大西民子『無数の耳』

この期間はかなり本を買ってしまって、積んでいる。ゆっくり、時間その他の決まりに囚われず読むという経験をすこししたと思う。何度か読みなおすということもした。人と離れ、節度のもちかたをそれぞれに工夫し、人のいない場所を求めて行くことで自分にも周りの人にも安全をつくり出すことが出来る、という共通理解があるのが楽。はじめてのことだから失敗して当たり前、という理解があるのもすごく楽。


大西民子の歌集は、構成的で、ここにいないひとといつも一緒にいる気配があって、夢や絵のことが多く書かれている。自らの身体を夢や絵へ通じさせる回路を独自にもっているため、その回路を通り、身体を引きずってここへ帰ってきたときに何かを引き連れてくる、その引き連れてくるものを歌を書きつけることによって見せてくる。この本はずっと前からもっていて、とくに理由はなく、この期間に何度か読んだ全集だった。

みづからの重みに形撓みたるゼリーも一夜ありて凍らむ

ゼリーの型の内側で起こるこの「一夜」の間のことが、『無数の耳』という歌集には記されているんだと読んでみてもいい。

噴水の元栓をとめて人去れば森より早くこころかげりぬ

住みがたき町と思ふに三叉路は風を呼びつつ風鈴売らる

白々とひろがりやまずわが視野のはづれにありし一片の沼  (一片=ひとひら)

唇の厚き女としてゑがく画家をうとめる思ひの去らず

沼の色たちまちくらみ中空に燃えゐし雲の錆びてひろがる  (中空=なかぞら)

どの歌も、絵の前に立ち尽くす人が歌の前(歌の奥? 歌の前? 読むわたしと歌の間?)にいるみたいだと思う。画角への注意をどこかにいつも湛えているさまや、絵の前に立つことで心をよそに飛ばしているさまや。そのひとはいつもよそにいる誰かを胸に抱えており、どこかに心が囚われつづけているのだけど、どこに囚われているのか自分でもよく分からない。胸にひっかかりつづけている、ちょっと嫌な自分の心の持ち方がある。だからそれを刺激してくるものに出会ったときに、激しく動揺する、見つめようとする、捕まえようとする。怖くて撓む。自分の身体の外側から包み込もうとする型に身体と心を冷やされつつあることを受け入れながら、身をまかせながら。

何かよそのものを自分のなかに取り込み乗り越えようとする私小説的なものではなくて、ごく私的な、個人的な、日記のような感じかもしれない。なんでわたしは日記にこんなに惹かれるんだろう?


大西民子『無数の耳』(『大西民子全歌集』沖積舎)

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?