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Moon sick Ep. 20

姉と僕は、幼い頃に両親が離婚してから、ずっと離れ離れで暮らしていた。

僕は父に、姉は母に引き取られていた。
父の葬儀の日に、ひさしぶりに顔を合わせた時には、別々に暮らすようになって、もう10年近く経っていたせいか、幼い頃のおもかげなんて、微塵も感じなかったし、血のつなががあるとはいえ、急に顔を合わせたばかりのこの成長した姉が、自分の姉なのだということに違和感しか感じなかった。

誰かに口にしたことは無かったし、葬式でも涙を見せたりはしなかったけれど、僕を、幼い頃から、男手1人で育ててきてくれた父親の急な死は、思っていたよりも、大きな心の傷となっていたようで、時々、無償に寂しくて堪らなくなる瞬間が押し寄せてきた。
 
それは、テレビを見ている時だったり、自転車を濃いでいる時だったり、家族で連れ立って出掛ける親子連れを見かけた時だったした。僕は学校に、父は仕事にと、一緒にいる時間は、そう多くは無かったけれど、それでも寄り添いながら暮らしてきたんだなということを、父がいなくなって、初めて実感していた。

まるで、いつまでも解けない寂しさの塊が心の真ん中に居座っているような感覚だった。 

急に泣きたくなって、無性に1人になりたいような、あるいは1人にはなりたくないような、そんなぐらぐらした気持ちを持て余しながら、父が亡くなってから、気がつけば、もう1ヶ月近くが経とうとしていた。


 
母や姉が暮らしていたこの町のことは、越してくるまで、何一つ知らなかったし、顔見知りも、母と姉以外、誰もいなかった僕は、言われるがままに、姉が通っていた高校に編入することになった。

どんなに辛いことがあっても、僕は、まだしばらくは生きていかなくてはいけない訳だから、いつまでも閉じこもっている訳にもいかなかった。

高校への編入試験にも、無事合格し、数日後には、家から高校まで、歩くには少し遠い距離を自転車で通うことになった。

姉は、ゆっくりとペダルを踏みながら、僕の前を進む。まだ、道を覚えきれてない僕は、その後ろを黙ってついて行く。

そういえば、こんな風に、一緒に学校に行くのは、小学校以来だなと思いながら、自転車を漕いでいる内に、ふと、ある事に気がついた。

姉の自転車を漕ぐスピードが、少し遅すぎるのだ。

時々、ものすごい勢いで、僕らを追い越していく同じ制服を着た生徒がいるのを見掛けて気がついたのだが、姉は、気にするそぶりも見せずに、相変わらずマイペースに自転車を漕いでいる。

『多分、これ、もう完全に遅刻なんじゃね?』そんな気がし始めていた。

当初、転入1日目くらいはと、母がついて来てくれることになっていたのだが、急な会議が入ってしまったらしく、ついてこれなくなったのだ。

そういえば、母が、姉に、しつこいくらいに、「くれぐれもよろしく頼むわね!」
念押していたのは、こういう意味も含んでいたのかと、今更ながらに思った…。

ひさしぶりに一緒に暮らし始めてわかったことだが、姉は生活行動の大体において、かなりスローペースな人だった。ご飯を口に運ぶスペースも、髪をとかすスピードも、そして自転車を漕ぐスピードも、恐ろしくゆっくりとした人間だった。

『こんなんで、よく今まで問題なく暮らしてこれたな…』と思いながらも、僕は、幼かった時、そんな姉が大好きだったことを思い出していた。

小学校に入学したての頃、重いランドセルを抱えて、登校班の列から遅れがちになる僕を、いつも姉は、急かすことなく笑顔で待っていてくれた。

姉は、決して、他人のぺースを崩させないし、自分のペースも崩さない人だった。

『あいかわらずなんだな…』
と、前を行く姉の背中を眺めながら、少しうれしくなっている自分がいた。嬉しいというか、懐かしい気持ちが込み上げてきた。

だが、連日、これでは姉弟、2人して遅刻常習犯になってしまう。母の悩みを増やすようなことは、出来れば避けたい。

『明日からは、二人乗りで登校する?』
って、提案してみようかどうしようか?本気で考え始めていた。

姉と過ごした高校生活は、そんな感じで比較的穏やかに始まった。

だから、そんな姉が、豹変した瞬間のことは、今でも、はっきりと思い出せる。

あれは、雲ひとつない満月の晩のことだった。

【御礼】ありがとうございます♥