見出し画像

Moon Sick Ep.9

俺は、彼女をベランダに残したまま、部屋に戻った。気持ちを落ち着けようと、グラスにまだ残っていたアルコールを飲み干した。

姉の時のように、決定的な何かを言われた訳じゃない。だけど、彼女の言ったセリフは、何度か姉から聞いたことのあるセリフと同じ内容だった。

「月で暮らすと、人は小さくなっていく」
そんな話は、知らない。聞いたこともない。
姉以外からは…。

姉から聞いた月での話は、それだけじゃない。それだけじゃないが、そんなことも言っていたのだ。さんざん聞かされたから覚えている。

一度想像してみてくれ。
そんなことを口走る姉のことを誰にも言えないまま、一緒に暮らしてきた、高校時代の俺のストレスを…。

そんな姉から離れて暮らすようになって、ようやく取り戻した落ち着いた日々を、俺はまた失うことになるのか?

その時、彼女が部屋に戻ってきた。

何事もなかったかのように、黙ったまま俺の後ろに腰を下ろすと背に寄りかかってくる。背中に、彼女の細くて柔らかい身体を感じた。彼女が、わかってやっているのか、無意識なのかわからないが、その身体から伝わってくる体温は、俺の気持ちをかなり落ち着かせてくれた。

そうだ…。
あんな特異なことを言いだす人間が、そうそういてたまるかっ…。さっきのはたまたまだ…。俺は、自分で思っていたよりも、ずっと、姉のことが心に引っかかっていたのかもしれない。そう思うと、さっきまでの焦りも消えていった。

「月がきれいね」
ふいに彼女が言った。
「えっ?」
「月がきれいね、って言ったの…」
肩越しに彼女の方に視線をやると、彼女は、俺の背中によりかかったまま、月を見上げていた。
「うん、そうだね」
俺も、月を見上げた。

「もう、全然わかってないでしよ?」
彼女が、もたれかかっていた背中から離れて、俺の顔を覗き込んでくる。
「何が?」
「今のはアイラブユーって意味だったのに…」
「そんな暗号みたいに言われたってわかんないよ」
「もう!暗号じゃないからね。日本語だからね」
「いつの時代の話だよ?」
「明治だけど…」
「なんで、わざわざ明治の言い方で言ったの?」
「わざわざ明治の言い方で言った訳じゃないから!夏目漱石だから!」

自分から言い出したくせに、普段、言い慣れないことを口にして、きっと恥ずかしくなっているのだろう。ちょっとむきになってくる…。俺は、おかしくなって笑い出していた。
「もう、何笑ってんの?夏目漱石だって言ってんじゃん!」
「わかったわかった…夏目漱石な」
「有名なんだからね、このくどき文句!」
「知ってる知ってる…」
「絶対知らなかったよね?」
「知ってるって…『月がきれいですね』だろ?」

口にした瞬間、思い出していた。
このセリフを、どこで聞いたのか…。
あれは、国語の授業中。
 「この暗号のようなセリフは、隠語だと言ってもいいのかもしれません」
あの顧問が、そう言っていたのを…。

【御礼】ありがとうございます♥