別に、加賀様にも一反差し上げましょう」と言いました。
それを聞いて加賀は見苦しいほどに喜びました。
「本当か桔梗屋。それはありがたい。そうか。よし、わかった万事わしに任せておけ」
加賀はこの夜一番の上機嫌となりました。

翌朝。夜明けも間近な頃。
四郎太は店の奥の母屋の地下にある牢に入れられていました。元々衰弱していた上に、一昨日ひどく殴られたのでまだ立ち上がることもできず、床に横たわったまま弱い呼吸を続けていました。
すると、ひとりの男がそっと牢の扉の鍵を開け、用心しながら中に入って行きました。
「なんてひどい」
男は屈みこんで四郎太の血だらけの顔を覗き込みました。
「おい、お前。四郎太と言ったか。俺の声が聞こえるか」
男は四郎太の耳に口を寄せて語りかけました。四郎太は目覚めていました。
「あ、ああ、吉次さんか」
弱々しい口調で四郎太は答えました。そうです、男は吉次でした。
「しっかりしろ。今、助けてやる」
吉次は四郎太を抱え起こすと牢を出ました。
「こないだは俺がお前に抱えられてたよな。おかしなもんだ」
「吉次さん、どこへ」
「外に出してやる。後は好きにしろ。どうせもうすぐ桔梗屋の野郎はお縄になるんだ」
「どういうことですか」
「役人が踏み込んで来るのさ。さすがの桔梗屋もお終いだ。帳簿なり何なり悪事の証拠は全部俺が揃えておいたからな」

聞けば、吉次は若い頃刃傷事件を起こして、お尋ね者になっていたところを桔梗屋に拾われ、それ以来、ずっと悪事の片棒を担がされてきたということでした。吉次は目端も利くので桔梗屋に重宝され、荒っぽい仕事から当局の目を盗んだ不正取引まであらゆることに関わってきました。
そしていつの間にか桔梗屋の娘と恋仲になって、夫婦にもなり、今や吉次は桔梗屋の義理の息子でもありました。
「そこまで深い関係にはなったが、どうにも俺は桔梗屋の非道さだけは我慢がならねえんだ。俺だってろくな人間じゃねえよ。しかしな、やつは欲のためなら親でも兄弟でも見境なしだ。女子供でも容赦しねえ。鬼だよ。いつかは必ず俺もあいつに使い捨てにされると思ってたよ」
吉次は気を取り直すように首を振りました。
「そんな折だ、目に余る桔梗屋の所業を日の元に晒したいと奉行所が俺に接触してきた。早い話が桔梗屋を裏切れってことだな」
四郎太はいつぞや往来で「桔梗屋に何の用事があったのか」と話しかけてきた男のことを思い出しました。今考えると、あれは桔梗屋を見張っていた奉行所の密偵だったのでしょう。
「恩も十分に返したし、女房にもそろそろ足を洗いたいと話していた俺は、その話に乗った。そこにお前が現れたんだ。いい潮時ってやつだ」
吉次は自嘲の笑みを浮かべました。
「吉次さん、田鶴さんを助けなきゃ。俺は田鶴さんを置いて逃げるつもりはありません」
「落ち着け。お前、自分の姿をよく見てみろ。まともに歩けもしないのにどうやってあの女を助けるって言うんだ。桔梗屋に捕まって人質にでもなったら迷惑ってもんだ。ここは俺に任せておけ。それにな、俺はあの女から伝言を預かっている」
「田鶴さんから伝言?」
「ああ。『森のあの木の前で待っています』とさ」
四郎太は悔しい思いでいっぱいになりましたが、確かに今の自分では何の役にも立ちません。田鶴のためにも、素直に吉次の言葉に従うことにしました。
やがて夜は白々と明けて来ました。
苦労しながらどうにか二人は店の裏口にたどり着きました。
「これを持っていけ」
吉次は最初に四郎太が店に来た日に持参していた「天女の織り」を懐から取り出すと、四郎太に手渡しました。
「これはあの女がお前のために織ったものだろう。他人に渡しちゃいけねえよ」
四郎太は「天女の織り」を受け取ると、その織物があたかも田鶴本人であるかのように強く抱きしめました。
「じゃあ達者でな」
吉次はそういうと裏口に四郎太を置いたまま、表に向かって走って行きました。
残された四郎太が裏口から外に出てみると、周りはすっかり奉行所の捕り方に囲まれていました。誰も逃げ出さないようにしているようです。
「お前は見逃してやる。さっさとここから離れろ」
捕り方のひとりが四郎太に声をかけてきました。それはいつぞやの密偵でした。

店の表に回った吉次は、そこで待機していた奉行所の与力・同心と合流しました。そしてそのまま捕り方と一緒に店に踏み込みました。表の閂はすでに外してありました。
「御用である、神妙にいたせ」
捕り方を率いる筆頭与力の木村多門は声高に叫ぶと、あらかじめ決められていた手順に従い、部下たちをてきぱきと動かしました。
吉次は帳場の奥の隠し箪笥から桔梗屋のこれまでの数々の不正を記録した裏帳簿を取り出すと、そのすべてを木村に渡しました。
「吉次、大儀であった」
木村が吉次の肩を叩いてねぎらいました。吉次は気が抜けたように、その場に座り込み、誰に言うともなくつぶやきました。
「さて、あの天女。本当に大丈夫なんだろうな。俺はもう何もできねえぜ」

捕り方は桔梗屋の中を走り回り、店の者たちを一か所に集めました。いつか四郎太に意地悪をしたやせっぽちの番頭もその中にいました。
「御用である。神妙にいたせば怪我をすることもないぞ」
奥の客間で女とともにだらしなく寝ていた加賀竜之進も同心に叩き起こされました。
「わしを誰だと心得る。藩の勘定方・加賀竜之進であるぞ。無礼は許さぬぞ」
加賀はしばらく抵抗していましたが駆けつけた木村に「加賀様、上意でございます。申し開きは殿の前でおやりなされ」と言われ大人しくなりました。

店の奥。
桔梗屋の寝室に踏み込んだ捕り方たちは、寝所がもぬけの殻であることを発見しました。
「桔梗屋め、どこに隠れおった」
長い準備期間を経た後の、満を持しての捕り物です。しかし肝心の桔梗屋を取りのがせば何にもなりません。奉行所の役人たちは焦りました。
「吉次を呼んでまいれ」
木村に呼ばれた吉次は、田鶴が軟禁されている隠し部屋について教えました。
その部屋は一見廊下の突き当りにしか見えない壁を扉としていました。
「ここを」
吉次が柱に巧妙に埋め込まれていた取っ手を引くと、その壁が回転し、奥に部屋が現れました。
「踏み込め!」
木村に命じられて捕り方が一斉に部屋に踏み込んで行きました。

隠し部屋には窓や扉こそありませんが、装飾は豪華で、大きな寝台もある贅沢な部屋でした。広さも一度にニ十人は軽く入れるほどです。
「こちらに来るんじゃない。この女がどうなっても知らんぞ」
捕り方が部屋いっぱいに展開しながら入って行くと、寝台の前に立ち、田鶴の喉元に刀を突き付けている桔梗屋が大声で威嚇しました。
「あの女は誰だ」
木村は吉次に尋ねました。
「田鶴という女です。天女だとも言われてますがね」
「天女だと」
「しかも桔梗屋の娘でもあるとか」
「どういうことだ。ふざけておるのか?」
木村は不快気に顔をしかめると前に出て桔梗屋と向かい合いました。
「わしは奉行所筆頭与力・木村多門である。桔梗屋、証拠は全て押さえた。もはや逃れられぬ。その女を離し、神妙にお縄につけ」
「何だと。おい吉次、お前、裏切りやがったな。娘までくれてやったというのに。この恩知らずめ」
木村の脇に立つ吉次を認めると、桔梗屋の怒りは吉次に集中しました。
「桔梗屋、お前こそ人の弱みに付け込んで今まで好き勝手してくれたな。お辰もな、いい加減、お前とは縁を切りたいとよ」吉次は桔梗屋の娘で自分の女房であるお辰の名前を出しました。
「何だと。畜生め。わしは絶対にこんなところで捕まったりはせんぞ。さあ道を開けろ。この女を死なせたいか」
「桔梗屋、いい加減にせい。この中を逃れられるものか」
木村の声に桔梗屋は冷たい笑いを浮かべました。
「であればこの女共々死んでやる。田鶴、父とともに死ね」
桔梗屋が突き付けていた刀を一度引いた瞬間、田鶴は素早く反転し、桔梗屋を突き飛ばしました。不意を突かれた桔梗屋は、その場に転倒しました。怒りで顔を真っ赤にした桔梗屋は、立ち上がりざま刀を振りかぶって田鶴に切りつけようとしました。
「控えなさい、皆の者」
その時、田鶴が鋭く叫びました。その声には気品と威厳が溢れており、聞いたものは思わず動きを止めてしまいました。中には膝まづく者すらいました。桔梗屋も刀を振り上げたまま固まってしまいました。
「桔梗屋、あなたがその懐に隠しているもの。それは私が昨日あなたに渡した織物ですね」
桔梗屋は思わず懐をさぐって織物の感触を確かめました。
「それがどうした」
「それはあなたのために私が心を込めて織ったものです。大事になさい。ただしそれは『天女の織り』ではありません」
その言葉に桔梗屋はぎょっとした表情を浮かべました。
「それは『ドクガの織り』です。触れたものは皮膚がただれ、高熱を発する呪われた織物です」
「何を馬鹿な。昨日からわしは何度もこの織物に触っているが、何ともないぞ」
「それは私が天女の霊力で効果を抑えているからです。だけど、鶴の姿に化身すれば、そうもいかないでしょう」
口を閉じた田鶴の全身が光り始めました。
「待て、待て。これは何かの間違いだ。田鶴、早まるな」
「みなさん、あとはお任せします」
田鶴はひとこと言い残して、みんなの前で鶴に化身してしまいました。誰もが信じられない光景を見て、呆然としてしまいました。
大きな美しい鶴となった田鶴は、そのままバサバサと羽音を立てて低く飛び上がり捕り方の頭の上を超えて部屋の外に出て行きました。皆、それを無言で見送ることしかできませんでした。
しかし「おおおおお、誰か助けてくれ」と突然、桔梗屋が大声を上げて床を転がりまわって苦しみ始めたため、ようやく全員が我を取り戻しました。

四郎太は捕り方たちが桔梗屋に踏み込んで行った後も衰弱が激しかったため、しばらくは裏口の辺りでうずくまっていました。しかし不思議なことに「天女の織り」を抱きしめていると徐々に体力が回復し、身の内に力がみなぎってきました。どうやら怪我も治っているようです。
「不思議なこともあるものだ。これも天女の力なんだろうか」
四郎太は田鶴の美しい顔を思い出して胸が苦しくなってきました。
「そうだ。やっぱり俺は田鶴さんを置いては行けない」身体が動くようになってきたので、四郎太は田鶴を助け出すためにもう一度桔梗屋に戻る決心をしました。
そして立ち上がって裏口からまた屋敷内に入って行こうとした時、屋敷の奥の方から白く輝く何かがこちらに向かって飛んで来るのに気づきました。
「危ない」と思った四郎太は思わず伏せて、その白いものをやりすごしました。
「何だったんだ?」
四郎太が振り返って見た時、その白いものはもう表に出てしまっていました。そこで四郎太はあることに思い当たりました。
「もしや今のは」
四郎太はそう言い捨てて、慌てて外に駆け出しました。まだ朝の早い時間で人の往来は多くありません。四郎太はすばやく周りを見回してみましたが、商家の塀が続くばかりで、それらしきものは見当たりません。四郎太は「天女の織り」を握りしめたまま心が焦りでいっぱいになり、大声をあげそうになりました。
するとその時、遥か上空から甲高い鶴の鳴き声が降って来ました。
反射的に空を見上げた四郎太の目に、鮮やかな青空を背景に優雅に旋回する一羽の美しい鶴の姿が映りました。
「おお」
四郎太はそこでようやく心の底から安ど感が沸き上がってきて、思わず涙が出てきました。

あるとても寒い冬の朝のことです。
ですが、四郎太はちっとも寒さを感じませんでした。

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