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『個について』について

もう言うまでもない、できれば言いたくもない、昨今の状況である。
通り魔事件などの容疑者が動機として「むしゃくしゃして」と言う、今までなんじゃそりゃ?と思っていたが、今はわかる。まさに今多くの人が、いや少なくともわたしは「むしゃくしゃして」いる。だからといって「誰でもよかった」とか言いつつ、自分より弱いものだけを器用に選り出して傷つけようとかは一切思わないが。
「村八分」「自警団」「隣組」「誹謗中傷のビラ」「同調圧力」……
今って、2020年だよな。ほんとうだろうか。
日本って、民主主義の国なんだよな。ほんとうだろうか。
果たして、よその先進国のように政府が機能していたら日本でも、日本人も、先進国みたいに振る舞えるようになるのか、それすらも疑問である。

↑これは、昨年の7月に書いたもの。
結局ここなんじゃないのか、おれたち日本人の根っこって、ここに尽きるんじゃないのか、どうしても自分で自分を認められない、誰かに認めてもらいたい、誰かの承認がないと自分で立っていられない、そこなんじゃないのか。だから承認がされないと、自分より立場の弱い人間、責めを負わせやすい人間を踏みつけることで、「そっちじゃないおれ」として何とか自分を維持しようとする。
他人を攻撃する人は、攻撃する相手に依存している弱い人だと切って捨ててもいいけれど、攻撃される側にしたら堪ったものではない。
他人に依らずに、他人からの賞賛でもなく、他人を貶めることでもなく、他人のことを気にせずに自分でいられるようになるには、どうしたらいいんだろう。
「えらいね」「かわいいね」「いいこだね」子どもを褒める際に無自覚に使ってきたこれらの言葉は、「だめだね」「ぶさいくだね」「わるいこだね」の裏返しだ。自己肯定感って、他人と比べることじゃない。
あなたが、わたしが、生きていること、それだけでいいのだ、とどうしたら思えるようになるのか。
へーじゃあそういうおまえはさぞかし自己肯定感に満ち満ちてるんだな?と言われたら、決してそうではないし、他人と比べて落ち込むこともあるし、他人を妬んだりすることもあるし、「あんな奴しねばいいのに」くらいのことは割としょっちゅう思ったりもするが、弱味のある誰かを標的にして叩きたいとは思わないし叩かない。そんなことは意味がない。
そう、自分にとって意味のないことに時間や労力を使いたくないのだ。
むしゃくしゃした気分がすっきりする?そうだろうか。むしゃくしゃしたのなら、自分の好きなこと、心地いいことをして過ごすよ。カロリー気にせず美味しいものをたらふく食べるとか、演劇とか映画とか美しいものを見るとか、思う存分惰眠を貪るとか。
限られた人生の貴重な時間を、自分以外の他人、ましてやどうでもいい見ず知らずの他人のことで浪費したくない。
自己中って、自分を中心に考えるって、一般的には悪く捉えられるけど「他人のことなんかどうでもいい」というのは「他人をないがしろにする」とは違うよな。ましてや「他人を踏みつける」「他人を攻撃する」とも違う。「他人を気にしない」が「やりたい放題のわがまま」に変換されがちというのもある。白か黒か、0か100か、極端から極端へ振れがちなのもどうしてなんだろうと思う。ものごとはグラデーションなのに。
いい意味で「自己中心的」になればいいんじゃないか。
……うーん、「いい意味で」この言い方そもそもあまり好きじゃないし、この文脈で相応しいかどうかも訝しいが。
明日自分が死んじゃうかも、という気持ちでみんな過ごしたらいいんじゃないかな。死ぬ間際に自分の人生を振り返って「あー楽しかった、面白かった、満足した」と息を引き取れるように。そうしたら他人にかまけている暇なんかなくなるはず……と書いて気付いてしまう。
自分が楽しい、面白い、満足するために、誰かを犠牲にしたい人がいるであろうことに。

まだまだだ、ひたすら、ひたすらに考え続けること。
自分の頭で考えること、自分の心で感じること、自分の足で立つこと、それだけは手放すな、自分。

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