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空気・文脈を読む(再考)

ASD(AS)者には、日本社会は生きにくい。結論はそれ一択なのでしょうね。

空気を読むという文化


昔あったKYという言葉。使われなくなりましたが、恐らく空気を読むのは当たり前だから、KYという表現すら不要なのでしょうね。空気は読んで当然。できない人は無意識のうちに排除する。

僕はASDのため、空気や文脈を読むのが苦手です。厳密に言うと、全く気づかないという訳でもなく、定型の方がコンマ数秒で理解する空気や文脈を、30秒遅れで理解したりすることもあります。ただ、通常はそれでは遅すぎるらしく、場は既にしらけていてキャッチアップは無駄なことが多い。必死に盛り返してもいいのかもしれないけれど、受動型のためものを言い出せない。

その後の悪循環

この空気・文脈を読めないことに気づいたASD(AS)者の取れる選択肢は、そう多くない気がします。

  1. それでも物怖じせずに話すという人は積極奇異型にはいるかもしれませんが、普通は難しいでしょう。

  2. そうだとすると、後はコミュニティからフェードアウトするか、

  3. カムフラージュして必死に空気・文脈を読むしかありません。

多大な労力を費やして空気・文脈を読んで、それでも失敗もするのだから3は辛い選択ですが、日本社会はそれ以外の選択肢を許容しているようには思えません。
44年ほど生きてきた経験からすると、空気・文脈を読めない僕のような人間にも他の定型の方と同様に接して下さる方もいらっしゃいますが、多数の方はそうではないと感じています。違和感をもたれると、次第に距離をとられることは少なくない気がします。意識的か、無意識でかは人によるようですが。

マイノリティに生まれて

定型の方とASD(AS)者に見えない壁ができること自体は、お互い自分の認知に合わないのだから自然な反応だと思います。ただ僕の側にとって厳しいのは、ASD(AS)者はせいぜい全体の1~3%程度の圧倒的マイノリティであり、デフォルトでこちらが支持される態勢は存在しないという事実です。日本では欧米とは違い、自己主張の必要性が強調されることも少なく、明文化されない空気・文脈の絶対量が遙かに多いことも災いします。
精一杯マジョリティの定型の方にお願いできるのは、目の前にいる人間は、生まれつきの脳のつくりで空気や文脈を読めないという知識と想像力を持って欲しいということくらいでしょうか。

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